[本日の予定:夏休み後半の夏期講習が始まった。なんと受講しているのは私と福井と岡村の3人だけ。なるほど、これから1週間はこの3人でこの閉鎖的な空間に缶詰状態となるわけだ。その後…これは休憩時間だろうか、福井といつも通り話している最中────何を話しているのかまではわからないが、とりあえず私は彼のこんなに目を丸くしている姿を初めて見た。]
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19話
夏期講習の教室に開講ギリギリになって飛び込んでみると、予想通りそこには2人しかいなかった。もちろんそれは、どっちも見知った顔。
ええわかっていましたとも、昨日のうちに覚悟していましたとも。
「え、冬子もこれ受けんの」
福井は若干驚いたように私を見ていた。岡村は一瞬きょとんとした顔をして、それから「ああ、水影さん」と思い出してくれたようだった。
「おはよう…他の受講者はいないんだね」
「みたいだな」
「そもそもワシらも監督命令さえなけりゃ受けとらんかったからのう…」
「うわ大変、そんなのあるんだ」
「部活ばっかで勉強する時間がとれないって言い訳はさせん、時間がないなら強制的に作れ、とのお達しだ」
「ご愁傷様」
普段あまりクラスメイトと話すこともないので、他の人がどうこの夏を過ごしているのかは知らない。流石に受験生としての夏を自堕落に満喫することはできないと思うので、おおよそ予備校にでも通っているのだろうとは思う。
「お前は予備校派じゃねーの?」
「併用派」
「熱心じゃのう」
「見境がないとも言う」
「使えるものは使わないともったいないでしょ」
言い返しながら福井の後ろの席に着いた。
開け放たれた窓から風が入るけど、湿った空気は全然循環しない。乾かない汗のせいで髪がうなじに貼り付いて鬱陶しい。遠くで鳴いているセミの声と、木々の枝葉の擦れる音だけがやけに爽やか。目の前に座る福井の真っ白いワイシャツが、陽光に反射して眩しい。
ああ、夏だなぁ。
その日の講義が終わった後、岡村から3人でお昼を食べに行こうと誘われた。正直仲の良い2人の間に入れてもらうのが申し訳なかったので一度は断ろうとしたのだが、まるでそんな及び腰を見抜いたかのような福井の「そういやIH前に冬子のことベーグル店に誘ってたの忘れてた。そこ行こうぜ」という言葉に逃げ道を塞がれてしまう。
つい先週まで、氷室と紫原という"他人"と二日間もずっと一緒にいる、などという非常に疲れる経験をしてしまっていたので、暫くはまたひとりで生きていくつもりだったんだけどな。決してこの世の全ての人が嫌いというわけではないものの、やはりどうしても接し方がわからない人と一緒にいるのは息苦しい。仕方ない、ずっと黙っていることにしよう。
…と、そうだ。
岡村が学校を出る前にと言ってトイレに立った隙に私は鞄から小さなビニール袋を取り出し、福井に渡す。
「これ、先週東京に行ってたからお土産買ってきた。まさか岡村君と会うなんて思ってなかったから福井の分しか用意してなかったの。だからごめん、内緒ね」
「お、まじかさんきゅ。気遣わせて悪いな。…つか何、この時期に東京って…ひとりで行ったのか?」
「ううん、氷室君と紫原と」
「ほーそうか、氷室と紫…………は!?」
言いながら、昨日見たままの表情になる福井。眠たそうな目つきがこれでもかと見開かれ、珍しく言葉を失っている様はなんだかおかしかった。ああ、これでこんなにまあるい目をしていたのか。
「な、なんでそんなことに」
「向こうで偶然会いまして…なんとなく行動を共にすることになりまして…」
「んな偶然アリかよ」
アリかナシかで言ったら圧倒的にナシだよ。
「つかお前何それ…大丈夫だったわけ? 色々と…」
「うーん、一応色々大丈夫だった。拍子抜けするくらい普通に穏やかだった」
まあ実際は穏やかなんてものとは対極の感情を抱く大イベントが発生していたわけなのだが…。
ただ福井が心配してくれているのは、あくまで"紫原と一緒にいて大丈夫だったのか"という部分についてだけだと思う。その点については本当に何も問題がなかったし、なんなら問題(?)があった方の氷室とも一通り対話した後は自然と"いつも通り"に戻れていたので、結果終わればの理論でそんなに悪い2日間ではなかったのだろうと思っている。
だから私はいつも通り、そんな"嘘ではない微妙なライン"をついた答えだけ返すことにした。
「んー…お前ら3人が東京観光してる姿…想像できねーな…」
「証拠あるよ。写真見る?」
福井に見せたのは、氷室がはしゃぎながら撮った渋谷での自撮り写真。明らかに写真慣れしていない私と興味のなさそうな紫原を見てだろう、福井はぷっと吹き出した。
「こんなに自撮りに向いてない組み合わせあるかってくらい下手だな。つーか俺お前が写真に写ってんの初めて見たわ」
「多分最後に写真撮ったのは卒業式の集合写真とかよ」
「…中学の?」
「うん」
私のすさまじい陰キャぶりは今に始まったことではないので、福井もそのくらいじゃ動じない。「うへえ」と気の抜けた声を漏らした以外に反応はなく、ぽいと携帯を投げ返してきた。
「じゃ後でゴリラと一緒に写真撮ってやるな」
「え…誰得………」
のしのしと小走りに戻ってきた岡村は、微妙な顔をする私達(なぜか提案してきた福井まで微妙な顔をしていた。多分彼もそれが誰も得をしないことに気づいてしまったんだろう)を見て、きょとんとあまり可愛くない小首の傾げ方をしてみせた。
それから向かった先は、駅の近くにあるカフェ。ベーグルがウリ、と言っているだけあって、店外のショーウィンドウにはたくさんのキラキラとしたベーグルが並んでいた。
「チーズうまそう」
「期間限定で甘夏みかん味とかあるよ」
「ワシはよもぎかのう」
夏休みだというのに、いや夏休みだからか、店の中は空いていた。普段学校帰りに通る時はいつもうちの生徒で賑わっているのが見えていたので、その分の客が減るだけでも随分落ち着いた雰囲気を感じる。
迷うことなく4人掛けの席につくことができた私達。みかんのベーグルひとつを選んだ私に対し、福井は2つ、岡村は4つのベーグルをどすんと机に置いていた。流石運動部だ。
「つかお前のその紫ぃのなんだよ」
「紫芋じゃ」
「うわー見落としてたわ。俺もそっちにすりゃ良かった」
「交換するか? お前のピスタチオもうまそうと思っとったからええよ」
「誰がお前の食いかけと交換なんかするかよ」
2人がどつきあいのような会話をしている姿を、リラックスした気分で微笑ましく見る私。
────そういえば、岡村と会うのはまだ2回目だったっけ。初対面の時だって福井はいるか、いないよ、ってそれだけしか話していないし、いつもの私ならこういう時はもっと緊張していてもおかしくないはず。
これがキャプテンシーと呼ばれる特性なのだろうか、なんてことを考えながら、特に喋ることもなく2人の会話をゆったりと聞いていた。
「水影さんは東京の人なんじゃろ? その辺どうなんじゃ?」
「えっ?」
…訂正する、全く聞いていなかった。
「ごめん…何が?」
「ほんと放っとくとすぐ宇宙飛んでくよなお前」
「はっはっ、いやなに、東京の子はやっぱり進学先の選択肢もたくさんイメージできるんじゃろうかって話をしてたところよ」
「ああ…そうだね、なんとなく志望校は固まってきてるよ」
まあ、有名どころや学力の高い大学は都市部にどうしても集中する。私が東京にいた頃はまだそんなに受験の話を本格的にする人もそういなかったけど、どちらにしろ既に進学先をある程度絞っていた私にとってはあまり関係なかったことだろう。
「お前の場合どこにいても選択肢は変わんなさそうだけどな」
「よくわかってるね、その通り」
私の考えを見抜いたかのような福井のコメントに素直に感心していると、私以上に意外そうな顔をした岡村が小さく息をついた。
「…本当に仲が良いんじゃなあ、お前さん達。ええと、水影さんが陽泉に来たのはいつだったっけか」
「ちょうど1年前くらい」
「うわまだ1年しか経ってねーのか」
「何か理由でもあったんか? そこまで仲良くなるだけの」
「あー、どうだったっけか…」
福井は考え込んでしまったけど、私はその日のことを忘れた試しがなかった。
「私があまりにも根暗だから同情して友達になってくれたんでしょ」
「あーそうそう、そんな感じ」
思い出を反芻しながら一言でまとめると、どや顔で福井も乗っかってきた。「感謝しろよ」なんて自分でさえ忘れていた恩を蒸し返してくるこの感じは、あの時からずっと変わらない。
「…よくわからんがこれからも福井をよろしくな、水影さん」
「キショいわゴリラ、お前は俺の親か。いやそれは嫌だわ」
「1人で解決せんでくれ! 寂しい!」
よろしくしてもらっているのはこちらの方なのだが…まあ、ここでこの話をあまり掘り下げるつもりもない。私はただ黙って曖昧に笑うだけに留めた。
────帰り道、先に別れ道を迎えた岡村が去っていった後。
2人で歩く道中、福井はいつもより言葉少なだった。何かを考えているようだったので、私もあまり口を挟むことなく黙々と歩を進める。
そうして、次の別れ道に差し掛かった時。
「…俺、お前に同情とかしたこと1回もないから」
福井はそう言うと一度だけ私の目をまっすぐ見下ろし、そして「じゃあな」とすぐに立ち去ってしまった。
…多分、さっき私の言った"同情して友達になってくれた"という部分を気にしてのことだろう。もしかしてこの帰り道、ずっとそのことを考えていたのだろうか。
確かに昔、福井はそんなようなことを私に言ってきた。もちろんそれは本当に"同情していた"わけではなく、福井なりに私に"人としての関心を持ってくれていた"から近づいた…のを、またあのわかりにくい茶化し方で軽く言い換えただけだし、あくまでさっきの私もそのノリを引き継いで言葉のまま引用しただけのことなのだが、
「…変なとこで律儀だなぁ」
まあそんなところも、福井の魅力のひとつだと思うから良いんだけど。
福井と出会った時のことを思い出したのは久しぶりだ。今でこそこんなに親しくしてくれているけど、出会ったばかりの頃はまさかここまで仲良くなれるなんて全く想像もしていなかった。
────福井があの場で私を救い上げてくれていなかったら、きっと今の私はなかっただろう。
彼は、それこそかつてのテツヤのように、孤独を嘆く悲劇のヒロインぶった私に唯一手を差し伸べてくれた、神様のような人だった。
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