[本日の予定:紫原と2人きりで話す未来。最悪。その後氷室に何か詰め寄られているらしい。もっと最悪。]
[進捗:080%]

26話




「え、うん。好きだよ」

ここまで好意を剥き出しにしておいて嫌いなんて思っていたら、むしろそんな自分に私自身が一番驚くことだろう。
しかしあまりにあっさりと答えすぎたからだろうか、氷室はまだ不服そうな顔をして首を振った。

「人としてじゃなくて、彼氏にしたいかってことです」
「ああ、そっち」

成程。一度勘違いしてしまったが、"そちらの方"もよく訊かれるから気持ちはわかる。
私と福井の夫婦漫才は、事情を知らない人から見ると"本当の夫婦(カップル)"のように見えるのだそうだ。別に四六時中一緒にいるわけではないのだが、"年頃の男女が2人で仲良さそうにしている"という状況は、それだけで他人から見ると必要以上に印象強く残るんだとか。

だから福井に好きな子がいると知った時は、横に私のようなお邪魔虫がいてはマズいだろうとそこそこ慌てたものだったが…。

「彼氏にしたいとは思わないよ」

────私は、福井にだけは恋をしない。

「え…そうなんですか?」

訊いておいて驚いたような顔をする氷室の表情が少し可愛らしく見えたので、隠すことなく笑みを零す。

「こんなに福井さんを大切にしてて…福井さんも水影さんのことばっかり心配してますし…アツシなんて水影さんのこと"福ちんの嫁"とか言ってましたし…俺てっきり、もうその辺は周知の事実なのかと思ってました」
「ほんと、紫原に至っては面倒な誤解を増やしてくるだけだよね。だから私、福井に彼女ができたら…いやそもそも彼女作るつもりになったら…とりあえずちょっと距離置こうと思ってるんだ」
「え!?」

さっきまであんなに紳士的で、暗闇に溶けていくような優しい声をしていたくせに、今の氷室は思い描いた通りの"男子高校生"の顔をしていた。綺麗な目を更に大きくして、身を乗り出している。

「そんなに好きなのに、ですか!?」
「そんなに好きだから、ね」

大切だから。かけがえのない人だから。
だから、その人の幸せのためなら距離を置くことくらい簡単だ。

「あの…不躾で申し訳ないんですけど、水影さんって福井さんのことどう思ってるんですか…? その、つまりさっき言ってた"好き"を噛み砕くと…」

同じようなことを紫原に尋ねられた時は、「お母さんみたいな存在」という結論で済ませた覚えがある。しかし今目の前にいる氷室なら、私の話が冗長になっても、抽象的になっても、きっと意味を汲み取ってくれると思う。

「福井はね、私のことを救い出してくれた人なの」
「救…?」
「うん。こっちに転校してきたばかりの頃、私…クラスにうまく馴染めなくて、ちょっと不登校気味になっててさ。不登校っていうか、ほぼ保健室登校になってたんだけど、そんな私を毎日訪ねてくれたのがあの人だったんだ」

そもそも、その"クラスに馴染めなくなる決定的な事件"において、最悪の未来を回避させてくれたのも福井だったし。

「私は最初、保健室にばっかりいる理由を"体調が悪いから"って…まあ嘘じゃないけど真実でもないラインの言い訳で済ませてたんだけど、福井はほら…すごく目が良いじゃん?」
「それは…はい、わかります」
「私がクラスに馴染めてないこと、そもそも人と上手に付き合えない性格であることをさっさと見抜いて、それでも無理やりこっち側に来てくれたの」

氷室はその端正な顔から上手に空気を抜いてみせた。驚きで膨らんでいた風船が萎んでいくように、元の静かな表情に戻って私の話を聞いている。

「最初はなんだこの人、って思ってたんだけど…。無理やりなのに私の嫌がるラインをきちんと把握して、そのラインぎりぎりのところでどうでも良い話ばっかりしてきてね。それが私…楽しくて」

未だに、福井がなぜあそこまで私に目を掛けてくれていたのかはわからない。
ただどんな話でも平坦に聞き続けることができるような、感情の起伏が小さい私の存在が珍しかっただけかもしれない。

理由はなんだって良かった。
ただ私は、あの狭い世界の中で孤独と息苦しさを感じていた時に差し伸べられたごつい手を、地獄に垂らされた一筋の蜘蛛の糸のように思った。

「東京にいた頃のあれこれですっかり人と関わることが怖くなった私が、初めて怖くないと思えた相手が福井だったんだよね。きっかけはたったそれだけのことだけど、あの時福井が"私は面白いのに、根暗で友達いないのがもったいない"って…私が嫌いな私を面白がってくれたことに、今でも恩を感じてる。あれがなかったらきっと、私は今頃学校を辞めてたと思う」

そう、ただ言葉だけを並べると大したことのないようにも思えるが。
私は確かにあの時、今にも自分の形を見失って奈落の底に落ちてしまいそうなほど、ギリギリの崖っ淵に立たされていた。でも、"ちゃんとその先にも足場はあるぞ"と手を引っ張ってくれたのが、福井だった。

「だから私は福井のことがすごく大切なの。福井にとってはあの日々もただの気まぐれで、私の存在なんて数ある友達の中の1人でしかないかもしれないけど、それでも良いの。福井が笑っててくれたら嬉しいし、福井が悩んでたら今度は私が助けたい。そこに恋とかいう余計な感情はいらないんだ。私は"福井健介"っていう人間のことをただ尊敬して、その存在丸ごと好きなだけだから」

…まあ、その末路がこうなっているわけなので、今のところ全くその恩は返せていないのだが。

氷室はしばらく黙っていた。

「…妬けるなあ」

そして、ぽつりとそう呟いた。

「何が?」
「いえ。…というか、確かに福井さんは友達がたくさんいますけど、水影さんのことは物凄く特別扱いしてると思いますよ」
「えー、そうかなあ…」
「福井さんは誰かれ構わず嫁と呼ぶような人じゃありません。劉ならともかく」
「ふっ」

福井から聞いたことのあるバスケ部の下級生の名前が前触れもなく飛び出したせいで、つい吹き出してしまいそうになった。良くも悪くも男子高校生っぽい、と彼についてそう福井は言っていたが、この様子を見るにその評価は正しかったらしい。

そうか、私、福井の"特別"になれてしまっているのか。

それは自分で何度か思ってみてはすぐに否定してきたこと。でも、氷室に言われるとすっと素直に言葉が胸に入ってくるのだ。
…なんだか、すっかり染まってしまっている気がする。

「福井さんでも恋愛対象にならないんですね…。好きな人とか、いたことないんですか?」
「うーん、好きな人かあ…」

初恋は小学校の時、同じクラスのもう名前も忘れた子だった。あの時の淡い…というかもはや苦い思い出を"好きな人"として回顧するには、やはり私は傷つきすぎている。
他でもない初めて好きになった人から"化物"と呼ばれたことがすっかりトラウマになった私。ましてその後となると…いけない、良くない思い出ばかりだ。恋をするどころか私はそもそも人間嫌いを加速させていくばかりだった。

恋って、どんな感じなんだろう。
ドキドキ、とか、そわそわ、とか?
相手と釣り合うようにもっと可愛くなりたいとか一秒でも長く一緒にいたいとか、そう思える相手…のことを考えれば良いんだろうか?
でもそんな人なんて────それこそ────

「……タイム」

思わず、声に出して思考を制止する。

待って、今私ちょっといけない扉を開きかけた気がする。

────なんで今このタイミングで夏祭りの夜を思い出してしまったんだろう。

良くない、これは良くない。

だってこんな、顔も性格も良くて仕草も言葉も綺麗で文武両道な人間がいたら、普通の人間はドキドキもそわそわもするだろう。それが当たり前だ。
でもこれを恋と呼んで良いのか?
こんなふわふわした形のない感情を恋と呼んで、本当に良いのか?
個人的にはこれを恋と定義してしまうと全人類がこの人に恋をすることになると思うんだけど。あの福井ですらこの人が現れた時は珍しく興奮してたし。あれも恋になることになってしまうじゃないか。え、待ってあれも恋なの?

考えているうちにどんどんわからなくなってきてしまった。

「…まさか、今他にいるんですか」

タイムと言ったのに、氷室はまた驚いた顔をして問いを重ねてくる。
ちょっと待ってってば、今冷静に考えようとしてるんだから…。

「いや、いるっていうか…これいるって言って良いの…? 恋なの…? 恋だとマズい…」
「そ、その人のことどう思ってるんですか。率直に」
「うーん…綺麗だなあって…」
「ええと、じゃあその人と話してる時とか、どんな気持ちになりますか」
「安心と…あとちょっとドキドキする、かも」
「自分がその人と手を繋いで歩いてるのとか、想像できますか」

氷室から放たれる怒涛の質問のせいで、追い出しかけていた夏祭りの記憶がまた戻ってきてしまった。
帰り道、道に躓いたせいで履いていた下駄が脱げてしまった私。彼はそれを拾うだけでなく、跪いて履き直させてくれた。その後は、また転んだらいけないからと言って、ずっと手を握っていてくれた。

さっきだってそうだ。涙こそ引いていたものの、孤独になったと思い込みうまく動けずにいた私の手を取って、ここまで連れてきてくれた。

どちらも"手を繋いだ"と言っていいのかはわからない。
必要があったから"手を引いた"という方がしっくりくる気がする。
でも…あの時、私はどちらも手から伝わる温もりに守られているような気持ちになっていた。いつも以上に彼の後ろ姿が頼もしく見えて、それが嬉しくて、ドキドキして────この時間が長く続けば良い、と願っていた。

「……すごく、嬉しい、かも」

そう言ってから、唖然としている氷室に「失礼な、私が恋をするのがそんなに信じられないか」という感情を抱いたその後、自分でもこの感情を"恋"と認定してしまいそうになっている事実に気づき、同じような表情をしてしまった。

────正直、私は相手が誰であろうと"恋心"という身勝手な欲を生みたくはない。
でも、そんな理性に反してもし本能が既に恋を芽生えさせてしまっていたら────それは、とても恐ろしいことだと思った。

「ま、待って。落ち着いて確認しよう」
「はっ、はい、そうですね」

なぜ私達2人もが慌てているのかはわからないが、とにかくこれは私にとってとても重要な問題だ。

「とりあえず、参考までに聞かせて。氷室君にとって恋の定義とは?」
「相手が何をしてても可愛いなって思えることとか…あとは独占欲、とかですかね。この人の隣には俺がいつもいたいっていう独占欲」
「え…何それ、私の場合福井になっちゃうじゃ…、……と思ったけど私、別に福井のこと主観的に格好良いと思ったことも、独占したいと思ったこともなかったわ」
「…ま、まあ…恋の定義は人それぞれなので…わからないですけど…」
「うん、でもやっぱり福井はなんか違う。それはわかる」

顔が良いのは客観的な事実として認識しているが、だから感情が揺れるというようなことはなかった。彼の存在にはいつも感謝しているが、そこから更に何かを求めようと思ったことはなかった。

そう納得した後で、改めて氷室の恋の定義と照らし合わせながら考える。
可愛い…いや私の場合は何をしてても格好良いなと思えて…ずっと隣にいたい人。
そんなのそれこそ────氷室くらいになってしまう。

"隣にいられたら良いな"と思うその面に関してのみ言えば、福井も当てはまらないことはない。でもさっき確認した通り、私は別に福井の幸せのためなら無理に自分が隣にいなくたって良いと思っている。
福井のためにできることなら何でもする気ではいるけど、それは別に独占欲なんてものに起因する思いじゃない。福井のためになるような"何か"が叶うのであれば、別にそれは私の手でなされたものでなくたって良い。

じゃあ、氷室は────?

夏休みの東京旅行、夏祭り、図書館での勉強、カフェでの談笑。
しみじみと思い返せるだけの思い出なら、福井に負けないくらいたくさんある。

そんな中で、いつも私は彼の美しさに見惚れてばかりいた。桜の精だったりシルクだったり星だったり、とにかくこの世のありとあらゆる綺麗なものに喩えては、その度に心を震わせていた。そんな綺麗な人と一緒に過ごした時間は、どれも未だにハッキリと思い出せるほど鮮やかな思い出として残っている。

一緒にいる時間が心地良いと思うのは、多分福井と同じ。
長く一緒にいればそれだけ楽しいのも、多分福井と同じ。

でも、福井と何か違うところがあるとしたら────。
きっと、その"感情の揺り動かされ方"にあるのではないかと思う。
人に言えなかった秘密を共有してきたからかもしれない。ただ、無理に"普通"を演じる必要のない彼の前では、私はいつもより、良くも悪くも"素直"な自分でいられた。自分のことを嫌ってしまうのは悪い習性だと思うが、だからこそ相対的に世界が綺麗に見えてしまうそんな皮肉を、私はそこまで疎んでいなかった。
────まして氷室の隣で見る景色の、なんと綺麗なことか。彼自身の美しさももちろんあるが、私はそれだけでなく、彼と一緒にいる時は"素"のままに物事を見られていると思っていた。
ああ、綺麗だなあ。私もこんな風になれたらなあ。
そんなことを、抜けるような青空や、優しいそよ風や、隣で笑っていてくれる綺麗な男の子に対して思った機会は、数知れない。

それに加えて、他の誰かなんかじゃなく、"彼にだからこそ抱けた"思いが自分の心の中に存在していることにも、私はなんとなく気づいていた。

きっとそれも、彼という人間が私にとって"特別"になってしまった大きな理由なのだろう。

…それは、"私達はどこか似ている"という、傍から聞けば傲慢とも取られかねない思い。

もちろん私は彼のような強い精神力も語彙力も対人能力もない。ステータスとしては完全に劣っている。
私がここで言いたいのはそういう表層的なところじゃなくて────。

"普通の人になりたい"、"普通が羨ましくて気が狂いそう"。
どれだけ努力をしてもそれが全て裏目に出てしいまい、結局普通になれない私が何度か口にしたその言葉。そんな時、氷室は決まって私と同じくらい痛そうな顔をしていた。

それと対を為すのが、彼が時折発する"特別"に向ける憧憬と憎悪の感情。
私はその感情から、自分の抱くものと同じものを見ていた。

私達はどちらも、欲しているものに手が届かない絶望を知っている。
知っていながら無駄に足掻き、そして結局それは届かないのだと改めて突き付けられて、身を切るような痛みに襲われる。

それに彼はさっき言っていたじゃないか────「俺の気持ちを代弁してくれてありがとうございました」と。

求めるものが真逆でも、その過程に抱く感情を、私達はあまりに同調させすぎた。
だから、彼の言葉の端々に共感してしまうのだ。
そして彼からもらった言葉を、そのまま返し、いつか彼のことを"この手で"救いたいと、願ってしまったのだ。

そんな人に出会ったのは、初めてだった。

彼の姿が鮮烈に脳に焼き付くのは、彼が単に美しい人だからだろうか?
いや違う。私は彼の心の中に宿る攻撃的な真意にこそ、強く惹かれている。

彼と一緒にいたいのは、本当にただ壁の内側に入ってきてくれた優しい人だからだろうか?
いや違う。私はまだ隠されている部分の多い彼のことをもっと知りたくて────あの夕暮れにキラキラ輝く綺麗な瞳と唇から紡ぎだされる優しい言葉をもっと聞きたくて────だからいつも五感を開ききって彼に集中している。

わくわくしながら、ドキドキしながら、彼と一緒にいる時間が少しでも長ければ良いと願ってる。この人の隣には自分がいたいと、分不相応とわかっていながら望んでしまう。

この人は、他の人とは違う。
この人だけが、他の人と違う。

いくつもの偶然の上に重なってしまったそんな結論が、私の心をひどく動揺させていた。

────どうしよう。さっきまであんなに落ち込んでいたのに、今は動悸が止まらない。
恋なんてするわけない、したところで福井に身分違いの恋をするのが関の山────そうのらくらと構えていた私に、突然星が降ってくる。

こんなところで、しかも本人を目の前にして…普通、ありえる?

この人のことが好きなんだ────って気づくなんて。

でも、ああ────なんてそれは、不幸せなことなんだろう。

「水影さん?」

いつまでも答えを寄越さない私を見かねてか、氷室が再び問いかけてきた。
どうしよう。急に自覚してしまったせいでまともに顔が見られない。今までだって仄かにドキドキしていたけど、これを"恋"だと思うと途端に無駄な意識をしてしまう。

こんなんじゃ、バレちゃう。

「い、いや、いないです、そんな人」
「…そうですか…」

氷室はまだ不服そうだった。相変わらず視線を向けられずあからさまに動揺しながらおろおろと彷徨わせていると、ちょうどその視線の先にあった私の携帯に着信が入った。

────助かった。

「…あ、ごめん、福井からだ」
「ふふ、仲直りしたいんでしょうか。どうぞ出てください」

氷室に再度「ごめんね」と言って電話に出る。さっきは気まずいからと氷室にかけさせたのに今度は自分でかけてきた。何か余程大切なことか、あるいは…向こうは向こうで覚悟を決めてくれたのだろうか、と思っていると────。

『今どこ?』
「氷室君とカフェにいる」
『解散した後で良いから、ちょっと話さね?』
「…うん、わかった」
『急がなくて良いからな。俺もまだやることあるし』

そんな短い会話で、電話は終わった。

「…福井さんは何と?」
「この後話そうって」

氷室は笑ってくれた。
さっきまで散々驚いたり唖然としたり、ころころと表情を変えてばかりいたからだろうか。ようやく取り戻されたその笑顔は、いつもの彫刻のような微笑みよりなんだか少しぎこちないような気がした。もちろんそれでも精霊級の美しさであることに変わりはないが。

「じゃあ、そろそろ俺達も出ましょうか。────話、聞かせてくださってありがとうございました。一応…さっきまでの話の調子を見る限り、あまり自分を責めないでほしいっていう俺の願いは伝わったと思うんですけど…何か困ったことや心配事があったら、俺に一番に教えてくださいね」

"俺に一番に"の部分を強調しながら氷室は最後まで優しい言葉をかけてくれた。
うん、ひとまず大丈夫。
福井はきちんと対話のできる人だし、紫原は…少し様子を見る他ない。
ひとまず目の前の問題についての対処法が見えた以上、私の目下の問題は、"氷室のことが好きだということに予期しえなかったタイミングで気づいてしまった"ことに他ならなかった。

…正直、こんな気持ち、持ちたくなかった。
氷室のことも福井と比べられないくらい大切だ。だからこそ、私はそんな彼にも恋心なんていう"いらない感情"なんて生みたくなかったのに。大切な存在という、ただそれだけの不動の価値を感じていたかったのに。

でも────気づいてしまったなら、抱く前に心を殺せなかったのなら、仕方ない。うまくこの気持ちと付き合う方法を模索しなければ。

お会計は氷室が持つと言ってくれていたのだが、前回もそうだったことを引き合いに出し、今度は私が支払う。彼は何度も頭を下げていた。

「水影さん、自然体で!」

そんなことを言って、彼は家への道をひとり歩いていった。
どうしてだろう、自覚する前と後では後ろ姿すら見え方が違ってくるものなのか。
背の高い、鍛え抜かれた体。流れる綺麗な黒髪。歩き方すら教科書に載せても良いレベルのまっすぐさで、それが逆にわかりやすい。
そんなひとつひとつの要素が私の心を締め付ける。

正確には多分────今までもそう思ってはいたのだろう。微かにドキドキはしていた。
ただそれは、"氷室辰也"という男の持って生まれた要素にミーハー心が反応しているだけだと思っていた(今思えば、彼のような出来た人間に苦手意識を持っていた当初の私がミーハー心を軽率に持つことの方がおかしいのだが)。
そこに"恋"という名が与えられた途端、その控えめだった感情が我先にと飛び出してきたようだ。心臓は遠慮なくドキドキと鳴らしてくるし、カフェの空調が効いて程良く冷えていた指先は、今やすっかり熱くなっている。

これが恋か…みんなこんな感じで突然恋を自覚していくのかなあ…漫画の中ではもう少しなんかわかりやすいタイミングがあったような気もするんだけどなあ…。

虚構と現実の狭間でうんうん唸っていた時だった。

「冬子」

後ろから、聞き慣れた声が聞こえた。
その瞬間、さっきまで浮かれ切っていた心が、すんと地に足をつけたような気がする。

振り返るとそこには、昼間と同じ表情をした福井が立っていた。

「…福井」
「氷室は大丈夫なのか?」
「うん、話題もなくなってきた頃だったから、さっき解散したよ」
「そうか」
「カフェでちょっと冷えたからさ、そっちの公園で話さない?」

やることがある、なんて言っていた割には早い登場だ。大方こちらの話が終わるまで外で待っていてくれるつもりだったんだろう。時間にして9時半。すっかり日も暮れて、じとりと湿気た空気を時折吹く爽やかな秋風が清浄してくれていた。

「ああ」

福井は特にそれ以上のことを言わず、道の反対側にある公園へと向かった。
もうこの時間になれば遊んでいる子供もいない。夜にいちゃつくカップルですらいない。
完全に、今ここには私と福井しかいない。

「────お前にとって嫌な話になるのはわかってるんだけど」
「…」
「昼間の話、ちゃんと聞かせてくれねえか」

…大丈夫だよ。こちらも、そのつもりで来たから。
惚れた腫れたの勝手な迷いは一旦胸にしまい込み、目の前の大切な"友人"に、真摯な気持ちで向き合った。



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