[本日の予定:携帯を見ながら歩く紫原。信号もないような細い路地。スピードを緩めながらも止まることなく交差点に進入する一台の車。それはもう、紫原の目前まで迫っていた。]
[進捗:100%]
34話
目を覚ました時、そこが先程運び込まれた病室のベッドの上だということにはすぐ気づいた。
体の痛みを抑え、ベッド脇の小さなテーブルに乗った時計を見る。
18時半だった。
私が搬送されたのは朝の6時のこと。
下手に大きな病院に運んでもらってしまったお陰で、却って検査や手続きが終わるまでには3時間程経過していた。
でも、まだその時点では9時だったから。
なんとか会場には間に合うかもしれないと思って急ぎ病院を出ようとする私を、医者は強い口調で止めてきた。
怪我は足の骨折と脇腹の打撲。頭には今のところ異常なしとのことだったが、後から悪くなる可能性もあるためしばらく安静にしろとのお達しがくだされていた。
その日は検査入院という意味も含め、ベッドに安置されることが決まってしまったのだ。
これじゃ、試合を観に行けないじゃないか。
唇を噛みしめながら携帯でバスケの中継を行っているチャンネルを探した。
まだだ。私が東京に来たのは、別に彼らの試合が今日で終わるからじゃなく、紫原の事故を防ぐためだったんだから。
まだ未来は視えていなかった。私は彼らが負けるところをまだ、視ていない。
そう思っていたのに。
前日から気を張り詰め続け、一睡もせずに過度な運動をしたつけが、ここで唐突に来た。
あろうことか私は、その全ての反動に襲われ、チャンネルをようやく合わせられたところで眠ってしまったのだった。
そして起きた時には────もう、17時頃からと言われていた試合も既に終わっている時間になっていた。
ああ、情けない。不甲斐ない。
最後じゃないと言い聞かせながらもずっと不安だった。どうあれ私が東京にいるということで、これが最後になってしまうんじゃないかという嫌な予感がずっと頭にこびりついていた。
こんなにも不安なら、こんなにも怖くなるなら、寝てしまうなんてこと、ありえないはずなのに…まさか9時間以上も眠ってしまうなんて。
体と心はどちらも限界を迎えていたんだろう。恐る恐る結果を見ようとネットを開いたところで────
「────目が覚めましたか」
ちょうど病室に入ってきた────氷室の声が、聞こえた。
4人部屋に入院しているのは私と、その対角線上にいる患者だけ。その人は今眠っているらしく、ベッドを囲うカーテンの向こう側からは物音一つしない。
「…氷室君」
何を考えるよりもまず、私は彼の体の異変に目がいってしまった。
「どうしたの、それ…怪我したの?」
彼の顔には、まだ赤く新しい痣がいくつかついていた。
スポーツ選手なら試合中に怪我をすることはよくある。しかし彼の顔についた傷は転倒によるものというより…殴られた後のような、そんな形の赤みが残っていた。
「ああ…ええと…ちょっと色々あって」
色々、の意味を考える。
彼ほどの理性的な選手が無駄にこんな場面で喧嘩をするとは思えない。問題を起こせば彼1人で処理できる範疇を軽く超えてくることなど、簡単に予想できるはずだ。
では、誰か試合とは関係のない人に絡まれたのだろうか。でも誰に? どんな因縁で?
「…すみません、下手に隠すと却って心配をかけそうですね」
私が目まぐるしく考えを巡らせていることを察したらしい氷室は、恥ずかしそうに傷の理由を話してくれた。
「実は、試合後にバスケの師匠と会ったんです。少し話している間に…ちょっとこう…倫理観のない他校の選手に絡まれて。師匠が手を出されそうになったので庇ったらこうなりました」
彼の話は簡潔だった。
「師匠って…アメリカの元プロって言ってた人だよね。向こうからわざわざ来てたの?」
「はい。日本のバスケを見るついでに、俺とタイガの成長も確認したいんだって言って…。あの人も十分強いんですけど、なんかこう、絡んできた奴が殺す気で来たものでうまく立ち回れず…」
そういえば、彼がアメリカにいた頃の話はあまり聞いたことがなかったな、と思った。それこそロスから来ていること自体は知り合ったばかりの頃に聞いていたが、あの時はここまで深い話をするような仲じゃなかったから。
唯一の手がかりになる火神の話だって、夏のストバス大会の時に少し聞いたくらい。彼自身があまり話したがらなさそうにしていたのと、その時の関心はむしろ同じ場にいた私の幼馴染についてにばかり向いていたので、結局私の話ばかりしてあの日も終わってしまった。
いつか落ち着いたら、彼自身の話もゆっくり聴きたいと思う。大切な弟分のことも、怪我を負ってまで守りたい師匠のことも、彼がどれだけバスケを好きでいるかということも────。
おっといけない、つい思考が逸れてしまった。今は目の前の彫刻のように美しい顔に傷をつけることも厭わないような人でなしの話だ。
「他校の生徒って誰、何か陽泉に恨みでもある人?」
「いえ、確か…福田総合の灰崎? っていう男でした」
その名を聞いた瞬間、ぞくりと背筋に寒気が走る。
福田総合…静岡の高校に進学した、灰崎という名の男子。バスケ部に入りWCにまで出場するような強豪の選手。
…そんな人間、思い当たる者はひとりしかいない。
「ただ海常の黄瀬君がその場を取り持ってくれたので、ひとまず彼に預けるってことになったんですが…────というか俺のことなんてどうでも良いんですよ! 水影さん、試合が終わった後に全てアツシから聞きました。容態はどうなんですか?」
慌てて心配してくれている氷室の心遣いはありがたかったが、私の心中はもっぱら灰崎と氷室自身────陽泉の試合結果のことでいっぱいだった。
まあ、灰崎についてはトーナメント表を見た限り、準々決勝で福田総合と海常が当たることになっていたはず。黄瀬がその場をとりなしてくれたというのなら、本当に目に見える以上の被害はなかったのだろう。
中学時代一度も灰崎に勝てずなし崩し的にキセキの名を手に入れた黄瀬を、灰崎はどう思っているのか。倫理観の欠如は著しいが実力は確かな彼が黄瀬をどうしようとしているのか────気にならないわけではないが、ひとまずそんなことよりも目の前の氷室の怪我が痛々しくて辛くなったことと、繰り返すようだが陽泉の試合結果が気になっていた私は、ひとまず帝光時代の問題児のことは忘れることにした。
「すみません、次の試合が迫っていたのと、アレックス…師匠には試合前悪いことを言ってしまっていたので、先にそちらを済ませようと思ったらこんなに遅くなってしまって…。でもずっと心配でした、それは本当です」
「うん、疑ってないよ。ありがとう。体は大丈夫だから良いんだけど、それより試合は────」
氷室の唇が、きゅっと締まった。
それを見て悪い予感が背筋を這い上がる。
一旦試合が終わったとはいえ、勝った選手を待ち構えているのはすぐまた次の試合だ。
こんなところに、ましてや他の用事を済ませた後でのこのこと来られるはずがない。
もしや────。
「…すみません、負けました」
氷室から告げられたのは、簡単な報告だった。
既に泣くのは済ませたのだろうか。声は表情はいつも通り落ち着いているが、瞼が少し、腫れているような気がする。
「ああ────…」
私はうまく答えられず、ただそんな情けない声を上げてしまった。同時に、悲しみなのか悔しさなのか判断のつかない涙が、ぽろぽろと目から溢れ出した。
もしかしたらそんなことになるのでは、とは確かに思っていた。
でもその一方で、彼らが勝つ未来も────きっと彼らと同じくらい、信じていた。
「結果は72-73でした。誠凛は…強かったです、正直。でも俺達も、全員全力で最後まで戦いました」
彼の声は少し震えていた。
しかし私は俺達も全員全力で、という言葉に、仄かな安堵を覚えていた。
「…紫原は、大丈夫だった?」
氷室がここにいるなら、彼の言葉通り、試合後に紫原からだいたいの事情は聞いているのだろう。
案の定、彼はぎこちないながらも笑ってみせた。
「ええ。試合前にはただ水影さんと会って仲直りしてきたとしか言わなかったのでわからなかったのですが…今思えば、あなたが身を挺して守ってくれたお陰で、アツシもちゃんとコートに立ち続けてくれました」
「そう…良かった」
「…あの、水影さん。怪我で大変な時にこんなこと訊くのは失礼だと思うのですが…」
「うん?」
「あなたが東京に来たのは、俺達が負ける未来を視たからですか?」
震えた声で、泣きそうになりながら氷室はそう尋ねた。自分達の敗北が避けられない確定事項だと知るのは、当然辛いことだろう。
でも、それは違う。
「…ううん。私が視たのはね、紫原が車にぶつかりそうになってる場面だけ。朝の散歩中に不注意で交差点に車が侵入してきて、紫原もそれに気づいてなくて────目の前に迫った、避けられない、って思った瞬間"明日"が終わっちゃった」
真実を伝えると、氷室は小さな溜息をついた。
「そうでしたか…」
「初めてだったよ。試合の結果がわからないなんてこと。でも紫原が事故に遭ったらきっお陽泉のみんなの士気が下がっちゃうんじゃないかって、そう思ったらいてもたってもいられなくなって…」
それでこのザマです、と包帯を巻かれ固定された足を指差して見せる。冗談のつもりだったが、氷室は更に傷ついた顔をするだけだった。
「…未来を変えてくれたんですね」
そして涙を堪えるように、彼はそう言った。
「…え?」
「俺、友人の言葉を信じてたんです。水影さんが視ているのはあくまで確定している不可避の未来だけで、他はどうにでもできる不確定な未来だって話を」
…私は、あまり信じてなかったけど。
現に紫原は窮地に追い込まれてしまったわけだし。
「…もちろん、水影さんがそれを聞いてもどこか諦めているのは知ってました。そりゃ十何年も未来を変えられないって思い知らされ続けてきたら当然だろうなって、思ってましたけど……でもあなたは、そんな諦めの中でも動いてくれた。変えられないとわかっていても、無理に東京に来て、身を投げ出してアツシを守ってくれた。俺は…それが、嬉しかったです」
…そんな綺麗なものじゃない、とは思うのだけど。氷室が涙目になりながらそう行ってくれたので、曖昧に笑んで否定することはやめておいた。
「それに、水影さんが見た未来は"アツシが車と至近距離まで近づく"っていう、その部分だけだったんですよね。確かにアツシは轢かれる直前のところまで追い込まれてたみたいだし、多分何もなければあのまま足も体も使い物にならなくなってたと思います。でもそれを、あなたが変えてくれた。不可避の部分はそのままに、その後起こるべき当然の未来を、あなたは変えてくれた。未来は変えられると────あなた自身が、証明してくれました」
────ああ、そうなのか。
そう考えたら、彼の…いや、彼の友人の仮説は正しいところがあったのかもしれない。
私の視たビジョンは確かに視た通りの現実として起こってしまった。
でも私は、彼が"本当に事故に遭う様"までは視ていなかった。
"行きつく未来が視えてるビジョンに帰結する"ことそれ自体は真理だとしても、そこに至る過程次第ではその後…これは何も数日後なんて遠い未来ではなく、その"直後"の未来にでさえ、無限の"可変性"をもたらすんじゃないかと、そう書いています。
つまり"視ていない未来"は、どうにでも変えられる"不確定なもの"。
────諦めなくて、良かった。
あそこで過去の自分の言葉を振り切って、本当に良かった。
「試合に負けたことは悔しいです。正直、泣きました。でも────結局最後まで、俺達は陽泉の最高のチームとして挑み続けることができた。それは…あなたのお陰だと思ってます。本当にありがとうございます」
「ううん、私は…あなた達のバスケには何も貢献してないよ。サポートもマネジメントも、何もしてない。頑張ったのはあなた達の力。紫原だってあんなもの見せられてメンタルやられても仕方ないのに、本当にそれをやる気に変えてくれた。…ありがとう、諦めないでくれて」
それから、試合を見届けられなくてごめんね。
陽泉の最後の試合、見たかったな。
彼らがどうやって最後まで戦い抜いたのか、ちゃんと見届けたかったな。
それだけが心残りだ。
「…実は水影さんがアツシを庇うために東京に来たって最初に聞いた時、嬉しさより先に驚きの方が出てきてしまったんです」
悔しさに俯いてしまった私に、氷室は優しく声をかけてくれた。ベッド脇の椅子に座り、私の手にそっと自分の手を重ねる。
「人を恐れ、キセキを…アツシを恐れ、未来を恐れたあなたにとって、そんな過去のトラウマが全部まとめて襲って来るような"明日"は、いっそ"視なかったふり"をした方がずっと楽だったはずなんです。怖かったと思います。躊躇いもあったと思います。でもあなたは結局、ここに来てくれました。迷わずアツシを突き飛ばしてくれました。それがどれだけ勇気のある行動だったか…………俺は本当に、あなたほど美しい人を知りません」
褒めすぎだよ、と言いかけて、彼の表情があまりに真に迫っていたので呑み込んだ。
そうだ、彼は嘘やお世辞でそんなことを言う人じゃない。
いつだって私を全肯定してくれて、いつだって私を美化してくれる、優しい人なのだ。
「…ありがとう」
好きだなぁ、と思う。
この人の眼差しが好きだ。温かい手が好きだ。心地良い声が好きだ。
私は彼に触れられて、今とてもドキドキしていた。
でもなんだか、今日はとても穏やかに心臓が鳴っている気がする。
もちろん私の心身がかなり疲弊しているからというのはあるかもしれないが────目を開けてまず会えたのがこの人で、本当に良かったと思った。
望んじゃいけないとわかってるけど。
これ以上何かを求めるのはご法度だと決めたけど。
でも、どうしたって私は彼のことが好きだった。好きで好きでたまらなかった。
会いたかったと言ったらまた驚かれてしまうだろうか。試合すら見届けられなかった私が、敗北に打ちひしがれている彼に、それでも会いたかったのだと言ったら────流石に、引かれるだろうか。
だから私は何も言わなかった。キラキラした宝石みたいな気持ちを、全部宝箱にしまいこんだ。
ありがとう、氷室君。
真っ先にここに来てくれて。
自分のことで精一杯になるのが普通なのに、私のことを案じてくれて。
「…福井さんは…その、すみません、部員のケアがあるので来られませんでした。試合後に俺とアツシが話してる会話の断片を聞いたらしく、水影さんが事故に遭ったらしいとすぐに気づいて俺だけを病院に行かせたんです。…あ、多分未来視のことはバレてないと思います。何も言われてませんし、変な表情もしていなかったので」
福井、ねえ…。
もちろん彼にここに来てくれなんて言うつもりは毛頭ない。私は"陽泉のみんなが自分のことに専念できるように"と願ってあんな行動に出たわけなのだから、"副主将としての行動"を第一にとってくれた福井の判断は、むしろ私にとっても一番ありがたいものだった。
それに、紫原はちゃんと約束を守ってくれたらしい。
この話を聞いたのが2人とも試合後だったということ、福井に未来視を知られずに済んだこと、その両方に安心感を覚える。
ただ…ひとつだけ、気がかりなことがあった。
未来視のことを知らない彼には、「あと3日しかないしやっぱり生で見たくて早めに来ちゃった」とでも言えば納得してくれるだろう。
それでもやっぱり、ひとつだけ────「決勝戦で会おう」と言った約束だけが、胸をちくちくと刺していた。
勝ってほしかったな。
見舞いになんて来なくて良いから、新学期が始まる頃にでも私の足を見て「どんくせえな」って笑ってほしかったな。いや、福井のことだから私がどれだけ醜態を晒しても「ありがとう」って優しくはにかんでくれるのかな。
────ああ、優勝して、全てを笑い話にできていたら嬉しかったのに。
「…俺、あの人には敵わないなあって思いました」
「なんで?」
「…………あの人は、本当に水影さんのことを大事に思ってますよ」
自分だって行きたくて仕方ないけど、自分にはまずチームとして果たさなければならない責務があるから。
氷室に病院行きを指示した時、彼は福井の表情から全てを察したそうだ。
どう見ても私のことを気にしているのは明白なのに、それでも彼はチームのことを優先した。自分の悲しみも私の心配も全部よそに置いて、副主将としてのあるべき姿を見せなければならない────そんな覚悟を読み取った、と。
「あの人はすごいです」
「…うん、私もそう思うよ」
そんな福井だから、私はずっと尊敬してるんだ。
「あとは…そうだ、もうすぐ来ると思うんですけど、もう1人面会に来てる人がいるんですよ」
「…もう1人?」
紫原だろうか。いや、でもチームからそう何人も見舞いに行かせるようなことを彼らがするとは思えない────予想のできない"もう1人"に思いを巡らせていると、彼の言葉通り、程なくして病室のベッドが控えめに開いた。
おそらくその音がなければそちらに注意を向けることすらなかっただろう。それほどまでに薄まった気配の中、こちらに歩いてきたのは────
「…テツヤ…」
夏に遠目で見たきりの、幼馴染だった。
「すみません、俺は無事を確認したら戻って来いと言われているので、一旦会場に帰りますね。福井さんには外傷こそあれど元気にお話ししてくれましたって伝えておくので、安心してください。…あ、でも少しでも容態が変わってしまったらすぐ連絡くださいね」
「うん、忙しい合間に来てくれて本当にありがとう。福井にもよろしくね」
氷室にっこり笑って応えると、早々に病室を出て行った。もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。その場には私とテツヤの2人が取り残されてしまった。
…正直、気まずい。
「ええと…準々決勝の勝利、おめでとう」
「…ありがとう、ございます。陽泉の皆さんは…とても強かったです」
「う、うん…」
…………助けて、会話が続かない。
彼の顔を見た瞬間、私は一年前、ほかでもない私自身の手で彼を傷つけてしまった過去を思い出した。
「あの」
「あの」
それでも何か言わねばと思い口を開いたら、彼も同時に同じことを言い出した。
「あっ…すみません、先にどうぞ」
「いや、テツヤの方から聞くよ…」
遠慮する彼をそう押すと、テツヤは深く呼吸を吸って頭を下げた。
「…全中の時は、本当にすみませんでした」
彼が発したのは、深い後悔に満ちた謝罪だった。
「自分でも、相当錯乱してたと思います。今なら…あの結果を伝えるべきでなかったという冬子さんの考えが、よくわかります。変えられない未来を伝えることの残酷さは、理解できないなりに…想像だけなら、すごくできます。…というか、この1年ずっとそのことを想像して苦しくなってました」
彼は、自分の言葉に苛まれていたと言った。
あんな状況下だ、彼がああまで言った心境はそれこそ今になれば痛いほどにわかる。
何かできたかもしれない、何もできないとわかっていても、何かすれば奇跡は起きたかもしれない。
…だって、それは昨日の夜私が感じたことだったから。
自分の身なんて省みない、ただ前だけを向いて走る。
そんな難しいことを15年近く続けてきたあの日の彼に、何の落ち度があったと言えるのか。
「私こそごめんね。怖くなって、逃げ出しちゃった。伝えることが良かった…のかは私も正直わかんないままだけど、何かもっとできたことがあったかもしれないって…あなたと同じくらい必死になれたら、もっと何か………やりようがあったんじゃないかって、私も思ってた」
「そんなこと…」
「ううん。私は本当に、何もわかってなかったんだ。ごめんね。何もわからないからって逃げ出して。謝る機会だって何度もあったはずなのに、ずっと逃げ続けた。本当にごめん。手紙の返事、書けなくてごめん…」
この子には、何度謝っても足りない。
誰よりも未来を信じていた子。
誰よりも未来を変えたがっていた子。
私は彼のそんな淡い願いに、何も応えられなかった。応えようとすら、してこなかった。
それが今になってどうしようもなく悔やまれるのだ。
「…でも、冬子さんは紫原君のために未来を変えようとしてくれました。逃げないで、立ち向かってくれました」
テツヤの声は優しかった。多分まだ彼の中には必要のない罪悪感が渦巻いているのだろう。でも、彼は私を慰めるようにそう言ってくれた。
「…以前の僕達は…自分も含めるのは傲慢かもしれませんが、お互いにまだ少し幼かったのかもしれません。でも、僕はまたバスケを始めました。最高のチームで、自分より遥かに強い人達にも挑む心を育ててきました。…そして、冬子さんも過去を克服してくれました。大嫌いだと言っていたその特別な力、僕はやっぱり好きです。誰も知らないことを知って、誰も知らないところで人のために動けるあなたのことを、心から尊敬しました」
あなたに何がわかるんだ────彼が発した言葉ほまったくその通りでしかないと思っていた。
でも。
「本当にすみません。僕はあなたが何も知らないと思い込んでいました。あなたの苦悩も葛藤も知らずにいたのは、僕の方だったんです。そしてそれに気づいたのも、随分遅くなってしまいました」
彼は、小さい頃から変わらないそのまっすぐな目で、そう言ってくれた。
「あなたは僕達のことをずっと考えてくれていた。少しずつ壊れていく僕達を、僕達以上に心配してくれていました。今なら…少し、わかる気がするんです。あなたが僕達を、誰よりも理解しようとしてくれていたことを」
心の皹が、埋められていくようだった。
珍しくよく喋る彼のその長い言葉ひとつひとつに、救われていく思いだった。
「……ありがとう、テツヤ……私…あなたのこと、ずっと心配してたの…ごめんね………」
さっき陽泉の敗退を知って緩んでいた涙腺が、ここにきて決壊してしまった。ぼろぼろ涙を流す私に、テツヤは動じる素振りも見せずベッド脇に置いてあったティッシュを渡してくれた。
「ありがとうございます、ずっと気にかけてくれて」
「強くなってるって話、うちのバスケ部の子達から何度も聞いてたよ…。最高のチームに恵まれたね…」
「ありがとうございます、僕もそう思ってます」
「うちの学校が負かされたのは悔しいけど………でも、あなたが勝ち抜いてくれたこと自体はすごく嬉しいよ。…どうか、最後まで勝ってね」
こんなこと、福井や氷室の前では言えやしないけど。
2人きりでの空間でならと、私はその複雑な気持ちをあえて言葉にした。
「…はい、そのつもりです」
テツヤは力強く頷いてくれた。
それからテツヤも、次の試合を観に行かなければならないからと惜しみながら私に別れを告げた。氷室といいテツヤといい、今は1秒も余裕のある時間なんてないだろうに、その合間を縫ってわざわざ来てくれたことを本当に嬉しく思う。
「あ、落ち着いたらメールしますね。アドレス教えてください」
「うん、良いよ」
こうして私達は再び繋がることになった。
…うん、まだあの空白の時間を埋められるほどではないけど、それでもまだ"わかりあえるもの"と手を取り合うことができた。
そのことが、今は何より嬉しかった。
「時間をくださってありがとうございました。水影さんは足を折ってしまったみたいなんですが…それでも、いつも通りに話してくれました」
『おう、そりゃ良かった』
「そういうことなので、今から戻ります」
『そんな焦んなくても良いぞ。こっちは思ったより落ち着いてるから、もしまだ心配だったら好きなだけついててやれ』
「……本当に良かったんですか。病院行ったのがあなたじゃなく俺で…。心配してるのは…いや、俺も心配はしましたけど…多分一番水影さんのことを心配してたのは福井さんですよね…?」
『俺は俺で忙しかったんだから仕方ねえだろ。それにあいつの気持ちを考えても、傍にいるべきなのは俺じゃなくてお前の方だったと思うし』
「正気ですか? 水影さんが福井さんのことを本当に大切にしてることくらい────福井さんの顔を見たらすごく安心するってことくらい、わかってますよね?」
『バカお前、逆だよ。ここで下手に俺が現れたらあいつは申し訳ないって思うに決まってる。…決勝戦で会おうなんて無茶苦茶な約束もしてたし』
「でも、あれはジンクスみたいなものだったじゃないですか」
『…………』
「────福井さん?」
『…なあ、氷室』
「…はい?」
『………お前は、知ってたんだろ。冬子が未来を視てること。今日の事故を防いだのが、偶然じゃないってこと』
「!!!」
『あいつからしたら俺は"何の事情も知らないただの友達"だ。俺が行ったところで、変に気を遣わせたり下手な言い訳考えさせたりするだけなのはわかってる。だったら今は、"全部知ってる"お前が傍にいてやった方が良い』
「…やっぱり試合後のアツシとの会話の内容を聞いて…」
『いや、もっと前から知ってたよ』
「…!? なら、なぜ…」
『とにかくそういうわけだから。ま、怪我が見た目ほど大したことないって聞いて安心したわ。好きな時に戻って来れば良いけど、車にだけは気をつけろよ』
「待ってください、ちょっと…」
『────冬子のこと、頼むぞ』
電話は、そこで切れた。
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