日報 ブログ ::林の奥の野原にて(ホフマン) 9日、ネージュさんと。 当日一時間の遅刻でした>< 連絡もなかなかできず、本当に申し訳なかったですm(__)m 髪にユキヤナギの花を編み込んできていらしたり、なんという可愛らしいネージュさんに対して、リアクションがバタバタしたものになってしまったのが残念でした。 しかし、最近ホフマンはネージュさんに対して「らしい」とか、そういうことを安易に言い過ぎな気がします。 型で理解しようとしてるみたいだったり、イメージの押し付けのようになったりしてたらよくないです。 例えば占いの言葉にしても、ネージュさん「内気」だとかは実のところそんなに思わないのだけど。 言葉を飲み込んでらっしゃることは多いのだろうけれど、意思通す時は頑として通されるでしょうし。内気とか、変なレッテルみたいにとらえることはないのでしょう。 それは誰しもで。 周りに内気と言われる方も、単に表現してなかったり、周りのテンポと合わなかったりするだけです。 だから「もっとわがままでもいいんじゃない?」みたいなことホフマン言いましたけど、それも命題のようにうけとることはなく。 言われてつとめてわがままにふるまう、とはパラドックスみたいですし。 「うるせえ控え目なのが私流だよ!」と言ったら、それでわがままでいいのではないかな(笑) そういえば先日、若い男子に、相談というか「彼女があまり主張してくれない」と話を聞いた時があって、要するに一人相撲みたいで、もっとわがままとか好みとか出してほしいそうなのだけど、「君の度量の問題じゃない」と言いました(ずけずけ)。 話できそうなら、自然に話すものじゃないでしょうか。 または今は話すべきでないと相手が判断されたのなら、その判断を信じればいいし。 ただその判断に働いていた忍耐や気遣いを、想像してあげて欲しいとは思ったりします。 自分の努力が足りないのを人のせいにした時に、相手が「内気」だから、とかの言い掛かりになる。 ただそうして、他人のせいにしないでいくと、一種の孤立へ傾斜していくことにはなります。 しかしその姿勢に気づく人も必ずいるので、案ずることでもないと思います。 例えば、昔はオタクに市民権なかったし、中学過ぎてもアニメ見てるとかありえん事態で、ちょっと人には言えないことでしたけど、それなら別に言わないまま、どうであれ本当に好きなら手段を講じて情報摂取してました。 そして、どうかするとソレモン同士邂逅するのだけど、そうした時は空気や言葉の端でそうと知れる。 「私ってすっごいオタクなんですよ〜」とか野暮な自称はしなくても、ソレモンはなんとなく無言下にも「むむ、もしやお主?」「やや、そういうお主も?」とか、気持ち悪くわかるものです(笑) back ×
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