[本日の予定:陽泉バスケ部の連中は合宿を開始したらしく、福井から楽しそうな写真が送られてきていた。私は相も変わらず勉強ばかりしているわけだが、これが夜になると氷室から電話がかかってくるんだから驚きだ。なんの話をするんだろう。この間の花火大会の日から、どうにも氷室と平静な気持ちで接することができない。]
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23話
お昼にカレーを食べている岡村。風呂上がり、旅館備え付けの浴衣の袷を逆にして着ている紫原。廊下を歩いていたらしい、振り向きざまに笑顔を見せる氷室。
福井から送られてきたのは、疲れた顔をしながらもきらきらしているチームメイトの写真だった(ちなみに私は氷室の写真を見た瞬間なぜか咽せた)。
『お土産何が良い』とのメッセージも添えられていたので、『福井のセンスに任せる』と返しておいた。お土産も何も、同じ秋田にいるのだからたいして珍しいものはないだろうに。まぁ、この間の東京土産のお返しをしようと考えてくれているのだろうとは思うので、断りはしないが。
クーラーの効いた自習室で、過去問を広げながら長い文章を睨みつける。
彼らも頑張っているんだから、私も頑張らないとなぁ。
そう思って持って来た教材を全てこなす頃には、すっかり日も暮れていた。
一旦家に帰って夕飯を食べてから、続きは自分の部屋でやろう。そう思って荷物をまとめると、まだまだ地面に残る暑さが身を焼く中だらだらと家路につく。
そういえば、氷室から電話が来たタイミングは風景的にこの角を曲がった頃だった。
そう思った瞬間、無意識に身構えてしまう。
また、この動悸。
それから胃のあたりがきゅっと収縮するような、気持ち悪いのに癖になるような感覚。
そわそわしながら角を曲がると、案の定携帯が振動を始めた。
着信は、昨日見た通り、氷室から。心臓が勝手にどきりと大きく跳ねる。
意表を突かれるという経験の著しく乏しい私にとって、こんな風に心を乱されることは本当に稀なことだった。
「…はい」
『もしもし、今電話大丈夫でしたか?』
「うん、どうかした?」
私の声、上擦ってないだろうか。
『福井さんが、水影さんに電話しろって…』
困ったような声だった。
遠い後ろの方から『俺のせいにすんな!』という福井の声が聞こえる。
ええーと、これは…どういう…?
「……今、そっちは何してるの?」
『夕食後の自由時間です』
「お疲れ様。その後は…また練習か」
『少しだけ自主練をして、23時には消灯です』
「本当に練習漬けだね。日本のバスケはどう?」
『想像以上にレベルが高くてとても刺激になります』
たまに覗く、彼の獣のような鋭い表情。
声の調子から、きっと今彼はあの時の顔になっているんだろうと思わされた。
『水影さんは、今日は何を?』
「受験勉強」
『ああ…福井さんの言った通りでした』
「…ん?」
『水影さんはきっと一生懸命勉強をしてるだろう、心配だから何か息抜きになるような気の利いたことを言ってあげろ……って言われて、それで電話したんです』
…福井がそんな優しいことを?
なんか胡散臭い…と思ったところで、ごとんと何かスマホに衝撃が加えられた音がし、そして福井と氷室が何やら小声で言い争い出したかと思うと、『オイ』と福井の怒ったような声が聞こえてきた。
「あ、福井」
『言っとくけど、どうせ冬子は勉強漬けでまた椎茸生やしてるんだろって俺がテキトー言ったら、先に氷室の方が心配し出したんだからな』
『確かに俺も心配ですって言いましたけど、その瞬間じゃあ電話でもしてやれって言ったのは福井さんの方ですからね』
『それはお前が冬子のことばっか朝からずっと気にしてたからだろ。俺はどうでも良いわあいつの繁殖状況なんか』
『安心できるようなこと言えよ、って福井さんもかなり気にされていたと思うのですが』
『バッカお前、安否確認で電話しておいて不安増長させちゃ意味ねーだろが。安心できる言葉を掛けるなんて当然行うべきマネジメントの一環だわ、んなもん』
『水影さんは部員じゃないですよ』
性格的には2人とも無闇に声を荒げるような人ではないので、今のやり取りも音量だけで言えば静かなものだった。
なのになぜだろうか、雷が轟き暴風が吹き荒ぶような、そんな勢いのある口論に聞こえてしまうのは。
どうでも良いけどその辺りは電話をする前に決着をつけてきてもらえるだろうか。
「…2人とも、心配してくれてありがとう」
『……自分から生えた椎茸食うなよ、流石に』
「食べないよ、てか生えないよ」
『俺も、バスケ本気で頑張ります。水影さんの努力に負けないように。あ、でも根詰め過ぎないようにしてくださいね』
「うん、程々に頑張るよ。心配してくれてありがとう」
笑いながら別れを告げて電話を切ると、急にその場が暗くなったような気がした。
今まで声だけとはいえ人と一緒にいた感覚が一瞬にして全て消えてしまったのだから当然の錯覚ではあるのだが、近くで鳴いている蝉の声がやけに遠く聞こえているような気がしてしまい、それを少しだけ、寂しく思う。
世界のこっち側は、いつも静かだ。
「なにこれ可愛い」
「なまはげキティちゃん」
9月、新学期が始まるなり福井がぶらぶらとキーホルダーをぶら下げながらやってきた。仏頂面で可愛くない福井から発せられる"キティちゃん"という可愛いワードはなかなかアンバランスで、それがなんだか可笑しい。
「…ありがとう」
「ちなみに俺のキティちゃんはこっち」
「花火師? 可愛い…けどなんで自分のまで買ったの…?」
「可愛いからに決まってんだろ」
よくわからない理屈だったが、福井はとても満足げなのでそれ以上は突っ込まないことにした。可愛いのは事実だし、単純に友達から物を貰うことに慣れていない私はそれが嬉しかったので、福井がキティちゃんを買った理由なんてどうでも良かったのだ。
「…つか、この間氷室と花火大会行ったんだってな」
鞄から一限の教科書を出しながら、気のない風に福井が言う。
半月も経っていないことなのに、なぜか昔のことのように思えた。
「行ったよ」
あまり考えないようにしていたのに、嫌でも思い出すあの日のこと。
彼の浴衣姿とか、食べ物を抱えて笑う顔とか、優しい声とか、温かい手とか。
何度か見て思ったことだが、彼には昼の光より夜の薄暗い闇の方が似合うようだった。
あの薄墨に染められた横顔は、まだ鮮明に覚えている。忘れられないのに、思い出してしまうのがなぜか恥ずかしい。
「人混み、大丈夫だったか?」
花火よりそちらの方を心配してくれるのが福井らしい。
思考をすっかりあの日の氷室に囚われてしまいそうになっていた私は、慌てて目の前の福井に意識を引き戻した。
「うん。すごかったけどなんとか。花火も綺麗だったよ」
「そっか」
ちょっとだけ、表情の固い福井。そんな顔をさせてしまうなら彼のことも誘えば良かったかなあ、なんて考えていると、
「……あのさ、冬子」
少し変な間が空いたと思った後に彼はこちらを見ないまま声を抑え、改まって私の名を呼んだ。
「……氷室のこと、好きなのか?」
そうして尋ねられたのは、予想もしていなかったそんな言葉。
…次に変な間をとってしまったのは、こちらだった。
好き、って、そういう意味で訊かれているんだろうか。つまりその、人としてとかじゃなくて、恋愛対象として、という意味で。
私が、氷室を? 好き?
「………わかんない」
私の口から出てきたのは、肯定でも否定でもなかった。
突然の問いで混乱したというだけじゃない。
好きだという可能性を今まで考えて来なかったことは事実だが、それでもこれまでだって、私の中で氷室が他の人とは何かが違う"特別な存在"であること自体はどこかでちゃんと自覚していた。
それが恋という感情によるものなのか、それはわからないのだが…そう、だから今のわからないという返答は、私の真っ正直な気持ちだったのだ。
「…考えたこともなかった」
福井はちらっと私の目を見た。
探るような視線に疑問を覚え、首を小さく傾げて質問の真意を言葉なく尋ねてみると、福井はすぐに目を逸らしてしまう。
「そっか」
福井の口から色恋の話が出てくるなんて思わなかった。
そういえば、全然お互いにそんなことを気にしたこともなかったなぁなんて今更に思う。最近の私の挙動はそんなにおかしかったのだろうか…いや、思い当たる節が所々にあるのが恥ずかしい…。
「福井は好きな人いるの?」
なので、誤魔化しついでにそんなことを訊いてみた。
今まで考えたこともなかったけど、顔良し面倒見良し運動神経良し頭良しと、モテ要素をフルパックにしたこの男が恋愛沙汰と無縁という方がおかしいような気がしてきたのだ。
「………いるよ」
返ってきたのは淡々とした短い肯定。
照れる様子もなく真顔で返されてしまったせいで、なぜかこっちの方が気まずくなってしまう。
「え…いや、ごめん、そうなんだ、知らなくて…私、福井となんかすごい馴れ馴れしくしちゃってたけど…うわごめん、好きな子いるのに他の女子とあんま仲良くしてたら悪いよね」
誰だろう、うちのクラスの子じゃないと良いんだけど。
意味もなく教室をきょろきょろと見回しながら福井が好きそうな子がいやしないかと警戒していたら、「なんでお前の方がテンパってんだよ」と笑われてしまった。
「つかそいつ全然俺のことそういう目で見てないから、俺が誰と何を話してようが表情一つ変えねーよ。心配すんな」
「…何それ、辛いだけじゃん」
きょろきょろするのをやめ、福井に視線を戻す。
福井ほどの人でも相手を落とせないことがあるんだろうか。私はあまり強く誰かを好きになったことがないけど、それでも片思いっていうのが切ないものだということくらいはわかる。淡い初恋の相手だった小学校のクラスメイトの…もう名前も忘れちゃったけど、とにかくその彼に"バケモノ"呼ばわりされた時は結構堪えたからなぁ…。
「まぁ、でも好きだし」
予想に反し、福井は随分とけろっとしているようだった。
相変わらず全く臆することのない堂々とした言葉に、私はまだ慣れられない。
「…なんで好きなの?」
そういう目で見てない、なんて切ないことを言うくせにその顔は自信に満ちているものだから、つい私も深掘りしてしまった。
嫌がる素振りなんて見せることもなく、福井は少しだけ笑う。
「優しいから」
「……それだけ?」
優しい人なんて、そこら中にいるんじゃないの?
「放っとけば良いようなもんでも放っとけなくて、どってことないようなもんにもすぐ反応して、傷ついたり感動したり忙しいやつでさ。おもしれえなって」
「…それ、優しいの?」
「なんつーんだ、こう…わかりやすい親切とか、確かにいわゆる対人的な優しさではねーんだけど…素直で繊細っつーか、生き方が優しいっつーか……」
聞いているうちにどんどんわからなくなってきた。
福井も喋っているうちに混乱してきたらしい、さっきまでの自信はどこへやら、首を傾げながらだんだん調子が尻すぼみになっていく。
「……よくわかんないけど、相当好きなんだね」
仕方ないので収拾をつけるために適当にまとめてみると、福井も言語化を諦めて強く頷いた。
「…ああ、好きだよ」
その笑顔が珍しく皮肉のない綺麗な笑顔だったものだから、なんだか羨ましく思えてしまった。
自分の気持ちに自信を持てるって、良いな。
迷いのない感情って、素敵だな。
「告白は?」
「しない」
「付き合いたいとか思わないの?」
「思わん」
「なんで」
「言ったろ、そういう感じじゃないって」
「えー…よくわかんない…」
「お前こそ氷室のこと、わかんないってどういう意味だよ」
だって、わかんないんだから仕方ないじゃないか。というか突然話を戻されてもこちらは困るのだ。「わかんないものはわかんないよ」と拒絶の意思を示し、そっぽを向いてやる。
窓の外は、今日も日差しが強い。青々とした木の葉だけが涼しげに揺れていた。
夏の景色を眺めながら私は、福井のこと、知ってるようで全然知らなかったんだなぁなんて当たり前のことを思った。
福井もそれ以上はこの話に踏み入ってくる様子はなく、ホームルームに遅れて担任がやってくるまでずっと昨日のテレビの話をしていた。
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