[本日の予定:私達2人とも、浴衣を着ていた。浴衣姿で、並んで人混みを歩いた。空は澄んでいてとっても綺麗で、打ち上がる花火はまさに大きな黒いカンバスを彩る鮮やかな花畑のようだった。────そんな花畑の中で見る彼の顔は、なんだかいつもと違うように見えて。
音なんて、何も聞こえないはずなのに。どん、どん、と反響する自分の体の音が、なんだかとても大きく聞こえるような気がしてならなかった。]
[進捗:000%]

22話




花火大会当日の朝、今夜出かけると言ったら母親にたいそう驚かれてしまった。

「…何しに?」
「花火見に」
「…格好は?」
「今のこれで良「浴衣なら私の衣装棚にあるから、後で持って降りてきて」…はい…」

成程こういう流れで私まで浴衣を着るのか。
まぁ氷室も浴衣で来るなら私が洋服なのはおかしいだろうし、ここは素直に従えば良いんだろう。

会場は学校から私の家を通り越して、更にいくつか乗り過ごした駅の近くにある河川敷。氷室は当日の18時、開始時間の2時間前に私の家の最寄駅まで迎えに来ると言っていた。
そんなことしなくて良いよ、とは言ったものの、慣れない格好で怪我でもしたら困るので、と頑固モードに突入されてしまったので、仕方なく折れた。家まで迎えに行くと言いだす前に折れておいて良かったと思うことにしよう。

16時頃から、着付けが始まった。母親は度々手を止めつつも、私に綺麗に浴衣を着せてくれる。着付けできたんだね、と言ったら、私の年頃の子はだいたいできんのよ、と言われた。本当だろうか。

「髪は自分で結える?」
「うん、大丈夫」
「髪飾り、可愛いの貸してあげる」

着せてもらったのは水色の涼やかな浴衣。黒と赤の金魚が楽しそうに泳ぎ、彼らの通った後には白い波紋が広がっていた。腰元を彩るのは黄色の帯。アクセントのように散りばめられたきらきらと光る白い粒子がまるで夏の星空のように上品に広がっていた。
巻いた髪をまとめてサイドに流し、きゅっと緩く結ぶ。可愛いの、と言って母親が貸してくれたのは、帯と同じ黄色い花のかんざしだった。

普段こんなに着飾ることがないせいで、鏡の前で見る自分の姿が別人のように見えてしまった。特に顔周りにこんな鮮やかな装飾をつけることなんてないから、薄めのメイクでもなんだか顔色がいつもより明るくなったようにすら見える。

「…冬子がこんな風に浴衣を着る日が来るなんてね」

いつもどこか疲れたような顔をしている母親の優しい微笑み。目を細めて鏡越しに私を見る彼女がついた溜息は、重たいものが抜けていくような清々しささえ感じられた。

「……彼氏?」
「じゃない」
「即答なのね」

まぁ誰でも良いけど、と言いながら夕飯の支度に取り掛かり始めた母親の背中を見ながら、随分と心配かけていたんだなぁなんてことを思った。確かにこうやって、時間をかけて準備をして誰かと遊びに行くなんて、生まれて初めてのことだった。

18時手前、家を出て慣れない下駄を履きながらよちよちと駅に向かう。改札の周りには既に同じように浴衣を着ている若者が溢れていた。そんな中で、壁に背を向けて時計を見る氷室の姿を見つける。

…事前に知っていても、目に悪いくらい綺麗だった。

着ているものは普通の、地味な、紺色で、地味な、縦縞の入った、地味な、普通の浴衣。特に装飾品がついているわけでもなく、何か挙動が普段と異なるわけでもない。
それなのに、なぜかものすごく目を引くのだ。背が高い、スタイルが良い、それもあるだろう。顔が良いことがきっと一番彼の輝きに起因していることもわかっている。

でも、それだけじゃない。
素材の良さだけじゃなく、彼の場合、滲み出る立振舞いがあまりにも美しかった。シルクのようだと評したいつかの自分の言葉が、それでも不足していたんじゃないだろうかと思わされて仕方ない。ただそれを立派な美術品や美麗な景色に喩えたところで、それでは却って陳腐なものになってしまう。

そうじゃない、そうじゃないのだ。

こんな俗物的な文明しか存在しないようなゴミ溜まりの中で、彼だけが天然のもののように見えた。いつもより纏うものが少ないからだろうか、余計に彼自身の魅力が際立っているように見える。

…待て、私は今日これから数時間に渡ってこの神様の最高傑作と並んで歩くのか?

うわ…無理……。
どうしようちょっと帰りたくなってきた。鑑賞はしていたいけど触れたくはない、この微妙な気持ちをどう処理し────「…水影さん?」…あー………。

もぞもぞしているうちに向こうの方から見つけられてしまった。呼びかけが疑問形になるのも当然だろう、私の視線はかなり不審だったはずなのだから。というか周りの人はよく目もくれず平然と通り過ぎれるなこんな絶世の美少年の横を。

「…こんばんは、お迎えありがとう」
「………びっ…くりしました。いつも以上にお綺麗です……」

嫌味か。

「氷室君も、浴衣似合ってるよ」

氷室はあの、たまに見せるはにかんだ笑顔で応えた。

「すみません、ちょっとだけ狡い計画を立てていました」
「…計画?」
「俺が浴衣を着れば、水影さんも浴衣で来てくれるかなって」

私が昨日のうちに氷室の浴衣姿をキャッチすることを織り込んでいたわけだ。私の異常さを当然のものとするどころか逆手にとって利用してくるとは、末恐ろしい。

「…まぁ、珍しい格好は見たくなるよね…」
「似合うだろうなとは思っていたんですけど、想像以上でした。ヤマトナデシコ、素敵です。他の誰よりも」
「わかったわかった、もう良いよ大丈夫ノーセンキュー」

テンパってわけのわからないことを口走り始めた私を見て、氷室は笑いながら口を噤んだ。褒め殺している自覚はあるらしい。たちが悪い。

そこから電車に乗って、3駅先へ。降りたところには、乗ったところよりたくさんの浴衣姿の人々が練り歩いていた。

「思ったよりすごい人混みだね…」
「東京と比べてどうですか?」
「テレビでしか見てないけど東京はもっと酷い、歩けない」

まあ歩けるだけましなのかもしれないけれど、元より人混みが苦手な私にとって今日の秋田の街は十分殺人的だった。慣れない浴衣を着ているせいでストレスは増し増しだ。

早く会場に着かないものかと俯きながら歩いていると、不意に横から私の袖に触れるものがあった。

「────すみません、こんなに混むと思っていなくて…辛いですよね。できるだけ俺もゆっくり歩きますし、良かったら休憩しながら行きましょう」

それはこちらに意識を向けさせる氷室の手だった。控えめに私の腕を引き、優しくそう語りかける。

眉をきゅっと寄せて、困ったように口角も下がっている。
きっと心から私のことを心配してくれていて、自分の都合や気持ちを全てよそに置いてから、私に一番負荷が少ない道を選ぼうとしてくれているのだろうとすぐにわかった。

「ごめんね、気を遣わせて。別に体調崩したわけじゃないから大丈夫だよ、ありがとう」

慌ててそう言うと、全力で元気ですとアピールする私の様子を見て氷室は安心したように息をついた。

「それなら良かったです。でも無理はしないで、暑い中慣れない服を着ているんですから、少しでも何かおかしいと思ったらすぐ言ってくださいね」

気を悪くした風もなく、笑ってそう言ってくれるんだから本当に悲しくなるくらいできた人間だと思う。
申し訳なさと情けなさで私の笑顔は随分下手くそなものになってしまった。

結局そのまま歩き続けたわけだが…すぐ隣にいる彼の存在を、いつもよりずっと傍に感じてしまって。
ちらりと横顔を見上げて、いつも見慣れているはずのその綺麗な顔が思ったより近くにあることにバカみたいに驚いて、すぐに視線をまた逸らした。

…そう、いつも見ているはずなのに、なんだか勝手が違うのだ。

そのまま道を下り、河川敷へと辿り着く。駅からの一本道は人がごった返していたが、橋を渡って川の近くまで来るに連れ道も広がり、人が分散していくのがわかった。空気を肺に取り込むゆとりもでき、ちかちかしていた視界がクリアになる。

「あー…呼吸ができる」
「大丈夫ですか?」
「うん、もう本当の本当に大丈夫。ありがとう」

空いているスペースを見つけた氷室がちょいちょいと手招きをする。少し離れたところで相変わらずよちよち歩いていた私が彼の元に寄ると、彼は手に持っていた鞄の中から小さなレジャーシートを取り出した。道理で花火大会に行くにしては大きな鞄だと思った、それを入れていたのか。

「足は伸ばせないんですけど、良かったら座ってください」
「氷室君は?」
「俺は別に、直で大丈夫です」
「良くないよ、ちょっと近いけど嫌じゃなかったら一緒に座ろう」

100センチ四方くらいの小さなレジャーシート。端の方に座って今度は私が手招きをすると、氷室は少し躊躇うような顔をしてみせた後、「じゃあ…失礼します」と言ってすぐ隣に腰掛けた。

また、これ。
近くにある氷室の顔は、体は、いつも見ていて慣れているはずなのに。
着ているものが違うだけでこうも新鮮に見えてしまうのか。

「アメリカでもこういうイベントってあるの?」
「アメリカはむしろ年末年始に派手にブチ上がるってイメージですね」
「ぶち…」
「風情を感じながら見上げるというより、もみくちゃになってわけのわからないうちに爆発してたって感じです。それはそれで盛り上がるので楽しいですよ」
「ディズニーランド的な」
「です。多分もっとすごいですよ」

それはそれで確かに楽しそうだ。そんなもみくちゃの中で耐えられる気はしないけど、遠くからなら見てみたいとも思う。

「もし水影さんがアメリカに来ることがあれば、その時は近くのホテルの最上階をとって眼下に賑わう人達を眺めながら花火も楽しんで、そして乾杯しましょう」
「ふふ、まるでお金持ちみたいで素敵だね、それ」
「でもその時は絶対にアツシも福井さんも誘いましょう。みんなで稼げば現実的です」

真面目な顔をしてそんな計画を立て始めるものだから、おかしくてつい笑ってしまった。私の笑い声につられるようにして氷室も笑い始める。
そんな連鎖がとても心地良かった。

「始まるまであと30分くらいありますね。何か食べますか?」
「私は良いけど…せっかくだし屋台の方をちょっと見てみようか」

堤防の上に並ぶいくつもの屋台。焼きそばやら綿飴やら、売っているものといい急ごしらえの質素な店構えといいそこにあるのは定番なものばかりだが、逆にそれがお祭りの気分を盛り上げてくれる。

「見てたらお腹が空いてきました」
「ふふ、何食べる?」
「人気なのは…焼きそばですか?」
「そうだね、焼きそばとかたこ焼きとか…いか焼きもお好み焼きもあるよ」
「じゃあ、全部買います」

威勢の良い返事とともに、氷室が手近なたこ焼きの屋台に並び出した。胃袋や金の心配はいらないだろうが、熱くて持ちにくい屋台の食べ物を果たしてその両手に全部持ちきれるんだろうか…。

別に食欲も関心もなかった私は、少し離れたところで立って待っていることにした。
がやがやと耳障りな騒音が少し不快だが、刺すような日差しが陰ってきたことで、頬を撫でる温い風を感じる余裕くらいはでてきた。

「あっ、すみませんお姉さん! 写真撮ってもらっても良いですかー?」

ぼうっとしていると、少し離れたところから大学生らしき男性3人組に声を掛けられた。3人揃いの黒髪と日焼けした肌に、白いTシャツが眩しい。
一瞬狼狽えてしまったが、同じような出で立ちの彼らから悪意の全くない明るい笑顔で携帯を差し出されてしまったので、なんとかこちらも心を持ち直して笑顔を作り、携帯を受け取る。

「えと、じゃあいきますね…ハイ、チーズ」

いかにも仲の良さそうな雰囲気で肩を組む男性達。
縦向き横向きそれぞれで1枚ずつ撮り、彼らに携帯を差し出した。

「確認お願いします」
「ありがとうございまーす!」

男性の1人がそう言って私の手にある携帯をそのまま操作し始めた。パーソナルスペースが人より随分と狭い私は、その距離感に今度こそ固まってしまう。しかし必要以上に彼らを遠ざけるのは却って失礼になるからとぐっと堪え、私の周りにわらわらと集まる彼らが写真を確認し終えるのを大人しく待った。

「お、いい感じっすね! ありがとうございます!」
「お姉さんその浴衣よく似合ってますね!」
「高校生っすか?」

撮り直しの必要はなかったらしい。お世辞はありがたいのだが、正直このノリにはとてもついて行けないので、できるだけ早めにお別れしたいと思ってしまっていた。怖い、怖いよ大学生(仮)…。

「あ、えっと…はい…」
「あーほらお前、怖がらせちゃってんじゃねーか! すいませんねー、デカくていかついのに絡まれたらフツービビりますよね! ほんとありがとうございます!」

流石に私の縮こまりように気づいたのか、仲間の1人が笑いながら友人を諌め、私の手からやっと携帯を取り上げてくれた。 安堵を隠しきれず、私は顔の筋肉の強張ったまま「イエ…」とロボットのように呟く。

「水影さん!」

その時、大学生達(仮)の背後から氷室が駆け寄ってきた。
片手に焼きそばを持ったまま真剣な表情をして私の隣に立つと、躊躇いなく私の手を握り「すみません、彼女が何かご迷惑を…?」と申し訳なさそうに彼らに向かって話しかける。

「や、むしろ逆に写真撮ってもらってたんすよ〜!」
「てか彼氏さん? めっちゃカッコよくね? 良かったらお返しに俺らも写真撮りますよ!」

きゃっきゃっとはしゃぎながら「ほら携帯貸して貸して!」と氷室に手を出す大学生(仮)。
氷室は完全に圧倒されたようで「え? あ…え、写真?」と狼狽えている。よくわからないままに携帯を出すと、彼らは慣れた手つきでそれを構え、私達に向けた。

「ほら、並んで並んで!」

完全に思考する暇さえ奪われた私達は言われるがままに隣に立つ。
いつもより近い彼の袖と私の袖が触れた時、そういえば大学生(仮)に囲まれた時はあんなに怖かったのに、今はそんな違和感を全く抱いていないことに気づいた。

しかしその違いがなんなのか考える前に、小気味良いシャッター音が鳴る。

「固いな〜、付き合いたて?」
「いや、そういうんじゃ…」
「あ、マジ? ちょっと彼氏頑張ってよそれはー」
「こら、余計なこと言うなお前はもー! ほんとすんませんね、楽しんでくださーい!」

一方的に言うだけ言って、彼らはさっさと行ってしまった。

まるで嵐が去った後のようだ。
うるさい環境は変わらないのに、なんだかふわふわと宙に浮いているような感覚がする。

「…ええと…」
「…ナンパじゃなかったんですね」

戸惑っている私の横で、少し気まずげな氷室がぱっと手を離し、頬をかきながらそう言った。

「え?」
「すみません、俺、てっきり水影さんがあの人達に言い寄られてるのかと思って…」

ああ、それであんな風に手を取って牽制して…それなのに好意的に話しかけられたものだからあそこまでたじろいでいたのか。

「そんな…漫画じゃあるまいし、ナンパなんてされないよ」
「そりゃ困るだけのナンパなんてないのが一番ですけど、水影さんは────」

ドン、ドン。

言葉の途中で花火が鳴る。ぱっと反射的に上を見上げたが、まだ上がっている様子はなかった。準備か何かの段階で音だけ聞こえてきたのだろうか。

「ごめん、私は何?」

意識をとられたことを詫び、続きを促す。しかし氷室は俯きながら首を振った。

「…いえ、なんでもないです。危険がなくて良かった。戻りましょう」
「食べ物、それだけで良いの?」
「はい、列に並んでいるうちに花火が終わってしまいそうだったので」
「それもそうだね」

小さなレジャーシートのところまで戻る。
並んで腰掛けてから、氷室はパックに入った焼きそばの蓋を開けた。

「少し食べますか?」
「ううん、大丈夫」

律儀に私に聞いてから、お行儀良く「いただきます」と食べ始める氷室。
そんな些細なところにまで、彼という人間の細やかさが表れていた。

日は暮れてからが早い。
さっきまでは陰っていながらもまだ明るかったはずなのに、あっという間に辺りが暗闇に包まれていった。薄墨のような色に染められた世界の中で、氷室は変わらず存在感を放ち続けている。

綺麗だなぁ。

やがて、本物の花火が上がり始めた。
ひゅるる、と細い音が鳴ってしばらくした後、空に鮮やかな花が咲く。一瞬遅れて、腹の底にどんと太鼓を打ちつけたような衝撃が響いた。

「………」

中心から、波のように広がる火の飛沫。
微かな余韻を残して空に一瞬の軌跡を残したかと思えば煙と消えていくその様は、あまりに儚い。
それなのに打ち上がるその刹那の熱量は、消えた後にも網膜の裏で残像となるほどに大きく、そして鮮やかなのだ。

「命みたい」

ぽつりと呟いた私の横で、独り言に反応した氷室が僅かに首をこちらへ傾けた気配を感じた。
つい漏らしてしまったが、そんなポエミーなことを言ってしまった私に引いたりしないだろうかと今更少し恥ずかしくなる。いや、そもそも私の思考なんてわかるはずもないのだから、突然意味不明なことを言い出した電波人間と思われたかもしれない。

「………だとしたら、あなたの人生はとても美しいんですね」

────思わず、私もそちらを向いてしまった。

ぶつかったのは、氷室の包み込むような眼差し。愛おしいものを見るような微笑みで、花火の光を受けながら私を見つめる彼の顔は、どきりとするほど艶やかだった。

命を花火のようだと喩えた私に、生き物の一生がそんなに美しいものに見えるのであればと返してくれた氷室。
まるでそれはいつかの時代に存在した返歌のように詩的で、何より優しかった。

「……氷室君って…」
「?」
「……なんでもない」

氷室君って、なんか危ない。

出会った日にも思ったっけ。桜の舞い散る風に乗せられて消えてしまいそうだって。
今はなぜか、彼がこの薄墨の空に溶けてしまうのではないかと思わされてしまった。それほどまでに彼の言葉がこのうるさい夜には静かすぎて、この鮮やかな夏には儚すぎて、私はどうにも不安になってしまうのだ。

30分のパフォーマンスはあっという間だった。スタンダードな円形の花火、滝のように連続して登る細長い花火、有名なキャラクターを模した花火────様々な色と形の光が空に何度も繰り返し咲き、その度に歓声と拍手が響く。
賑やかな夜は始まりと同じように唐突に終わりを告げ、余韻に浸る間も無くがやがやと周囲は片付けを開始した。

「すごい…最後の連続打ち上げ、圧巻でしたね」

氷室はどこか興奮した面持ちで私に同意を求めてくる。
「そうだね、綺麗だった」と私も惚けたまま答え、人の波が引けるのを待っていた。

「少し人が減ってからでも良い? 帰るの」
「もちろんです。ゆっくり行きましょう」

立ち上がり歩き去る人の中で私達だけ止まって座っている、そんな対比が浮き彫りになったかのような空間。
氷室は静かに何もない空を見上げていた。

「…今日は誘ってくれてありがとう。花火を見るのなんて久々で……楽しかった」
「こちらこそ、付き合ってくださってありがとうございました。写真や動画で見るよりずっと綺麗で、良い思い出になりました」

あ、そうだ、と言って携帯を取り出す氷室。何やら操作をし出したと思ったら、ほどなくして私の携帯にメールが送られてくる。

「…あ」

それは、さっき大学生(仮)に撮ってもらった写真だった。ちょっとぎこちない顔の私達。
微妙に空いた体の隙間は、きっと心の距離をそのまま映しているんだと思う。

「…氷室君もなんか顔固いね。渋谷で撮った時はすごく自然だったのに」
「…少しだけ、恥ずかしかったので」

まぁあんな風に騒がれてしまえばそれも当然か。まして私は彼女扱いされてしまっていたし、不本意ということもあったかもしれない。

「はは、ごめんね、隣が私で」

不釣り合いにしか見えない写真を眺めれば眺めるほど、申し訳なくなってくる。
小さな声で謝ると、氷室は焦ったように携帯から目を離し私を見つめた。

「隣は水影さんが良かったです」

ああ、またこの目。
嘘をついているようには見えないし、こんなくだらない嘘をつくような人でもないけど、それにしたってそんなことを言ってもらえる理由がないのだから信用できない。
それなのに、何かに縋るようなこの目を見ていると、心の芯を素手で掴まれたような息苦しさを覚えるのだ。

「…そう、なら良いんだ」

何が良いのか自分でもわからず、逃げるような相槌を打った。

人はまだ捌けない。早く動けるようになれと願いながら、むしろ花火が上がっている時間より長く私達はそこに座っていた。

やがて人の波が落ち着き始め、夜特有の穴の空いたような静けさが戻ってきた。まだ駅の周りは混雑しているだろうが、道中押し潰される心配はひとまず消えただろう。

「そろそろ行きましょうか」

氷室も頃合いだと思ったのだろう、最初に立ち上がり私に手を差し出す。
躊躇いながらその手を取ると、軽々と引っ張り立ち上がらせてくれた。

氷室がレジャーシートを畳んで鞄に仕舞うのを待ってから、歩調を合わせて来た道を戻る。

「意外とまだ人はいるんだね」

お祭りの後だからだろう、ゆっくりとした歩調で笑いながら歩く人の背が、そう遠くないところにまだ並んでいた。

「なんだか良いですね。こうやってのんびり歩きながら、楽しく喋って、笑って…」
「…そうだね」

汗でうなじに張り付いた後れ毛が相変わらず暑苦しかったけど、氷室の言いたいことはなんとなくわかった。気怠い夏の空気の中でも、時間がゆっくり過ぎていくことを楽しむ術はあるというわけだ。

そんな風に考えながら完全に気を抜いて歩いていたら、それが悪かったのだろう…突然私は歩道の段差に躓き、前につんのめってしまった。

「!」

咄嗟に氷室が腕を私の前に差し出し、手すり代わりになってくれる。
自重ではとても支えきれずに、彼の腕にしがみついてなんとか事なきを得たが、勢いで下駄が脱げてしまい、はみ出した爪先が思い切り地面を擦ってしまった。幸い爪が剥がれるなどという惨事にはならなかったものの、母指球がずきずきと擦れた痛みを訴えている。

「てて…」
「大丈夫ですか?」
「ごめん、ドジをしてしまった」

3歩ほど後ろの方に取り残された下駄を履こうとくるり、後ろに方向転換したところで「動かないで、待ってください」と氷室の制止が入る。
何事かと言う前に彼は私の下駄をひょいと一歩で拾い上げると、躊躇うこともなく私の前に片足立ちで跪いた。

「え、ちょっ」
「はい、足を出して」

言われるがままにおずおずと足を差し出すと、彼は丁寧に両手を下駄に添え、爪先から私の足に履かせてくれる。
踝に片手の指先を這わせ、鼻緒にもう片手をあてがいしっかり指の間にまで押し込めると、足を支えたまま地面に置いた。

「大した怪我はなかったみたいで、良かったです」
「あ…ありがとう…」
「慣れない履物ですし、疲れも出たのかもしれないですね。駅はもうすぐです、頑張れますか?」
「頑張れます…」

そうか、怪我の有無も調べるためにああしてくれたのか。
────彼の真意がわかったところで、動悸が収まるわけではない。

触れられた足が、熱い。

彼はにっこり笑って立ち上がると、紳士らしく私の前に手のひらを差し出した。

「また躓いてしまっては危ないので、良かったら杖代わりに使ってください」
「えっ、そんな…良いよ、悪いよ…」
「誘った手前、きちんと最後までエスコートさせてほしいんです」
「う…」

そう言われると弱い。強制するような言い方じゃない代わりに、彼の提案はとても正当なものに聞こえてしまう。
何より純真な気遣いを無碍にもできず、私は躊躇いながらも差し出された手をそっと取った。

どうしよう…足だけじゃない。体全部が、すごく熱い。

これは暑さのせいだけじゃない気がする、だって今、急に体温が上がったのだから。

別にこれは転びそうになったから手を引いてもらっているだけのこと。
そこには深い意味なんてないのに、どこかでその意味を探している私がいる。

手汗、かいてないかな。繋いでしまっているからよくわからない。

あれ、私達っていつもこんなに沈黙していたっけ。普段、何を喋っていたんだっけ。

氷室の顔が見られない。
背が高いから見ようと思うとどうしても首を傾けなきゃいけないし、そんなことをしたら見ているのがばれてしまう。

おかしいな、今日はいつも以上に綺麗だからと彼の顔を何度も見上げていたはずなのに。

もうすぐだったはずの駅までの道のりが、ひどく遠く感じる。
それなのに、私はまだ着かなくて良いなんて、そんな気の早すぎることばかりを考えていた。

まぁもちろん、そんなものは全て感覚的な話なので、時間にして5分も経たないうちに駅へと着いてしまうわけだが。
改札を通る時に繋いだ手は離れた。それについては私も彼も何も言わず、黙ったままホームに降りて電車を待った。

私はともかく、彼までもが沈黙を貫いているのは不自然だった。いつも何を話していたか思い出せないまま、私は羞恥より不安が上回ったことでやっと氷室の表情を窺うべく首を伸ばした。

「………」

瞬間、ばちりと彼と目が合ってしまった。かと思ったら、不自然なほどの早さで彼は視線を逸らす。
まるで目が合うことに不都合が生じるかのような動きに、「…ん?」と思わず疑問の声を上げてしまう。

私が彼を見る前、彼は私を見ていたんだろうか。
化粧も髪もきっと崩れてしまっているから、あまり見られたくはないんだけどな…。

「氷室君ってさ」
「…はい」
「こういう時何を考えてるの?」
「はい…?」
「いや、いつも何話してたかなぁってわからなくなっちゃって…。考えてみれば氷室君の方から話しかけてくれることが多かった気がするから、何を思って会話の始まりを作ってくれてるのかなって」

熟考した挙句 結局間抜けな質問が飛び出してしまったが、氷室はまたこちらをまっすぐ見つめてきた。少しだけ困ったような顔で「そうですね…」と悩んだ後、唇を何度か震わせ躊躇いを見せてから、「…何も考えてないですよ、たいしたことは」と実に無難な答えを返してきた。

溜めた割には本質のない回答だな、と思ったが、こちらとて別に深い意味を持って訊いたわけじゃない。「そうなんだ」とつまらない相槌を打って、また沈黙に身を任せることにした。

「…水影さんは…あまり自分から話すイメージがないんですが、何を考えているんですか」
「うーん…つまらないこと」
「つまらないこと?」
「例えば今は…そうだなぁ、車窓から見える街の明かりは、地上に降りてきた星空みたいだなぁとか」
「………俺、あなたのそういう考え、本当に好きです」

囁くような告白だった。
どきりと心臓がひとつ、大きく体を叩くのがわかった。

夢見がちでくさいこんな胸の内を、好きだと言ってくれた。
それが嬉しいのは当然のことだが、どうにも今の動悸はそれだけのことじゃない気がする。

窓の外から視線をずらし、再び氷室に目を向ける。彼は私のことをもう見ておらず、真面目な顔をして地上の星空を見つめていた。

その耳が、なんだか赤いような気がして。

自分の駅に着くその瞬間まで、私は二度と口を開けなかった。



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