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40話




その日の夜、携帯のバイブレーションに気づき目を向けると、氷室からの着信が入っていることに気づいた。

昼間の福井との会話を思い出し、心臓がどきりと跳ねる。
何の用件…かは知らないが、きっとここで卒業パーティーの誘いをかけなければ永遠に私は氷室を避け続けてしまうような気がする。

ああ、でも…。

結局、彼を誘う覚悟をする前に鳴り続ける携帯を見ていることに耐えきれなくなり、私は半端な気持ちのまま電話に出てしまった。

「は、はい、もしもし」

いけない、緊張のあまり声が上擦ってしまった。

『…すみません。今…電話、大丈夫でしたか?』

氷室も私の変な声のひっくり返りように不信感を持ったらしい。怪しむような彼の声が聞こえてきたが、私は「大丈夫」と必死で早鐘を打つ心臓を抑え続けながら話を促した。

「どうしたの?」
『あ、そうでした。明日の午後、お時間あったら会いたいなと思って』

明日といえば、土曜日か。

「明日? 良いけど…部活じゃないの?」
『明日は午前練なんです。────実は今、アレックス…俺のバスケの師匠がこっちに来ているので、明日の14時から会う予定になっていて。この機会に水影さんにも紹介したかったので、お声掛けしました』

なぜ師匠がまだ日本にいるのかということ、なぜ私をその場に同席させようとしているのかということ、疑問は色々と尽きなかったが、とりあえず突然の誘いがこんな時間にかかってきた理由だけはよくわかった。

「師匠…って、まだこっちにいたの?」
『なんでもWCから日本各地を旅行してたらしいですよ。明日は俺と会って、明後日はタイガに会って、それからアメリカに帰るって言ってました』
「それは良かったね。…でも良いの? せっかく師匠と会うのに私が邪魔しちゃって」
『邪魔だなんて、そんな。話はWCの時も散々してますし、今回はむしろアレックスの方が水影さんに会いたがってるんですよ』

…ますます不安だ。

「…大丈夫かなそれ。私すごい人見知りする上に英語も得意じゃないんだけど…変な沈黙とか…気まずくならないかな」
『あー…それはむしろ逆方向に覚悟してもらった方が良いかもしれないです…。言葉はアレックスが日本語を喋れるので問題ないんですけど、多分…水影さん、すごいグイグイ来られると思います』

さっきから氷室から与えられる情報には不安を煽るようなものしかなかった。
一体どんな人なんだろう、アレックス師匠。

ただ先に"会える"と言ってしまっている以上、うまい断り文句をその場で思いつけるわけがなかった。氷室も私のことを知らないわけじゃない、きっと私がひどく憔悴するような状況になる前にきちんと守ってくれるだろうと判断し、結局私は承諾することにした。

『じゃあ明日14時に、いつものカフェで』

────卒業パーティーに誘い損ねたことを思い出したのは、電話を切った後になってからだった。

ああどうしよう、これは明日また改めて言わないといけないんだろうか。
でも知らない人も一緒にいるのに突然パーティーになんて誘えるわけがないし、でもこのまま週が明けたらまた福井にどやされ────って、電話? また?

切ったばかりの携帯から再びバイブレーションの振動を感じ、表示を見ると────今ちょうど嫌な方の意味で考えていた、福井の名前がそこにあった。

え、今の話まさか聞いてた?

ありえない妄想をしてしまうくらいに嫌なタイミングだ。とはいえそれこそ出ない理由がなかったため、私は再び携帯を耳元に当てる。

「なに」
『お前明日の午前暇?』
「午前中は空いてるよ」
『うち来いよ、WCの誠凛戦見ようぜ。あと弟がお前に会いたがってる』

氷室といい福井といい、一体周りにどう私の話をしているんだ。私自身が、知らない人の話を聞いても会いたいとは一度も思ったことがなかったので、わざわざ会いたいと言われるほどの話をされている…となると、どうしても珍獣のような扱いを受けているんじゃないかと疑ってしまう。考えながら、福井なら十分ありえると思ってしまった、この信頼故の不安よ…。
…氷室は逆に、私のことを異常なまでに美化していないかということが不安だ。それはそれで充分ありえる。

「弟君って…確かまだ小学生だったよね?」
『ああ、また7歳でな。可愛いぞー』
「14時から氷室君と会うから、それまでで良ければ」
『え、何、明日氷室に会うのかよ。卒パ誘ったか?』
「…誘ってない」
『誘ってねーのかよ! だからお前はいつもノロマな椎茸って呼ばれるんだよ』

ノロマはあなたからでさえ言われたことありませんけど。

『じゃ明日11時な。ついでだから昼飯も食ってったら良いわ、母さんもそう言ってる』
「え、悪いよ」
『いーっていーって。卒業前に俺が仲良くしてた奴の顔見ときたいんだって。部の奴らは何回か呼んだことあったし、実質もう残ってんのお前だけなんだよ』

まあ…そう言われては仕方ない。
実際、誠凛戦を見ようと誘ってもらえる機会は、私の方もずっと待っていた。福井の方から言い出せるようになるまで私からは何も言わないと決めていたので、ようやく彼の中でもあの敗戦が消化できたのだろうか、と少しほっとする。

ようやく部屋が静かになって、布団に入る。相変わらず明日は視えなかったが、どう考えても平穏無事に終わる気だけはしないのが悲しかった。










翌日、福井の家を訪ねた時最初に出迎えてくれたのは彼のお母さんだった。
輪郭と髪の色はそっくりだ。でも目は優しげでくりっとしていて、可愛らしい。

「はじめまして、水影冬子と言います。いつもふ…健介君にはお世話になってます」
「はじめまして冬子さん、いつも健介と仲良くしてくれてありがとうね」
「いえ、こちらこそ…あ、これ、つまらないものなんですが皆さんで召し上がってください」
「あら、ごめんなさいね気を遣わせて。健介なら今2階の部屋にいるから、階段を上がって最初の右側の部屋を開けてね。お昼ご飯ができたら呼ぶからそれまではどうぞ寛いでて」
「すみません、ありがとうございます」

階段を昇りながら、ドキドキしている心臓に落ち着けと声を掛け続ける。
友達の親と話すなんて、礼儀のれの字も知らなかった時代ぶりだ。昨日必死でネットを使い、友達の家に上がる時のマナーを検索してきたが、間違っていなかっただろうか。

…こういうところも、これからきちんと学んでいかなければ。

教えられた部屋の扉をノックすると、「冬子か?」という福井の声が聞こえた。開けてみると、ベッドにだらしなく寝転がる福井と…床に座っているミニ福井がいた。

6畳くらいの部屋。調度品はベッドと勉強机、テレビとオーディオプレーヤー。今は開け放たれて涼しい風を運んできている窓には深い青のカーテンがかけられている。あとは部屋に散らばっているバスケットボールやバスケ雑誌、そして壁に貼られたプロバスケ選手のポスターなどが彼のバスケ少年ぶりを如実に表していた。

「お招きドーモ」
「母さんの前でテンパッて変なこと言わなかったか?」
「私のことなんだと思ってんの」
「あ、冬子ちゃん?」

あながち見当外れでもない指摘にどきりとしていると、ミニ福井が立ち上がってこちらに駆け寄ってきた。
まだ7歳…と聞いていたのでもっと小さな子を想像していたのだが、顔の幼さこそ予想通りながら小学1年生にしてはそこそこ背の高い子だった(それでも私の顎下くらいまでだが)。目がくりくりしているのは母親似だと一発でわかったが、少し賢そうで、そして少し生意気そうな感じが福井(兄)とそっくりだった。

「はじめまして、冬子です」
「ほんとにかわいいね! おひめさまみたいだ!」
「…………」
「睨んでくるのは自由だけど俺お前のこと一度もお姫様みたいとか言ったことねーからな」

どっちにしろ褒められてんだからいーだろ、と適当なことを言いながら福井はベッドから起き上がった。机の引き出しから取り出されたのは、"WC 誠凛"と書かれているDVD。

「んじゃま、早速見ようぜ」

福井がディスクをDVDプレーヤーにセットする。ローディングの機械音を除いて、部屋にはしばしの静寂が訪れた。

福井は勉強机の椅子に胡坐をかいて座っている。私はベッドを使って良いと言われたのでお言葉に甘えてそちらの方に座っていた。弟君は私のすぐ隣で大人しく座っている。どうやら相当気に入ってもらったらしい。

「…あのさ」

静かな部屋で、読み込みを待ちながら福井が口を開く。

「ほんとは俺、ずっとお前に試合来てほしかったんだよな。今だから言うけど」
「…ごめん」
「いや、お前のバスケ嫌いを知ってたからこっちが誘わなかったわけだし…今色々事情を知った後で、お前がバスケのこと本当は心底嫌いってわけじゃないってわかってみても、やっぱ改めてあの選択は間違ってなかったんだなって思ってるよ。でも、もしお前が会場で俺達のこと応援してくれたら、俺すげえ頑張れるかもー…とかキャラじゃねえこと、何回か考えたことがあってさ」
「………」
「…だからちょっと嬉しいんだよな。もう全部終わった後だけど、こうやって俺達が人生懸けてきたもんをようやくお前に見せられることが」

…試合に行くという選択肢は、いつだって私の頭の中にあった。それをくだらないしがらみのせいで排除してきたのは、私の方だ。

「…うん、私もだよ」

ずっと福井がコートに立つ姿を見たかった。ずっと一番近いところで応援したかった。
勇気を出せなくてごめん。最後まで結局、応援できなくてごめん。

いつだって私の言葉はそんな考えを表現するには圧倒的に足りなさすぎる。でも福井はきっとそんなところまで含めて全部わかってくれているんだろう。彼の笑顔を見ていたら、最近はそこまできちんと確信を持てるようになった。

ローディングが終わり、ぱっと試合の画面が映し出される。
福井の手によって中継番組は編集されているのだろう、いつもだったら流れるはずのオープニングや過去の試合のハイライト、そして選手達の紹介などの部分は全て省かれていた。

いきなり出てきたのは、センターラインを挟んで並ぶ、両校の選手達。
画面越しからでも伝わる緊迫感に、無意識に息を呑む。

まずは見知った陽泉メンバー。
岡村の顔は、教室で出会った時の人懐こいゴリラのような優しい表情が完全に消え、そこにあるのはまさに歴戦の猛者と呼ぶに相応しい堂々たる風格を備えていた。
福井の顔はいつも通りだ。…いや正確には、いつも通り気怠げではあるものの、部活の話をする中でほんの一瞬垣間見せる────獲物を狙っているような嗜虐的な顔をしていた。
劉という選手の顔は初めて見た。話には聞いていたのでその優秀さはよく知っているが、実際見ると細身ながら2メートルを超える身長を持ち涼しげに立つ彼の姿は岡村とはまた違った刺すような威圧感を持っていた。
氷室の顔はよく知ってる。普段あんなに穏やかで優雅なのに、勝負が絡むと別人のように鋭いナイフのようになるのだ。おそらく、その顔が異様に厳めしいのは、火神との決戦に執着しているという理由も絡んでいるのだろう。
紫原は────省略。やる気があるのかないのかよくわからない顔ではあるが、コートに立っている時点で私は安心していた。良かった、私が捨て身で勝手に吐き捨てた約束を、彼は守ってくれていた。

とにかく陽泉のメンバーは、その恵まれた体格から想像する圧倒的な安定感に攻撃的な色を加え、"そこにいる"だけで他者を畏れさせてしまうような雰囲気を醸し出していた。例えるなら、広大な大地に深く根を差した巨木だ。

対して誠凛は────陽泉と比べてしまうと尚のこと小さく見えた。
しかしセンターの木吉は無冠の五将の異名持ちだし、幻の6人目のテツヤと、キセキと肩を並べる実力を持った火神も擁している。キャプテンの日向が地に足をしっかりつけて、どんな威圧にも負けずチームメイトに大きな背を見せているのは一目でわかったし、伊月のPGとしての優秀さは全国レベルで取り上げられているほどの実力だと聞いている。
こちらはまるで山椒のようだ、と思った。小さな新設校と侮れば、たちまちその鋭い辛さに刺され痛みを訴えることになるだろう。

互いに礼をして、木吉と紫原がセンターラインに残る。審判がボールを投げ、いざ試合開始────と思ったら、まさかの紫原によるバイオレーションで早速中断されてしまった。

「…紫原には最高到達点をよく見ろって毎回言ってたんだけどな…」
「わかるよ、中学時代もしょっちゅうそれで緑間に怒られてた」
「あー、やっぱ?」

結局試合はテツヤから伊月へのパスという形で開始した。

陽泉のスタイルは、福井から聞いていた通りだった。
圧倒的な防御体制。誠凛はさすが桐皇の速さに競り勝っただけのことはあると思わせるスピード感と鋭さをもって猛攻撃を仕掛けてきた…が、彼らの鉄壁の前には手も足も出ていない、というのが正直な感想だ。

そもそも3Pエリアは全て紫原の管轄内。本来数人で担当すべきその広範なエリアを1人で守ることが可能になるため、他のディフェンス主体の選手がより広い範囲を守り、そして攻撃にまで転じられるようになる。

正直、陽泉には桐皇のような派手で華やかなパフォーマンス性はないが、その圧倒的な存在感と安定感のためにかなり人目を引くプレーをしていた。
紫原は言わずもがな、岡村や劉の攻守ともに力強い動き、そこにいるだけで視線を奪うほど美しい動作でコートを駆ける氷室。
誠凛が攻撃を仕掛ければ同時に守る彼らの動きにもスポットライトは当たる。彼らがゴールへ走れば走るほど、陽泉の防御網はどんどん緻密になり、イージスの盾はその強度を増していく。

観客の目線はおよそそういった動きの大きな選手にばかり集まっているのが、カメラの抜き方からなんとなく察せられた。

────しかし。

よく見ていると、そこには防御網を構成する"選手"という"糸"を1人で編み上げている人物がいた。
堅固な盾の些細な錆でさえ決して見落とさず、傷つけられる前に1人で補強する人物がいた。

…福井だ。

彼は決して目立つ選手ではなかった。バスケをするに足りないほどではないにしろ、殊更大きな陽泉メンバーの中ではどうしても小柄に見えてしまう。

しかし彼の技術と視野の広さは、間違いなく一級品だった。

彼にパスを回せば、誰が次にボールを持つべきかという最適解がすぐに導かれる。
暴走しがちなパスカットやリバウンドのような予測しにくい動きにも即座に反応し、周りがたとえ一瞬その体を止めたとしても、彼の目だけは絶対にコート全体から離れない。

彼の巧みなゲームメイクがあってこそ、初めて陽泉のプレーは成立していると言っても過言ではなかった。

おそらく何も知らない人から見れば、彼らのゲームは紫原のオーラに呑まれているうちに終わるだろう。
ある程度知識のある人でも、一人ひとりの精度が格段に高い陽泉チームの中でアンセルフィッシュなプレースタイルにまで気を配る余裕はないだろう。

しかし私にははっきりとわかった。
もしかしたら私だって、単に福井に余計な贔屓目を持っているせいでようやく気づけただけかもしれない。
でも、これは紛れもない事実だ。

防御の要が紫原だとして。
まだ見ていないが、おそらく攻撃の要は氷室だとして。

…福井は、陽泉という"チームの要"だった。

「……福井、すごいね」

それは、素直な感嘆の言葉だった。
弟も横で「うん、にいちゃんすごい!」と無邪気にはしゃいでいる。

「…俺全然目立ってねえけどな」
「いやむしろここまで目立ってないのに確実にチームをコントロールしてるのは正直異常」

福井がいなかったら、岡村や劉の少し荒っぽいパスワークはどれだけカットされていただろう。いや逆に彼らは福井がいるから多少荒いプレーにも挑戦できるのかもしれない。
福井がいなかったら、気ままにプレーすることしかない紫原にどのタイミングでボールを渡すべきかと、誰が判断したのだろう。

そんな思いからつい独り言のように呟いてしまったが、福井にはしっかり聞こえていたらしい。

「…お前が言うと説得力あるな」

そして少し、照れているようでもあった。

そんな彼の貢献あって、陽泉は早々に初得点を上げた。少しだけ、気持ちが昂る。

────しかし私を本当に驚かせたのは、その後のことだった。

ゴールが入り、コート際でボールを手にしたのはテツヤ。彼は腕を大きく捻り、その細腕からは予想もできないような威力で────ボールを、コートの端から端まで風より速く飛ばしてしまったのだ。

「……え?」

予想もしなかったテツヤの攻撃的な行動に思わず間抜けな声が出る。

「何回か説明したろ、あれが黒子のサイクロンパス」

今までの試合の様子などから福井はこの技を見慣れているのだろう。なんてことのないように言っていたが、長らくテツヤのバスケなんて見てこなかった私に、それはまるで彼のボールが頭を直撃したとすら思えるほどの衝撃をもっていた。

しかもテツヤの覚醒はそれだけに留まらなかった。

第1Qを18-0で終え、2分の休憩後に始まった第2Q。

うちの十八番だと福井が言っていたツースリーゾーンの陣形で、変わらず抜け穴のない防御網を張る陽泉。
開戦早々に得点し、完全に誠凛の息の根を止めに行っているのがわかった。

しかし、その後。
木吉が持つボールに紫原が食いついた途端、彼は火神にパスを回した。おそらく紫原の反射速度をまだ完全に読み切れていなかったのだろう、火神に渡ったボールにでさえ紫原は即座に反応し、すぐにボールを挟んだ、力の押し合いになった。

ただの力比べなら紫原に勝てる者はいない────そう思った時、火神はパスを出した。

…………その先にいたのは、テツヤだった。

テツヤはボールを長く持つ選手ではない。一旦死角にいる選手にボールを回し体勢を立て直すのか、とそう思った時────

「…は? 何、あれ」

テツヤは、ゴールの方を向いていた。
まるでパスをする時のように、両腕でボールを下から支えて。

紫原も一瞬焦ったのだろう、微妙に動きが止まったものの、すぐにその反射神経を生かしボールとゴールの間に立ちはだかった。

まさか。
まさかテツヤがパス以外の────

テツヤは、ゴールに向けて強くボールを放った。
手を伸ばし、ボールを防ぐ紫原。彼の手は確かにボールの軌道上に翳されて────

「!?」

────そして、そのまますり抜けた。

「あー…何回見てもムカつくなこのシュート」
「かっけえ! ファントムシュート!」
「こら、お前は陽泉スタメンの弟だろ」

福井と弟がほのぼのとした喧嘩をしているが、私は正直それどころではなかった。

テツヤが、シュートを、決めた。
よりによって、今大会最強の防御力を誇るうちから。

脳裏に蘇るのは、中学時代のこと。
彼は何度も基礎練習をした。何度も基本の型を見直した。何度も何度も何度も何度もボールをゴールに放って、それでも入ったところを見たことがない。
青峰にいつだったか「もういっそ冬子がやってみろよ」と言われ、断りきれずボールを放ってみたらまぐれで入ってしまった時なんて、本当に気まずかった。

そのテツヤが────誰かの影でいることしかできなかったテツヤが────今、誠凛の攻撃を担っている。彼の特性はそのままに新しいスタイルを確立させたことで、その予測不能な行動のトリッキーさを際立たせている。

「…どうよ、今の黒子は」
「…別の人を見てるみたい」
「…ま、帝光でもそこそこ重宝されてたらしいけど、あいつ…きっと元はかなり好戦的な奴だろ。誠凛みたいな勢いあって攻撃的なチームには合ってたんじゃねーの」

そうか…テツヤも、新しい環境で大きく成長したのか…。
帝光の一軍に昇格した時は、どんな形であれチームとして戦えることを喜んでいたテツヤの顔を見られるのが嬉しかった。
ただ同時に、選手として注目されず、必ず誰かの影でないといけない…そうでないと生き残れない彼の選手生命に、不安を持っていた。

だからこれは私にとって、ある意味嬉しい誤算だった。陽泉の無失点記録を崩されたことは素直に悔しいが、一度はバスケに絶望してボールを投げ出してしまった彼が、再びこうして自分に一番合う環境と巡り合え、最高のチームで力を発揮できていることが、私にとっても本当に幸せなことに思えたのだ。

進学したのが誠凛で良かったね、テツヤ。

でも…

「……こういう戦い方があるってこと、赤司は知らなかったのかな」

彼らのテツヤの使い方は、常人なら誰も思いつかない努力と絆の成果だ。それは認める。
ただ、常人でない者ならば────赤司ほどの"目"を持つ者であれば、この可能性に気づかなかったわけがないと思うのだが。
赤司は最後までテツヤに影の役を求めていた。彼がテツヤにこんな力があって、それがチームの勝利を更に確実なものにするとして、それを使わない…などということをするだろうか?
…もし赤司がテツヤに太陽の役を任せなかったことに、何か別の理由があったとしたら…?

「ほら、幼馴染に気を取られてると置いてかれるぞ」

福井の声で我に返る。
そうだ、今はテツヤの成長に浸っている場合じゃない。試合は間隙なく進み、早くも頭を冷やした陽泉チームが、岡村によって簡単に失った点を取り返した。

…しかし、テツヤの完全に予想を超えた行動は少なからず陽泉を動揺させたらしい。

第2Qも半ばというところから他の誠凛選手のシュートも徐々に決まるようになり、結局終了時には17点もの得点を許してしまっていた。

「………」

インターバルの時間は、福井の編集によりカット。
しかし私はその一瞬の間に、僅かな違和感に気づいた。

「…氷室君は?」

そう。確かに彼はこれまでも鮮やかに敵のボールを奪い、シュートを決めてきていた。
でも、何か違う。

福井や紫原からの話、そして何より氷室自身から感じていた闘気に、試合がまだ反応していない。

「…これからだよ」

福井の声は静かだった。
第3Qが始まるホイッスルが鳴る。

誠凛の陣形はトライアングルツー。紫原と氷室を封じようとしているのだろうか。火神が紫原と同じように自陣のコート前を一人で守ろうとしていること、テツヤを一旦ベンチに下げたことが大きな変化となっていた。

…氷室の登場に備えているのか。

福井の言葉の意味はすぐにわかった。
テレビ越しでもわかる。氷室の雰囲気が────先程までと、明らかに変わっている。

たまに覗かせていた彼の内なる獣が、ようやく牙を剥いたようだった。

氷室は圧倒的な速さでボールをゴール下まで運ぶ。当然火神はそれを防ぐべく、腰を落として構える。しかし氷室は流れるようなシュートモーションのフェイクで呆気なく火神を引っ掛け、抜き、続く日向すら動けないほどの滑らかさでシュートを放った。

…これがどういうことか、見ている人達にはわかったのだろうか。ただ火神と日向がぼんやりしていただけと思っているのなら、それは大きな間違いだ。

彼の動きは────いつだったか私が表現した言葉を再度持ち出すなら、シルクのようだった。柔らかく、美しく、そしてすぐに手から滑り落ちてしまう。彼のその優雅さはおそらく、基本の型を徹底し、更に極限まで極めた姿にある。流れる水のように優美に、そして燃え盛る炎のように激しく。

氷室辰也のバスケは、氷室辰也という人間そのものを体現しているようだった。

「格好良いか?」

福井の茶化す声に、反応する気も起きない。
こんなの、ずるい。
バスケのように全身を激しく動かすスポーツで、まさか時を止める人間が現れるなんて思ってもいなかった。

夏のストバス大会の時でさえ、片鱗しか見えなかった。美しいな、優雅だな、そんな安直な感想しかあの時は浮かんでこなかったが────

こんなの、人間じゃない。
彼は自分の手が天井に届くと言ったが、跳んだ脚がすぐ地面に着くと言ったが、私には彼の姿が翼を与えられた美を司る天使にしか見えなかった。

「…これまた自分の世界に入ってんな。氷室はそんなにウツクシーか」
「に…人間じゃない」
「ははっ、人外宣告された」

試合の場にいて、きっとこの映像だって何度も見返してきた福井にとっては、中継映像より私の反応の方が面白かったのだろう。ましてや私は一応無敵と呼ばれた帝光の元マネージャー。微かな試合の流れや変化でさえある程度のところまでなら理解できるため、彼を満足させるポイントはそれだけ多かったに違いない。

そして、誠凛側から再開された試合のボールは、またなぜか氷室の元へ。
二度も同じことをさせるかと言わんばかりに火神は食いついたが────

氷室のシュートは、火神の伸ばした手をすり抜けてゴールに入った。

「!」

あれは…幻影のシュート!?
いや違う、何か違う。

幻影のシュートはやけにシュートの軌道が高かった。
しかし、これはさっきまでと同じ、完璧な基礎の型に当てはまった完璧なシュートだ。
それがなぜ、あんなに背の高い選手の手をすり抜けていったのか────?

「あれな、陽炎のシュートってんだ」

混乱する私に福井の解説が入る。

「お前は陽泉の人間だからもうネタバラシするけど、あいつはあの一瞬で2回シュートを放ってる」
「2回…シュートを…?」

そんなことができるのか。遠目ではよくわからないが、あれは誰がどう見たって一度しかシュートモーションを起こしていない。

「すげえだろ。1回目で完璧なシュートモーションから直上にボールを放り、2回目で実際のシュートを打ってんだとよ。だから相手からすれば蜃気楼に見えるそのボールも、真実を紐解けばジャンプのタイミングが合わないだけの凡ミスってわけ。しかも氷室は…見りゃわかると思うけど、全ての動きが教科書以上に完璧だ。相手の動きに合わせてその完璧なフォームのまま、1回目でも2回目でもシュートを打つことができる。実は仕組み自体の種を明かすのはそう難しくねえんだけど、わかったところで防げないシュートなんだよな。性格悪いあいつらしい技だよ」

曲者、という言葉が頭に浮かんだ。

普通の人間の域を超えられない秀才が、血の滲む努力の末に手に入れた技。
今それは、天才である火神を完全に出し抜いた。

今更ながら、彼のバスケに懸ける熱はどれほど熱かったのだろうと思い知らされる。
知らず、私は呼吸を忘れていた。

結局火神は氷室の動きを止めることができず、一旦ベンチに下げられることとなった。

「俺もあそこまで執念深い奴は見たことなかったよ。一体どんだけ悔しい思いして、どんだけ立ち直ってきたんだろうな」
「…そうだね」

誠凛はその後、木吉をPGに据えるという奇想天外な策で試合を再開してきた。
火神を引っ込めたことで大幅な戦力ダウンを予想していたが、だからといって引く気はさらさらないらしい。

陽泉メンバーの僅かな動揺が見て取れる。
再開早々木吉が3Pシュートを与えたことも、彼らには嫌なプレッシャーとなっていたのだろう。

────紫原の様子が、おかしかった。

見たことのない布陣、そしてPGという慣れていないはずのポジションを巧くこなす木吉の攪乱により、彼らは誠凛に連続得点を許してしまう。

「…それにしても、紫原の動きが悪すぎない?」

なんだか、木吉の挑発にわざわざ乗りに行っているようにさえ見える。
他の選手は一瞬戸惑いこそすれど、すぐに対応しそれまで通り誠凛の動きを封じに来た。
しかし肝心の紫原がうまく機能していないのだ。木吉の明らかなフェイクにさえ引っ掛かり、なんと直球勝負に負けダンクシュートを許してしまうまで至っている。

「多分…あの辺りで紫原、木吉に何か挑発されるようなこと言われたんだと思う」
「挑発されるようなことを…"言われた"? プレー自体の話じゃなくて?」
「まあプレーもあれ完全に挑発してっけど…元々木吉みたいなタイプは大嫌いだからな、紫原。あいつはそれも織り込んで、おそらく紫原に何かを仕掛け続けたんだろうさ。つくづく食えねえ奴だわ、木吉鉄平」
「…無冠の五将は伊達じゃないってことね」

結局、氷室の鮮やかなプレーで試合の流れを持って行っていた陽泉の方が、今度はタイムアウトをとる羽目になった。
その時点での点差は、37-28──── 一桁台まで、詰められていた。

タイムアウト後、火神がコートに戻ってきた。PGは依然木吉のまま。つまり誠凛にとっては、有利だった状況に更に火力を加えてきたというわけだ。

…陽泉が、劣勢に立たされているのを感じる。

火神はベンチで何かをしたのだろうか。氷室に対する迷いが一切消えたとでもいうように、彼の完璧なバスケを崩した。その後一度紫原にシュートを阻止されたものの、再びそこで氷室と対峙した時には────彼の陽炎のシュートさえ、防いでしまった(いや、これは本当に意図して防いだものだろうか?)。

そうして次に映し出された電光掲示板には────37-37。
彼らが負けたという結果は知っていたので、このタイミングがどこかで必ず来ることは知っていた。

知っていたのに、驚いてしまう。
予想していなかった、第3Q中における同点という展開。

しかし、私はその局面に至っても大して落胆することはなかった。

「────…」

なぜなら今の状況は、帝光が育てた化物を目覚めさせる"良い薬"でしかなかったからだ。
こちらとしては、あれだけの覚悟を持って送り出したわけなのだから、もっと早く起きてほしかったくらいなのだが────まあ、それについては結果オーライということで不問にしよう。

「冬子、お前…紫原が本当はオフェンス向きって知ってたか?」
「もちろん。今まで正直いつになったら出てくるのかって、そっちにヒヤヒヤしてた」
「俺はな、バスケを見てるお前の目が予想以上に怖くて今ヒヤヒヤしてる」
「は?」
「よくそれでバスケ嫌いって出任せを2年近く通せたな」
「え、そんなに今の私気持ち悪い?」
「かなり。…紫原がキレてんの見て笑ってるやつなんて、俺初めて見た」
「やだ無意識…お行儀が悪いですわね」
「うるせえよ。つかそんくらい食い入るように見てくんなきゃそもそも家まで呼ばねえし、こっちからしたら予想以上で嬉しいわ。そのまま目ん玉かっぽじってよく見とけ」
「目ん玉かっぽじったら何も見えない…」
「うるせえよ。いい加減お前うるせえよ」

私達がくだらない言い合いをしている間に、紫原は完全に覚醒したようだった。
木吉や火神の存在、陽泉が追い込まれるという大会初の状況に、完全にキレているのがわかる。

彼の狭い"やる気を出せるストライクゾーン"に、お手本のようにハマッてくれたみたいだ。

マークなんて誰がつこうが関係なし。固いコートからまるで粉塵を撒き上げるかの如き勢いで、ボールをゴールに叩き込む。
…あ、リング壊した。

正直ここまで陽泉のプレーやテツヤの成長に驚かされることばかりだったが、紫原に限っては完全に予想通りだった。彼は確かにバスケがそこまで好きではないが、何より負けることが嫌いなのだ。負けを前にしたら、"大して好きでもない"バスケへの感情なんて完全に塗り替えられる。

紫原の猛攻は止まらない。木吉のバイスクロー(と福井が呼んでいた)でさえ簡単に模倣し、追いついた誠凛を再び突き放す。

────と、それまでも調子が悪そうに見えた木吉がその瞬間、完全に膝をついてしまった。

氷室から、木吉は元々膝に爆弾を抱えているのだという話は聞いていた。この試合中も危なっかしい場面が何度かあったが、彼はそれを気力でなんとか耐えてきたのだろう。しかし序盤から誠凛の守りを司り、中盤では慣れないPGも務めてきた彼の体は、とっくに限界を迎えていたようだった。

木吉に手を差し伸べた紫原だったが、その様子に全く慈悲や同情は感じられなかった。

ここだ、こういうところなのだ。私が彼らを理解できないのは。

化物として覚醒するのは良い。圧倒的な力で自チームを勝利へ導くことも良い。
ただ彼には、相手の事情を汲むという感覚が決定的に欠けていた。怪我をしてなおチームを守りたがっている選手の気持ちなんて知らない。ただ自分を怒らせたんだからそんなところに這いつくばっていないで立てと、彼はこの時そんなことくらいしか考えていなかったのだろう。

────それが、私以上にテツヤを怒らせるような行動だと、知りもせずに。

ようやく化物が起きたと思ったのになあ、と私は頭を抱えたくなった。
せっかく満を持してオフェンスに参加した紫原だったが、彼の幼稚さは逆にテツヤの逆鱗にも触れてしまったようだった。

試合の流れが、再び変わる。

テツヤの怒りを中心とした誠凛のフォーメーションは、オールコートマンツーマンディフェンスの形へと移った。誠凛のようなアグレッシブなチームでこういった戦術をとっているのを見るのは、なかなか珍しい。

結局その後彼らはまたもやテツヤの奇策に嵌り、第3Qを47-43という形で終えた。

ここで実際には2分間の休憩が入るはずだが、その時間はまた福井の編集で切れている。一旦息をつき、第4Qに備えた。

第4Q、誠凛がとってきたのは────ツースリーゾーン。
大方うちの紫原のスタイルでも模倣するつもりだったのだろう。中を火神一人が守っている…が、火のついた氷室と紫原の猛攻には耐えられなかったようだ。
氷室の陽炎のシュートは破れず、テツヤの幻影のシュートは成功率100%の技ではない。

誠凛のオフェンスは、徐々に崩れ始めていた。

しかし、この危機的状況が────逆に彼らの何かを変えたのだろうか。

残念ながら私は誠凛の選手について、テツヤ以外は無知としかいえない。辛うじてわかったのは、何かしら火神の雰囲気が変わったということと────ある時点から、彼の反応速度が飛躍的に上昇したということだけ。

「これ…まさか、噂に聞く…」
「ああ、何が着火剤になったのかは知らねえが、火神はここでゾーンに入った」
「ゾーンって…初めて見た…」
「え、青峰とか普通に自力でゾーンに入れるとか聞いたけど」
「いや、私もうその頃にはあの子達のことまともに見てなかったから」
「ああ…」

陽泉は火神の異変に即座に気づいたようだった…が、気づいたところで止められるものではなかった。先程まで手も足も出なかった陽炎のシュートは今度こそ完全に止められ、紫原の攻撃技"破壊の鉄槌"ですら火神に阻まれる。

更に、火神が見せたのは防御に対する反応速度だけではなかった。
福井からの事前情報として、火神は"跳ぶ力が強い"ということは聞いていた────が、彼は第4Q残り3分にして、驚異的なその身体能力の高さを見せつけてきたのだ。

通常より遥か遠い場所からの、ダンクのモーション。届くはずがない、と私含めきっと誰もが思った。飛んで防御に入ったのは氷室。しかし────彼は、自分より後に飛んだ氷室が着地した後もなお空中に留まり続け────それは、"プロの試合で見られるほんの一握りの奇跡"でしかなかった"エアウォーク"────遥か遠くから空中を歩くように跳躍し、豪快なダンクシュートを決めてみせたのだった。

伸ばした手が、天井に触れてしまうんです。空を飛ぶつもりで跳んだ足は、すぐに着地してしまうんです。

いつか、氷室がそう言っていたことを唐突に思い出した。あの時はただの比喩として受け取っていたが────まさか、現実のものになるなんて。

氷室はこのプレーをどう思ったのだろう。まさか幼馴染の成長を喜んだりはしまい。
彼は、そんな能天気な人間じゃない。

陽泉は即座にタイムアウトをとった。
個人的にも、ここで一旦中断してくれたことには正直ほっとしたところがある。氷室の胸中を思うだけで、私まで苦しくなりそうだった。とはいえこういった試合と関係のないシーンは福井の編集で消えているはずなので、こちらの心は休まるわけがない────と、思った…のだが…?

「…あれ、ここ飛ばしてないの?」
「悪い、俺らのベンチが映ってたから…自戒のつもりで残した」

福井の言葉が一瞬理解できず、画面に目を向ける。
カメラは陽泉ベンチの様子を映していて────ああ、紫原がイヤイヤモードに入ってる。報道陣にはわからなかったのだろう、ただ上を向いて息を整えているだけに見える紫原だが、内輪の目線で見ると完全にやる気が消失していることがわかった。どうやらあまりにも強かった誠凛の勢いのせいで、やる気のストライクゾーンを外れてしまったらしい。厄介なことだ。私の怪我を返してほしい。

…もしや、このせいで彼らは負けたのか? だから福井は自戒なんて────

ガンッ

その瞬間、小さいが…しかし確かに、人が人を殴る音が聞こえた。

「…は?」

殴られたのは紫原。そして────殴ったのは、氷室だった。

「え、何これ」
「俺も驚いたよ。紫原が才能に胡坐かいてることに氷室がずっと怒ってたの、お前知ってたか?」

────ああ、そういうことか。
そりゃあそうだ。当たり前だ。

「…知ってたんだな」

福井の呟きはまるで独り言のようだった。

そうだ、私は彼のそこに込められた感情をよく知っている。
特別になりたい彼と普通になりたい私。ベクトルこそ違えど、私達はよく似ていたから。

どれだけ頑張ってみたところで、そんな努力など遥かに凌駕する絶大な力があることを彼は知っている。"限界なんてない"なんてただの綺麗事で、現実は限界だらけだ。どんな人にも等しく時間は流れているはずなのに、それぞれの人が必要とする時間は全くもって不平等なままだ。

私は彼の怒りをよく知っていた。
紫原を可愛がりながら、その裏で両者を隔てる絶対に超えられない壁を感じ、気が狂いそうになっている彼の嫉妬の炎を知っていた。
火神を大切に思いながら、その裏で時間を経れば経る程に開いていく実力差を思い知り、そして遂に先程とどめを刺されてしまった彼の劣等感をよく知っていた。

むしろ彼はよく今まで抑えていたと思う。
彼がこのタイミングで紫原を殴るのは────私からすれば"驚くことでもなんでもない、当たり前の行動"でしかなかった。

もちろん人を殴ることを肯定するわけではない。
ただ、ただ────彼のこの気持ちを少しでも良いからわかってくれと、そう願ってやまなかった。

その後、彼らがどういう会話をしたのかはわからない。
ただ、紫原は監督からヘアゴムを借りて髪を括っていた。

…その動作だけで、氷室の必死の想いが紫原にどう伝わったのか…理解できたような気がした。

第4Q、残り3分。

紫原は、本当の意味で覚醒した。

氷室の陽炎のシュートのモーション。火神は即座に反応し腕を伸ばした────が、彼は即座に紫原にボールを渡した。そのボールでさえ火神との押し合いになるが、第1Qで力任せに競り勝ったはずの紫原は、力を巧く抜き────再び、ボールを氷室に返した。

それはまるで、中学2年までの頃と、同じような────。

「紫原が…連携プレーを…?」
「ああ、俺もこいつらがこんなプレーをするのは初めて見たよ。つーか俺的にはこの後の展開がムカつきすぎてちょっと感動薄れたけどな」

福井の言葉を受けて画面を見ていると、────ああ成程。
先程伊月に代わりPGを務めていた木吉。そのポジションが、今度は火神に移っていた。

彼の今までのプレーを見ていると、あまり司令塔が務まるような選手ではないと思うのだが…。しかしゾーンに入った状態の火神は、そんなこと全く関係ないと言わんばかりの視野の広さと圧倒的な身体能力をもって…たった1人で、誠凛のゲームメイクをしていた。

対する我が陽泉は…驚いた、あの絶対防御型チームが、初めて取る紫原との連携プレーを駆使して、チーム総出の猛攻撃に徹している。
残りは1分。誠凛には再び木吉が投入されたようだが(彼はそもそも試合に出られる状況なのか?)、これがどう試合を左右するか────。

しかし私はそこで嫌な事実を思い出してしまった。
試合後、氷室から聞いていた最終スコアは"72-73"。

試合終了目前のこの時点で、既に画面には"72-68"と表示されていた。

…つまりこれ以上、陽泉は点を取れないということ。

それでも私は画面から目を離せなかった。落胆して肩を落とすことが、できなかった。
久々に見るバスケの試合に魅入ってしまっていたのだ。全員が総力を挙げてぶつかっていく様に、彼ら1人ひとりがこの試合に懸けている思いが透けて見えるようで────。

最後の砦と思われた木吉の投入は効果覿面だった。それまで誰も破れなかった氷室と紫原の連携が彼によって徐々にではあるが崩されてきているのだ。
…陽炎のシュートは、木吉には効かなかった。

残り30秒、スコアは72-71。
陽泉の美しい連携プレーにより紫原の破壊の鉄槌が再び放たれようとするが、ここでまたしても火神が立ち塞がった。何度目か知れないボールの押し合いだ。

そこで私は、とある違和感に気づく。

────紫原の様子が、何かおかしい。

確かに彼は元から力が強く、足も速かった。普通の力比べなら、彼に勝てる者など誰もいないだろう。ただ先程火神がゾーンに入ったことで、初めて紫原を止めようとしていた。あのまま圧し合いをしていたらきっと紫原は負けていた、だから彼もそこで氷室にパスを出すことで、火神との真っ向勝負を一度避けたように見えた。
紫原はあの時、確実に"競り負ける"ことへの嫌悪感を覚えたはずだ。

それが今は────全く退く気配がない。それどころか…ゾーンに入った火神に、圧し勝とうとしている…?

これは、まさか────

しかし結論を出すより先に、木吉が後ろから火神を援護した。2対1の勝負は紫原の負け、ボールは火神に渡り、カウンターのためコート端へと一瞬で駆け抜けていった。

しかし…まただ。
紫原の速度が驚異的に上がっている。火神がシュートモーションに入るより早く、紫原は火神の前に立ち塞がった。

「…紫原が…」
「ゾーンに入った」

私の声にならない言葉は福井が引き継いでくれた。

────紫原は、おそらくキセキの5人の中で唯一ゾーンに入る資格のない人間だった。
バスケのことが嫌いだと何度も言っていた紫原。勝負など面倒だと何度も放り出していた紫原。
私も中学時代の彼らがゾーンに入った様を見ていたわけではないが、いつかまたバスケが好きになれる時が来れば、きっとゾーンに入るのだろうと予想くらいはしていた。ただ、紫原だけはどれだけ時間が経っても絶対にゾーンに入れるわけがないだろうと…バスケのことなんて、絶対に好きになれないだろうと…そう思っていた。

それが、今。

「…あの子は、何のために戦ってるんだろう」
「さあ。自分のためじゃね」

何が紫原をゾーンに入れたのだろう。自分を超える好敵手の存在? ここまで付き合ってやってきたバスケを否定されることへの怒り? それとも────共に戦ってきた、初めて"共に"戦うことの意味を知った、チームへの想い?

わからない、わからないが────

「ちょ、冬子、なにお前泣いてんの?」

その瞬間、我慢していたものが決壊した。
そりゃ、話でしか聞いたことはなかったけど。それでも私は2年近くずっと、他でもないチームの要の傍でずっと彼らの戦いを追ってきた。私自身は逃げてばかりだったけど、彼らが勝利のためにまっすぐ前だけを見て走っているその様を、ずっと嫌がりながら────それでも、どうしても消えない憧れを持って見ていた。

福井の熱情。
氷室の覚悟。
そこに紫原の本気が加わって────今の陽泉に唯一欠けていたピースがようやくはまってくれたような気がした。今の陽泉が、誰から見ても"完全な存在"になったような気がした。

その直後、火神は人間離れした跳躍力を再度見せ、まるで流星のような激しいダンクシュートを叩き込んだ。スコアは72-73。
試合はこのまま終了するはずだ。

しかし彼らは諦めなかった。氷室が紫原にパスを回し、紫原は一直線にゴール下へと走る。
そして彼は深く屈みこみ────────そのまま止まった。

おそらく木吉や火神の相手を何度もした結果、無理な跳躍が重なったことによる限界が体に来たのだろう。私にもなんとなくその背景は見えた。
それでも、それすらも、紫原を止めることはできなかった。

跳べないなら放る。誠凛は誰も今の紫原について行けない。そのシュートは、決まる。

そう、誰もが思っただろう。

────テツヤがいなければ。

きっとその場に"紫原が跳べない"なんて予想できた人はいなかっただろう。こんなに早く、そして突然に限界を迎えるなんて誰も考えられなかっただろう。

……こういうところなんだよなあ。

未来は変わらないよと何度も言った私に、無邪気な顔のまま「それでも僕は変わる未来を信じてます」と言ったテツヤ。
彼は、万一の可能性を捨てなかった。誰よりも、諦めなかった。きっと誰もが絶望したその瞬間でさえ、未来を変えられると────本気で信じていた。





試合は、終了した。





「最後のはマジでしてやられたな。すげえよ、お前の幼馴染」
「……」
「でも紫原はゾーンに入るし、氷室が思った以上に熱い奴だってこともわかったし、俺達全員全力でやれたし、後悔はねえよ」
「……」
「冬子、だから泣くなって。な? 何がお前の琴線に触れたんだか知んねえけど、俺らみんな…誠凛の奴らも含めてみんな、ガチだったんだよ。その結果こっちが負けた。だからもう良いんだ」
「そ…そんなこと言ったって…」

自分でもなぜ涙が止まらないのかわからない。悲しいのかと問われたら少し違う気がするし、嬉しいなどと1ミリも思うわけがない。怒っているのでもないし、悔しい…のはあるが、なんだかそのせいで泣いていると納得するにも違和感がある。

「冬子ちゃん、泣かないで」

弟が優しく涙をティッシュで拭いてくれる。しゃくりあげながら礼を言い、福井に何と言葉を掛けようかと考えて────結局言うのをやめた。

多分、だけど。
私は何もひとつの感情で泣いているわけではないんだと思った。
それこそ陽泉のパズルピースが全てはまった瞬間涙が流れてしまったその状況のように。色々な感情が胸の中でごちゃ混ぜになって、頭の中にあまりに多くの思考が、過去が、そして彼らへの想いが溢れかえってしまって────未熟な私には、それを理性で処理することができなかったんだと思う。

ただこれ以上泣いたって福井を困らせるだけだ。
一生懸命涙が止まるように胸に手を当てながら、大きく呼吸をした。

「福井」
「お、おう」
「私、何も言わないから」
「おう…?」
「察して、私何も言えない」

なんて無茶で自分勝手な注文なんだろう、と昔の私だったら自分の言葉をそう諫めただろうか。

でも、今の私は。

「…俺はお前の神様で、友達で、別居中の旦那だぞ。最初から全部お前の言いたいことなんて全部わかってるよ」

…福井がそう返してくれることを、とっくのとうに知っていた。











福井の編集もあって45分程度にまとめられた録画再生が終わった頃、福井のお母さんの「ご飯できたからキリの良いところでいらっしゃい」という優しい声がかかった。
福井と弟に背を押されながら階下へ行くと、パンと野菜、チキンの照り焼きにスープまでワンプレートに乗った可愛らしいランチが用意されていた。

「わ、可愛い…」
「女子が来るからって朝から張り切ってたもんな」
「そうなの! もうこんなの小学校ぶりだったからつい嬉しくって…って冬子ちゃん、メイク崩れちゃってるけどどうしたの? 健介が何かまた意地悪言った?」
「いつも言ってるみたいに言うなよ。言ってるけど」
「あっ違うんです、これ…試合見てたら感動しちゃって…」

日頃意地悪を言われているのは事実だが、いわれのない理由で福井が怒られてはいけないと、慌てて事情を説明する。
すると福井のお母さんは、優しく微笑んでくれた。

「…そうなの。ありがとう、最後まで見届けてくれて」

その笑顔は、福井にとてもよく似ていた。



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