月子と男の娘
淡く儚い花弁が、風に乗って舞い上がる。その枝をまっすぐに伸ばす大きな木は、ちょうど花弁を空へ届けようとしているみたい。
それでも未知の世界に踏み込めなかった小さな花弁達が、こうして足元を埋めていく。
…まるで、自分のようだと思った。
自分も、あの人のいない―――未知の世界が怖くて、ここへ逃げてきてしまった。
逃げたところで逃げ切れる訳がないのに………。
「あ、夜久ちゃんここにいた」
すると、叶わない物思いをしている私の背に、中性的で明るい声がかかった。
今だけは、一番聞きたくなかった声。
「名前先輩…」
「どーしたの? 夜久ちゃんがそんな顔するなんて、珍しい」
名前先輩はいつもと同じ、快活ではつらつとした表情をしている。いつだってその繊細さと大胆さは、私の憧れだった。
いつの間にか自分が暗い顔をしていた事に気づいた私は、慌てて笑顔を浮かべる。こんな日に、こんな事でこの人を困らせたくない。
「い…良いんですか? クラスの方に行かなくて。名前先輩と写真撮りたがってる人、多いでしょう?」
先輩はそれを聞いてにっこりと笑った。そして私に近づき――――
「せいっ」
強烈な、でこピンをかましてきたのだ。
「っ…!!?」
あまりの痛さに声も出ず、狼狽えながら先輩を見る。先輩はふんぞり返って腕を組み、威圧的に私を見下ろしていた。
「夜久ちゃんに挨拶してから戻ろうと思ったけど、そんな顔して帰れなんて言われたら帰れなくなるでしょー!」
「わ…私、帰れとは言ってないですよ!」
「いや言った。行かなくて良いんですかって言った」
「それはっ、」
「良いんだよ。僕は僕の行きたい所へ行きたいように行く。そしたらそれがここだった。それだけの話さ」
へへん、と先輩は笑い、威圧感を消し去って屈みながら「ごめんね、痛かったろー?」と私の額を撫でてくれた。
行きたい所がここだった、という言葉と私を優しく撫でる手。それを嬉しく思いながらも、さっき吐かれた小さな一言にまた胸が痛くなる。
"挨拶して"――――先輩は、そう言った。脳内で反芻している間に、それがまたリアルなものとなって私の胸を塞ぐのだ。
お別れだからこそ、笑顔でいたいのに。
「……なに、寂しがってくれてるの?」
すると、うまく笑えない私を見て先輩が笑ってくれた。
「ごめんなさい…せっかくのお祝いの日に………」
その笑顔がなんとなく寂しげに見えて、私が先輩の気持ちに水を差してしまっているんじゃないかという気がしてくる。それが申し訳なくて、不甲斐なくて、余計に情けない顔を晒してしまうばかりだった。
でも先輩は全く怒る事も悲しむ事もなく、それどころかこの上なく優しい手つきで私の頭を撫でた。ちょっぴり大きくて、ちょっぴり骨ばっている、先輩の手。私を安心させてくれるこの手が大好きだった。
「…優しいね、夜久ちゃんは。ありがとう」
「優しくないです。……私、とっても自分勝手な理由で…先輩の事、困らせてます」
本音がぽろり。
この気持ちだけは隠して、ただ笑って、ただ楽しく…そう思っていたのに、もう不可能だ。この手が私を、真実の中に落とし込むから。
―――なんて、この期に及んで自分の弱さをこの人の所為にしてしまうのは、やっぱり私が…そう、限りなく弱いからなんだろう。
「へぇ…。この僕を困らせるなんて、どんな理由かな?」
私を導く声。もう言い訳だってままならない。
私はただただ諦めて、本音を漏らす傷口を更に開いた。
「……先輩と、もう会えなくなっちゃうのが寂しくて」
「………」
「解ってるんです、別に永遠の別れじゃない事は。でも…毎日こうやって先輩がいてくれた…その日常がなくなってしまうのが…怖いんです。女1人でも絶対に負けないって、強くあろうって思っていたけど…」
先輩の存在は、私には大きすぎた。
学園に入った時に女子は私だけだと聞いていたから、ちゃんと覚悟は持ってきた。
でもそんな私を迎えてくれた人達の中に――――紛れもない"女性"が1人いたのだ。
その時の衝撃は忘れない。必要以上に武装して戦場に赴いたら、相手は既に白旗を振っていたような感覚。
そのうち本人から聞いた話で、私は更に驚いた。
なんと彼女は男性だというのだ。だから私が学園で唯一の女子というのは、間違っていないと…。
「驚いた? あー…それとも、軽蔑したかな」
軽蔑なんて、する訳がない。むしろ自分の思い描く通りの生き方を選び取れるその強さに、本能的といえる程惹かれた。
それからの日々、私達は"2人の女子生徒"として仲良くなった。もっとも先輩自身は女性として見られても男性として見られても気にしないようで―――先輩の中性的な雰囲気は、きっとそこから来ているのだと思う。
そしてそんな日々の中で先輩は何より、私の最大の理解者でいてくれた。
「…うん、バカな男は何も考えずにそんな事を言っちゃうんだね。でも夜久ちゃんは強い女だよ。女のくせになんて言わせない、女だからできる事を頑張れる…僕はそんな君が誇らしいよ」
いつだったか、心無い言葉に落ち込んでしまった時。先輩が私を抱きしめながら言ってくれたこの言葉は今でも私の支えになっている。
男性でありながら女性の気持ちも理解してくれる、だから先輩の言葉はこんなにも響いてきたんだと思う。理想論なんかじゃない、双方向の立場に立った現実的で…なのに、優しい言葉だったから。
……でもそれは、明日からなくなってしまう。
それが無性に不安だった。明日から私は、本当に1人になってしまう。
「なーに弱気になってんの。僕がいなくなるくらいで、さ!」
涙が出そうになって、俯いてしまう私。でも先輩はそんな私を、いつもみたいに元気良くはたいた。
「……っ」
「それこそ夜久ちゃんらしくない。空元気を出せなんて言わないけど、今更女子1人がどーしたよ、くらいの気概でいなきゃ!」
「で、でもっ…今までは先輩がいてくれたから…っ」
「また初心に戻ればいいじゃないか。女1人って言われてもここへ来るのをやめなかった、あの時の気持ちを思い出して」
先輩は私の両肩に手を置いて、力強い笑顔を浮かべた。
「夜久ちゃんは強い子…って何度も言ったの、覚えてるよね」
「はい……っ」
「今日までずっと、君を見てきた。その僕が言うんだから大丈夫なんだよ。夜久ちゃんは頑張れる―――そもそも、生徒会も部活も委員会も全部ちゃんとやれる子が何言ってんの!!」
ね?、そう言って励ましてくれる先輩の優しさが嬉しくて……私は自分の弱さを吹っ切るように、無理やり笑ってみせる。
「まぁ…とはいっても夜久ちゃんの事をここまで理解してやれるのは僕くらいしかいないからね。誰かにいじめられたらすぐ僕に言うんだよ。すぐぶっとばしてやるから」
おどけたようにウィンクをして、そう付け足す先輩。それがおかしくて、やっぱり嬉しくて、この繕ったような笑顔がだんだん本物になるのを感じた。
未知の世界からの逃げ場所と思って駆け込んだ屋上は、今や新世界への入口のようだ………なんて言ったら多分この人には笑われてしまうんだろうけど、先輩の大丈夫は本当に大丈夫な気がしてくるから不思議なもの。さっきまでのどうしようもなく後ろ向きな気分は、信じられないくらいあっさりと明るく変わってしまった。
「僕がこの学校からいなくなっても、僕自身はいなくならない。だから夜久ちゃんは絶対に1人にならないの……ほら、大丈夫そうでしょ?」
「ふふ……はい、なんだか本当にそんな気がしてきました」
「気がするんじゃないよー、本当なんだってばー」
―――その時、一際強い風が吹いた。
全てを舞い上げるその流れに、大木の先に咲く桜の花弁が一斉に空へと飛んで行く。
耳元を掠める風騒ぎの音が、同時に私の背も押した。
大丈夫、"未知"は怖い事じゃないから………と。
「―――――名前先輩」
桜の乱舞に目を奪われていた先輩は、私の呼ぶ声に振り向いた。柔らかな笑顔に、私の胸も弾む。
「ご卒業、おめでとうございます!!」
この時これだけ思い悩んだというのに、翌日ファッションモデルと見紛う程の素敵センスの洋服に身を包み、やっぱり寂しいなぁなんて思っている私の前に先輩が颯爽と現れた、なんていうのは……また別の話である。
ちなみにもちろん、その服は女物だった。
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