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39話




冬休みを終えてから学校に初めて登校した時、私がまだ松葉杖をついていることに福井は相当動揺していたようだった。
氷室の話を聞く限り福井はすっかり私の容態について安心してくれているものだとばかり思っていたので、逆にその反応でこっちが驚いた。

「お前学校来て大丈夫なのか!?」
「大丈夫だから来てるんだよ」
「いやだって足…それ、折れてんだろ」
「スポーツマンならだいたいわかるんじゃないの? そりゃ完全に治るまでにはもうちょっとかかるけど全然たいしたことないよ」
「いやスポーツマンだから言ってんけど」

相変わらず過保護だなあ、なんて思う。

なんであのタイミングで東京に来たんだとか、偶然紫原の事故未遂現場に居合わせた…こと自体は偶然としたって、なぜそれをするだけの好意も義理もないような後輩を命懸けで守ったのかとか、そういうことは一切訊かれなかった。

福井ほどの人ならその違和感に気づかないわけがないのに。

氷室や紫原辺りから何か適当な作り話でも聞かされているのだとしたら、うまく口裏を合わせられるかと不安に思ったので、事前に氷室にその辺りのことも訊いておいたのだが、

「…え、俺からは特に何も。アツシは早めに見にきたかったから東京に来たとあなたから聞いた、とだけ言ってましたが…水影さん、アツシに口止めしたでしょう。何か隠してるのだけはバレバレなのに、最後まで言いませんでしたよ」

と返ってきたのみだった。紫原の様子がおかしかったなら、尚更福井の疑念広がって当然だろうとばかり思っていたのだが…。

能力のことは福井にだけは絶対に知られたくなかったし、ましてそれすら今や失われたことで本物の凡人になれた私からしてみれば、彼の不詮索スタンスは本当にありがたかった。流石に今回こそ逃げられないかもしれないと思っていただけに、何も尋ねてこない福井の様子には逆に疑問を持たないでもないが、私はまたしてもいつものように彼のその不自然な厚意に甘え続けている。

「紫原のこと、ありがとな」
「…ううん、偶然あの場に居合わせて良かった」
「俺からしたらお前のその状態見て良かったとはとても言えねえけど…病院にいたなら俺達の試合、見てねえだろ。せっかく来てくれたってことはバスケを見る気持ちにやっとなれたんだろうし、今度家で録画してる中継見せてやっからな」
「うん、楽しみにしてる」

朝の会話なんて、その程度だった。
そして始業式を兼ねたLHRが終わる頃には、彼の態度はすっかりいつも通りに戻っていた。

「なあ冬子ー」

登校時こそ緊張していたものの、どうやら本気で福井には細かいところまで踏み込む意思がないらしいと流石に悟った私も、いつも通りの平静さを取り戻して福井の雑談に応じる。

「何?」
「お前さ、センター対策とかってもう粗方終わった?」

無事バスケ部を卒部した彼らが次にその視線を向けるのは、既に間近に迫っている受験のことだった。その確かな実績を買われ大学側からのオファーも数件来ているそうだが、福井はひとまず通常通りの試験も受けるそうだ。
もちろんうちはミッション系という特徴こそあれど、別に特別賢い進学校というわけではない。専門学校に進む生徒やそのまま就職する生徒だって多いし、福井のように授業の成績以外の部分で実力のある者は、むしろ受験より推薦で進学していくのが普通だった。

…ひとえにその全てが努力によるものだとわかってはいつつ、選択肢が多いのは素直に羨ましい。

「粗方だろうがなんだろうが終わりとかはないけど…とりあえず一通りのことはやったから、あとはまだ解いてない過去問をひたすらやるくらいかな」
「志望校は?」
「え、言わないよ恥ずかしい」
「お前いつもそれじゃん。なに、国立とか狙ってんの?」
「狙ってても狙ってなくても言いません。福井こそどこ行くの?」
「うーん…バスケ推薦で行くにしろ自力で行くにしろ、上京する…んだろうな。秋田はちょっと大学が少ねえ」

確かにそれはその通りだ。
県内あるいはその近郊でもやりたいことがやれるような人なら、無理に遠くの学校を受験するようなことはない。
しかし私達のようにまだ将来を明確に決め切れていない者達は、必然的に環境設備の整いやすい都内校を狙うことが多い。
だから私も、こちらに来た段階でもう既に大学進学の際は東京に戻ろうと朧げに考えていた。

大学の数が圧倒的に多い東京。しかも各校の生徒の人数も相当多く、そもそも学部の数も理解できないほど多い。
そうでなくともそもそも私は"訳"あって卒業後は知り合い全員の前から姿を消す算段でいる身。氷室だけでなく、福井ともこの先会うことはきっとないだろうということは、最初からわかっている。わかっているというか、そう決めている。

ただ、それでさえも。

このなんでもないような毎日が終わってしまうのは────少しだけ寂しいな、と思った。

「他の部活のメンバーはどうするの?」
「知らねーよ。ゴリラは推薦狙いみたいなこと言ってた気がするけど…レギュラー以外はあんま大学の方から声かかるってこともないし、普通にWC中から受験勉強と並行してた奴も多かったな」
「あー…大変だね、強豪校だと部活から抜けるわけにもなかなかいかないだろうし」
「高校受験の時とかどうだったよ? キセキが全員オファーを受けての進学ってのは聞いてたけど、それこそ二軍以下の奴らとか大変だったんじゃね?」
「そりゃもう地獄絵図。部活は当然手を抜けないし、かといって部活にばっかりかまけてたら未来は破滅だしで、結構メンタルやられてた子も多かったよ」
「だろうなー…」

勉強の面倒を見てほしい、と勇気を出して話しかけてきた後輩も何人かいたことを、今になって思い出した。
消し去りたいとばかり思っていた過去の話をこうして誰かと普通にできるようになったことが嬉しい。そしてそれを"普通の話"として扱ってくれる福井の自然体な雰囲気が、私は大好きだ。

受験の話、学期末テストの話、卒部式の話…ととりとめもない雑談が続いたところで、話題は卒業式と同日の午後に行われる卒業パーティーへと移った。

「そういや卒業パーティー、お前氷室のこと誘えば?」

我が校では、卒業式の後に卒業生全員を主賓とした完全自由参加の卒業パーティーが開催される。

普段体育の授業でしか使わないような規模が小さめの体育館を貸し切り、立食形式で飲食を楽しめるようになっている。一応形式的に偉い先生の話なども入るが、儀式としては既に午前中の卒業式で終わるため、どちらかというとイメージは披露宴などの二次会の方が近いといえるだろう。

自由参加のイベントに去年までの私が行くわけがないので詳細は知らないものの、福井から聞いた話によると、10年程前の女子生徒を中心とした卒業生が自分達で企画書を用意、必要資金の寄付を募った上で職員にプレゼンまでして立ち上げた行事なんだそうだ。

クラスを超えた卒業生同士の最後の交流、という目的が主となっているが、去年先輩を見送るために参加したという福井に前年度のパンフレットを見せてもらうと、どうにも"綺麗なドレスを着たい"、"好きな人に話しかける最後の口実を作りたい"という高校生らしい願いが透けて見えるようだった。

服装はパーティースタイル。基本的に3年生が対象ではあるが、卒業生側からのお誘いがあれば下級生も参加自由(つまり下級生側から"私を招待してください"と言って受諾されても"お誘いがあった"とみなされるため、企画段階では"最後のチャンスに憧れの先輩と一時を過ごしたい"と願う後輩からの支持も厚かったらしい)と書かれている要項を見て、よくもまあこんな人間の坩堝に進んで飛び込みたがるものだな、とつい顔をしかめてしまったことを思い出した。

それに、行けと? しかも氷室を誘って?

「なんで」
「なんでも何も、好きな奴誘ってめかしこんでパーティーするとか最高のシチュエーションだろ。それに、」

福井の言葉は止まらない。

「…お前、卒業したら氷室と縁切るつもりだろ」

怖気付いている私に発破をかけたがっているだけだと思って話半分でしか耳を傾けていなかった私は、彼の言葉の続きを聞いた瞬間、強く頭を殴られたような衝撃を感じた。

…気づいていたのか、私の目的に。

私は福井に「氷室君のことが好き」と伝えた時、「何もアプローチする気はない」としか言わなかった。
それは説明するのが面倒だったせいもあるし、この"必ず終わりが来る感情"を自分でも恐れているからだと話したところで理解してもらえないだろうと考えていたせいもある。

そう、恋には必ず終わりが来る。せっかく生まれたこの感情が、悲しい形で消えてしまうことの方が私にとっては辛いのだ。
だから私は卒業したら、氷室と完全に縁を切るつもりだった。美しい思い出のまま、心の小さな宝箱の中にしまっておきたかった。

氷室もそれなりに私のことを慕ってくれているというのは流石にわかっているが、だったらなおのこと一緒に居続けたくはなかった。一緒にいて、徐々に冷めていくその温度に耐えられるとは思えなかった。
とにかくこれ以上共に過ごす時間を増やしたくなかった。
思い出を増やして、私という存在を彼の中に残したくなかった。

1年だけで良い。彼の長い人生のたった1年という短い時間の中に「そういえばそんな人もいた」という程度の思い出が残ってくれれば万歳だ。

そして同時に、私はその"別れ"を私自身にとっても好機だと捉えていた。
つまりこの卒業は、こんなに拗らせてしまった"今までの自分自身のしがらみ"からも全て、完全に卒業できるタイミングなのではないかと。

だから氷室だけでなく、私は誰にも行き先を告げず卒業することを選んだ。
訳あって進学先を福井にすら伝えてこなかったというのは、そういう理由からだ。

この優しい人はきっと私のその決断を怒ってくれるのだろう。もしかしたら探してくれさえするかもしれない。私だって福井のことは地獄の底に蜘蛛の糸を垂らしてくれた釈迦のような人だと思っているのだから、そんな聖者とこのまま別れてしまうことに後悔がないわけない。

でも…ごめん。

まず私にとって"恋"というものは、思っていた以上に恐ろしい感情だった。
優しくて甘いのに、それ以上に辛かった。辛いのに、胸の中から消えてくれないのが怖かった。

立つ鳥は跡を濁してはいけない。半端な形で未練を残したまま秋田を去ってはいけない。
「もうこの話は終わり」と自分でしっかり自覚できるまで全てを消化してから、文字通り"存在"を消してしまわなければ、私の中でとても踏ん切りがつきそうになかった。

別にね、決して福井より氷室の方が大事ってことではないんだよ。
決して氷室への感情を優先して福井との友情を捨てるわけではないんだよ。

そう、何も私が黙って消えるつもりでいるのは、氷室のためだけじゃない。
先程も挙げた"自分自身のしがらみの清算"、これは彼への恋心の隠匿と同じくらい、私にとって大切な意味を持っていた。

だって私は、今まであなたに縋りすぎてしまったから。
私達は友達というより、私があなたを神格化しすぎてしまったから。
やっぱり対等な立場で付き合い続けるには、もう少し時間がかかるんだと悟った。

もちろん彼らからもらった感情を捨てるつもりはない。
彼らのお陰で過去とも未来とも向き合えるようになった私は、きっとその感謝の気持ちを一生忘れない。

でもむしろ私は、そうやってなんとか多くのトラウマから脱皮できた私が本当に"生まれ変わる"ために、また人生を一からやり直したいと思ってしまった。まだ無邪気に笑えていた、もう思い出すのも難しいほど昔の幼い頃までリセットしたいと、そう思ってしまったのだ。

だからもっと私が大人になって、自立して、心から未来を信じて笑えるようになったら────その時にもしあなたが許してくれるなら、その時初めてようやく同じ目線で立ちながらもう一度再会したいと────誰よりも大切な友人に対しては今、そう思っている。

「お前がどんだけ人と関わり続けることを怖がってるのかはよくわかるし…そもそもお前の性格的にもまあ、跡を濁さず立つ鳥こそ美しいとか考えてそうだからもうそれ自体は止めねえけどさ」

そんな私の気持ちは、福井にはとっくにお見通しだったらしい。

「…でもさ、それならそれで、あいつにも最後の思い出を与えてやれよ。俺はこの1年ちょいでお前のひとりよがりで幼いムカつく人間性のことなんて散々理解したから良いけど、あいつ多分何も言わずにお前が消えたらマジで日本全国探し出すぜ」

冗談めいているのに、どこか寂しさを覚えてしまうような口調だった。

「…知ってたの、私が誰にも進学先言わずに秋田を去る気でいたこと」
「なんとなくな」

怖いくらいに普段通りの口調で、つか気になるのそこ? と付け加えられる。
むしろそこしか気にならなかった。私だってこの判断がいかに自分本位なのか、周りの感情とこれまで築いた関係を全て無視しきったそれこそ"ひとりよがりで幼い"ものかはわかっているつもりだった。
だからこの判断をしたことで逆に福井や氷室に嫌われたって文句は言えないとすら思っていた。

まさか福井がそれを全て承知して、その上で今まで通り接してくれていたのだなんて、露ほども考えずに────。

「俺はお前の神様だぞ。お前のことなんかなんでも知ってるわ」
「…怒らないの?」
「何をだよ」
「こんなに良くしてもらっておいて、何も返さずに関係を切ろうと…いや絶対切りたくないよ、切りたくないけど…こう、誰も知らないところに行こうとしてること」
「怒んねーよ」

福井の答えは簡単だった。この1年で福井という人の優しさを散々思い知った私と同様、彼の方も私という人間の人間としての空白などとっくに見透かしていたらしい。

「だってお前、これからちゃんと色んな人と────過去とも、向き合うつもりなんだろ。氷室はともかく、今回行き先を誰にも何も言わないのは、お前の"嫌いだった自分"との決別のつもりもあるんじゃねえかって思ってんだよな、俺。そしたらさ、お前が将来自分のこともうちょっとでも好きになれたら、その時はまた会いに来てくれるだろ。それこそ東京でも、秋田でも、どこでも」

────もしかしたら、ずっと疑問はあったのかもしれない。
どうしてこんなに自分の話をしたがらないんだろうとか、どうしてこんなに人間を怖がっているんだろうとか、そう思われていたって不思議はない。

ろくな人付き合いをしてこなかったせいで、そして幼い頃から"人とは違う"ということを最悪の形で思い知らされてきたせいで、私には何か人間として大切なものを育てられずに18歳にまでなってしまった。有り体に言えば、心に大きな穴が空いているような気がしていたのだ。

福井はその違和感に、その"空白"に、なんとなくではあってもずっと気づいていたのかもしれない。
そしてここ数ヶ月の間に私の過去を知り、本心を知り、そして覚悟を知り────。
私のこの判断を、理由まで含めて正確に導き出したのかもしれない。

「…その時が来たら、会ってくれる?」
「そりゃお前、こんだけ陰気な人間に散々椎茸の自家栽培手伝わされてきてんだぞ。ちょっとくらい晴れやかな顔した新生・冬子を見とかねえと俺の方が報われねえわ」

一の言葉に百の罵倒で返してくる福井。雰囲気は初めて会った時からずっと変わらないのに、この1年余で私達の距離感が確実に変わっていたことに、今改めて気づく。

「だから俺は良いよ。お前が自分を好きになるために少し距離を置きたいっていうんなら、そんな短い期間全然我慢できる。俺はお前の"唯一の友達"だからな」

────友達だから。

それは本来なら、きっと彼にとって別に大した意味もない言葉だったんだろう。
言うなればそれは、彼の優しさにちょこんと添えられた、パフェに乗っているミントのような言葉。

でも私にとっては、それは何より得がたい一言だった。
何よりも欲したもの。何よりも手に入らないと諦めていたもの。
もしかしたら彼は、彼にとっては意味のないそんな言葉が私にとってどこまで大きい意味を持っているのか、それをわかった上で言ってくれたのかもしれない。

ありがとう、福井。
私もあなたのこと、何にも替えられない大切な友人だって思ってるよ。この根暗人間が心からそう思えるほど、あなたは私に誠実さをもって接してくれたよ。

「────だから、氷室は最後に誘ってやれ」

…あ、そういえばそんな話をしていたのだったか。
無理に本題に引き戻され、感傷に浸っていた自分の気持ちがすっと冷めていくのを感じる。

「俺を遠ざける理由には納得してるから良い。これで終わりじゃねえからな。でも好きになった奴のことを締め出すのが────その感情を閉じ込めたいからだっていうんなら、あいつにもそれを納得させるだけの時間をやれ。勝手に恋して、向こうからも寄ってくるのだって満更でもない顔して、それで最後は勝手に消えるなんて────流石にそれは自分勝手すぎる。怒るぞ」
「ええ…まず私がパーティーに参加すること自体違和感しかないのに、そんなところに氷室君なんか誘ったら実質告白じゃん…」
「バカ、そんくらいで告白になってたら今頃陽泉は恋愛の園になってるわ」

恋愛の園って。

「パーティー文化ができた頃は知らねえけど、今この行事は男女だろうがなんだろうが、"せっかく仲良かったのに最後にちゃんとお別れできないのはちょっと寂しいから"くらいでホイホイ誘い合って、学年関係なくみんな参加してんだよ。むしろお前が誘わなきゃ誰もあいつのこと誘わねえぞ、可哀想だと思わねえのか」
「生徒会の人とかさぁ…それこそ福井が誘えば良いじゃん…」
「あ、俺は劉に誘えって脅されてるから無理。ゴリラもなんかあいつのことクソほど尊敬してる後輩に誘われてるし。生徒会の奴らのことは知らねえけど……あいつ、誘われても断るんじゃね?」

氷室が厚意で誘われたパーティーを断るとはとても思えないが。

「多分あいつもお前に声かけられるの待ってるよ」
「他の人のお誘いを断るほど?」
「普段の言動見てれば、あいつが誰に一番懐いてるかなんてすぐわかるだろ」
「………」
「そこで黙るってことは思い当たる節はあるんだな。やだねー、好きなやつが自分のこと、少なくとも嫌ってないのは自覚してるくせに無理に逃げようとしてるとか。正直お前じゃなかったら俺、張っ倒してるわ」
「ええー…」

だんだんと自分が劣勢に立たされているのを感じ、私の反論も尻すぼみになっていく。
ただでさえパーティーなんて行きたくないのに、何が悲しくて離別を前提にしてる後輩を誘わなければならないのか。そんなの心臓がいくつあっても足りないじゃないか。

福井は最後まで意見を曲げてくれなかった。「うむん…」とか「ぬぬ…」とか、情けない声を上げながらクラスが解散するまで、私も明確な答えを返せなかった。

誘…わないと、いけないのかなあ…。



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