カノと甘やかし彼女
「名前、いる?」
コンコンと扉をノックされ、聞こえたのは大好きなカノの声。時計の針はもう真夜中を指しているというのに、一体どうしたんだろう。うまく説明できないけど、声もなんだか変だ。私は怪訝に思いながら読んでいた雑誌を閉じ、ベッドに身を起こした。
「いるよ。どうぞ」
控えめに扉が開き、カノが顔を覗かせる。その動作もなんだかカノらしくなくて、いよいよ私の心の中には違和感が募り始めた。
「どうかしたの?」
「別に、どうもしないけど」
部屋の中央に置いた小さな丸テーブルとクッション。このクッションがカノの定位置になってから、もう結構月日が経つ。今日もいつものようにカノはそこへ腰を下ろした。
そう、いつものように…なんだけど。
今日は何かが違う。どことなく落ち着かない雰囲気だ。
「ただ、名前に会いたいなぁーって思って」
だっていつもなら、会いに来る時のカノはもっとうまい言い訳を用意していた。
私はするりとベッドから降り立ち、テーブルを挟んだカノの前に座る。カノは一瞬だけこちらを見たけれど、すぐに視線を逸らしてしまった。
ほら、これじゃまるで"読まれるのを恐れているかのような"仕草。カノからは最も縁遠いといえる、正直な反応。
「………暫く起きてるつもりだったから、ゆっくりしていきなよ」
もちろん理由が気にならない訳ではなかった。大抵の事なら1人で折り合いをつけて処理できる彼を、ここまで弱らせた理由が。
でも私はそれを聞く術を持たない。下手に探って傷口を抉るような真似だけはしたくなかったので、結局それだけ言って黙っていた。ついでに部屋に持ち込んだ魔法瓶から1杯分の紅茶を注ぎ、渡してやる。このマグも、最初は自分用第2号にと思って買ったものだったが、今ではもうカノ専用のものになっていた。
「……ありがと」
紅茶を一口啜り、ほっと息をつくカノ。その目はどこか遠くを見つめている。
「やっぱ正解だったかな」
「―――何が?」
「名前に会いにきた事」
そう言って笑う彼の顔は、表情同様やっぱりどこかおかしかった。嘲笑でも苦笑いでも本当の笑いでもないようでいて、その実それら全てを混ぜたようでもある笑い方。そう、例えるなら白い画用紙に垂らしてしまった小さな黒い染みを隠そうと、周りに赤やら青やらの色を必死に塗りたくってる感じ。本人は染みを隠すのに躍起になっているから解ってないんだろうけど、客観的にその画用紙を見れば逆に奇抜さを増してしまっているだけなんだ。
「どの笑い方をしようか迷うくらいなら、下手に笑わなくて良いよ」
多分、この場面は嘲る所でも困る所でも喜ぶ所でもないからさ。
だから客観的にそう言って、私も笑わないまま紅茶を飲む。あぁ、これも一緒だ。苦いような甘いような、自分の味を決めかねている紅茶。
見ればカノの動きはマグを持ったまま止まっていた。大きくて猫みたいな目をくりっとさせて私を見ている。まるで子供みたいだ。かと思えば次の瞬間、カノは悲しそうに俯いて床に視線を落とす。今の私の発言に色々考えを巡らせているのは明らかだった。
こんな風に表情がころころ変わる様は別人を見ているようでもあった。でも、これは紛れもなくカノなのだ。"化け物になっちゃった(笑)"なんて言っていても結局は人間。そりゃあうまいこと笑えない時くらいあるよね。
静かに考えがまとまるのを待っていると、やっとカノは小さく呟き始めた。
「……泣きたい時は泣いても良いんだよ、なんて教科書みたいな事言われたら、思いっきり笑ってやろうと思ってたのに」
「うん」
「名前には何でも見えてるんだもんなぁ…」
「教科書じゃないからね、私は」
彼の言葉を借りた表現で"教科書みたいな"…つまり、私が今使い古された表面的な慰めの言葉しか言えないなら、それはカノをちゃんと見られていないという事になる。それこそ、意志を持たず、ましてや人と心を通わす事などない教科書のように。
でも私は自分なりにまっすぐ彼を見てきたと思っているし、泣きたいなら泣いて良いよなんて言葉が彼にとって何の意味も為さない事も察していた。だって彼は泣きたくても泣けないんだから。そして少なからずこの時間の突撃訪問があったという事は、彼もそれを解ってくれているのだろう。
ならば、泣けないなりに精一杯甘やかしてやりたいと思うのも自然な事だった。
「カノ君よ」
「……なに?」
「名前の膝はあいてるよ」
暫しの沈黙。流石に断るのかな、なんて考えていたら、おもむろにカノは身をずらし、正座していた私の膝にころりと横になった。
「素直だね」
「誘ったのは名前じゃん」
まっすぐ私を見上げてくるカノの目はどこか弱々しかった。これが涙の代わりだろうか。私はそっと手を伸ばし、カノの髪を梳いてやる。
「―――僕がここまでバカみたいになった理由、気にならないの?」
「訊いたら教えてくれるの?」
「そう言われたら教えたくないなぁ」
「だよね。別に良いよ」
カノが私を頼ってきてくれただけで、割と充分だったみたい。こうして黙ったままなでなでしてやるのも、結構良いもんだよ。
言葉にしなかったところまでちゃんと伝わったかは解らない。でも、カノは不意に照れくさそうな笑顔を浮かべた。
そこに他のへたくそな笑顔は混じっていない。やっと戻ってきたカノらしくて、でもなんとなくカノらしくない表情。
なんだ、ちゃんとそんな顔もできるんじゃん。
少し愉快な気分で、心なしか明るくなったカノの目を覗き込んでみる。彼の目に反射している自分の顔は、まんま彼と同じ表情を浮かべていた。
それが余計におかしくて、つい肩を震わせてしまう私。
「ちょっと、笑わないでよ。揺れるじゃん」
「膝枕してもらってる身で贅沢言わないの」
「別に頼んでないんだけど」
「抵抗もしなかったでしょ」
いつの間にか、いつもの私達の会話に戻っていた。でもカノは膝から頭をどかさないし、私も彼を撫でる手を止めない。
"弱さを見せる事も強さだ"なんて陳腐な事は言いたくなかったけど、
たまにはこういう、さらけ出しちゃう夜があったって良いと思うのもまた、偽らざる本音なのだった。
「………ねぇ、名前」
「ん?」
「……………ずっと僕の傍にいてくれる?」
「……もちろん」
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