日報
ブログ


::酒場にて(ホフマン)

11日。

カンパニエ伯領とプロヴィナンの政体について、中世の都市自治にあるあるな話をてきとうに言ったのですが、おかしなこと言ってたかなーと思って、後で実在のプロヴァンのこと少し調べたら、わりとそんなようなことで合ってるようでした。

いつもネーミング雑というかあからさまで、恥ずかしくもありますけど、イベント地名などはシャンパーニュ大市のもじりです。
単に名前とイメージソースに借りただけなので、あまり意識しすぎることなく、なんでも追加するなりズレるなりして当然いいのですけど。




で当時のシャンパーニュ地方プロヴァンですが、フランスの地方自治の特徴として現在にもあるコミューン制度が、プロヴァンでは1230年に始まっています。

コミューン体制期プロヴァン市当局の構成として、市長1名、参審人12名からなる参事会(エシュヴィナージュ)が裁判や徴税、契約など法行為の承認、ギルド取締、治安維持などをしきっていたようです。
これに市政監視機関として毛織物業親方の8名委員会がつきます。
1319年からはこれが増えて誓約人評議会と呼ばれる40人の市政監視機関が設けられています。

この下に周辺村落の村役人8〜9人や、都市警備隊(1293年には33人、1319年では14人、うち市から12人、王から2人選出)などがいて、王や伯からはプレヴォ職や年市守護が数名置かれていたよう。

裁判権は市が伯から年間250リブラで譲渡されていたよう。ただし伯の直属になる騎士や商人やユダヤ人の裁判権は、伯が保持したよう。
この裁判収入が、租税とともに市の主な歳入元でもあったようです。




自治にまかせて反乱や内紛があると、君主の介入をまねくというのも、プロヴァンもしかり。

1281年に手工業者が反乱し、コミューン停止。しかし同年6月再建。
1305に手工業者同士の争い、1310、1315年に食料不足による暴動などがあり、1319年にコミューン改革、1323年に周辺村落を含む住民投票によりコミューン停止、しかし翌1324年にコミューン再建、となっています。

このあたりフランドルやハンザ都市などかどっかでも聞いたような話ですが、次第にフランスでは王権の強まっていく潮流の中、プロヴァンは他の大市都市よりコミューンは長続きし、経済衰退からの立ち直りも早かったのは、このへんのごたごたの経験から、政治ノウハウを蓄積していたという分析もあるようです。



ところでWikipediaの「シャンパーニュ大市」の記事では、プロヴァンの市は5月がプロヴァン北部、9月がプロヴァン南部で開催されたとか書いてますけど、これ違うのでないかな。
たぶん北と南でなく、西と東です。

そもそも当時プロヴァンは東西に長い都市ですし、より信頼できそうな資料から、5月から6月は西の高台、9月から11月は東下町区のサン=タユール修道院前で開かれたとあります。
さらにサン=マルタン年市が11月末から新年1月1日まで。
さらに火曜市が西の高台で開かれました。

西の高台は旧地区で、各都市の商人やテンプル騎士団(金融屋)の商館がここに多くありました。
東の下町は後に拡張された箇所で、フランシスコ会とドミニコ会の二つの托鉢修道会の修道院などもありました。

高台も下町も、市壁で囲まれています。広さは東西差し渡し1kmかそこらほどで、人口は13世紀に1万を越え、大都市の仲間いりを果たしました。当時の都市人口は、今の感覚では多くないです。
市壁の外の周辺農村の人口の方が、合わせれば何倍も多いでしょう。当時の農業効率では、何倍もの農村人口(食料生産者)がいなければ、都市人口は支えられなかったでしょう。




以上、だから何というのでもないですし、リアル史やPL知識をファンタジー社会に簡単に適用はすべきでなく、変に気にしてロールがひっぱられることはないですが、イメージの一として。

私は個人的に、ドラマや活劇の演出より、そこに暮らす人や環境の連なりがどんな様子なのか想像できる世界を描く方が好きで、こういう資料をみてるとほくほくします。

イベント期間中、朝か昼かにはなるべく出るようにしたいですが、私のやるのはその辺のイメージ調整と提供と考えてますので、それらを好きに想像して、気軽にやってください。
 

2017.06.14 (Wed) 15:42
ロール感想|comment(0)

back


prevtopnext

×