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::巨人村オルゴールにて(ルトナ)

かつてルトナで参加させて頂きましたが、イベント期間中には主催様がだれか全くわかってませんでした。
終了後のなんだったかの言及にやっと、オヤもしかして、くらいで。確信はごくごく最近、数日前までありませんでした(笑)

隠しPC様の背後当てなども全然できませぬ。
でも誰がやってるか等気にせず、ロールやイベの内容自体に興味を覚えれば、いつでも入ればいいはず。そして入ったのです。

で勝手に穴堀りだしたり、マイペースですみませんでした、楽しかったです(笑)





今回の訪問では金魚の物体Kとここで別れ、村に預けさせていただきました。ガラスびんか何かに入れて、二年半つれ回してたのさ。
勝手に外来魚放流していいかわからなかったので、巨大蟲の脱け殻の目で金魚鉢をつくり。


あまり水回りいじっていいのか反省も。

天水利用に限っていたのは、土壌汚染のような理由があったからかもしれないのに。
浅慮で水引いたら全滅するかもしれないと。

複雑に重なり合った事象のバランスを少し動かすと、思わぬ結果を呼ぶこともあるでしょう。
先日新聞で鹿害の記事がありましたが、鹿が増えたのはそもそもから言えば狼を退治したから。新聞ではあんまりそうは書けませんけど。
家畜を襲う狼を退治すると、畑を襲う鹿が増えるとは因果なもの。
畑だけでなく木の新芽が食べつくされ、樹皮をむしられた木が枯れ、森林消失、表土流亡。風吹いて桶屋儲かり、狼去って森絶える。
こうなるとは先には判らないものだから、何度でも対処し改めていくしかないのだけど、これは先に考えても無駄だから思うさま無責任にやればいい、ではなく、どの時点でもベストを尽くすことができる、ということをも意味するだろうと。そういう反省でした。



これはイベント終了後に上がっていたアクア・ペリドート・マリンの強欲の魔物の伝承を、「星を出た」というあたりから、かつて宇宙開発技術まで手にした古代超文明が存在したと、ペ・ムー脳的にも読めると。
そうすると上記のような問題もあるかもしれないと。


いろんな風に解釈できると思います。
言葉通りの大食の魔物が実在して、平原のなにもかもを食いつくしたともとれるし、または元々平原はあり、あまりに広漠なさまを見た詩人が、そういう寓話を後から作ったとも。

または食いつくしたのは知識かもしれません。
この世界の知識や技術を全て得てもまだ足りず、門を開いて異世界へ行ったとか。その開門に使った力で平原は枯渇したとか。



行きすぎた野心や文明の果てがあの平原だ、という説で考えると、巨人村はナウシカ最終巻の「庭」を思わせる部分もありますか。
あれは世界浄化後に備えての方舟的なものでしたか。


また行きすぎた力や、そこへ駆り立てる欲動や慣性を魔物に例えるのは、本来的な魔物の発生式です。
ドラゴンも元は抗い得ない天災や、氾濫する川、開拓し征服すべき自然のメタファー、擬獣化だったりするとも言うでしょう。
またはローマの迫害の隠喩だったり、サタンの化身だったりするそうですが。


ドラゴンがそうした「抗い得ないもの」なら、強欲の魔物は「止まることのできないもの」を象徴するでしょうか。


「何故ラピュタが滅びたかよくわかる。土から離れては生きられないのだ」
とするシータに、
「ラピュタは滅びない、何度でもよみがえる。ラピュタの力こそ人類の夢だからだ」
と返すムスカ。

それを人類の夢と呼ぶか、人類の業と呼ぶか。
同じことで、夢は肯定、業は否定の色づけ、誘導になるだけで、現象としてはどちらも慣性みたいなものでしょう。
それが意思的選択なのか、受動的に駆り立てられ止まれないのかは、彼らはあまり考えない。


両者の意見は、本質的な差ではないとも考えられます。
「力と進歩」と「安定的存続」自体は別に排除しあう概念ではないでしょう。
安定の為に力が必要だったり、力の為に安定が必要だったり。べつに両方の意見を取り上げても、概念の混乱には陥りません。ならつまりこれらは問題の部分解釈なのです。


では問題の本質とは。
端的には「散逸構造の中に自由意思は存在しうるか」ではないかなーと予感しますけれど。
誤解されてることも多いようなのだけど、散逸構造はエントロピーに逆らうものではなく、むしろ加速するものです。構造があった方が、構造を分解しやすい。
生命も文明も散逸構造だけど、要するに自由エネルギー減少の方向を持つ加速度運動なのでしょう。

しかしエントロピーの増大とは、純粋に確率の問題でしょう。大数の法則的にはほとんどそうなりますよという。
揺らぎもトンネル効果もあるんだよ、と。
パンドラの箱に最後に残った希望のように、これが人を狂わせるのかもですが。そしてファンタジーが生まれたり。ジョージ・クルーニーで変な映画が撮られたり。



巨人村の暮らしには、そうした本質的なものへの祈りの感覚を感じたのでした。争いの心を持たないでいられるのだと。それを選択しうるのだと。少なくとも、それをイマジンすることは出来ると。
そして流行現象が収束したというのは、完全な安らぎへの知覚があったのかもしれません。宝くじは買わないと歌う清志郎のような心境か。
とはいえ、ずっと常時悟り澄ました賢者モードとはいかないから、時おりは巨大家で思い出にひたる。それが人情というものですよナ。



などなど、妙に大袈裟な話になってますけど、勝手な解釈べらべらならべてるだけですから、あまり意識せずにどうぞ(笑)
また春以降に訪れる時は、Kの仲間や連れ合いになる金魚を持っていきたいですね〜
 

2016.11.08 (Tue) 19:12
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