日報 ブログ ::道路考1.鳥瞰 リアル世界の道について、ざっくり読み散らかしメモです。いろいろ考え中〜 【1.隊商の道】 ◆琥珀の道 先史時代、北ヨーロッパの琥珀を地中海に運んだ通商網。 琥珀の他にもエルテベレ文化の燧石、ハルシュタットの岩塩、フェニキア人が船で持ってきたブルターニュの錫、エトルリアの工芸品、などいろいろの物がこの陸路を運ばれていたそう。 ◆絹の道 前2世紀末〜中世、長安(中国)-アンティオキア(シリア)間の通商路。 タリム盆地の塩の砂漠や、パミール高原の隘路などの難所を越え、サマルカンド(ウズベキスタン)やバクトラ(アフガニスタン)など古代からの都市を通ってペルシャ、シリアへ続。 後漢の後荒れ果てたけど、唐が力を持った頃にまた盛期を向かえ、玄奘三蔵も唐代ここを通りました。 やがてインド洋海路にシェア移行し、スエズ運河が海路を縮めると完全に衰退でしたが、部分的には現近代でも使われます。 ◆乳香の道 南アラビアのオマーンとイエメンから、砂漠と涸れ谷にラクダを追い、メッカやペトラを通り、エジプトやペルシアやシリアに乳香を運んだ道。 列王記のシェバ国は、この乳香交易で栄えたイエメンの国。 【2.通信の道】 ◆王の道(ペルシア) 前5世紀アケメネス朝のダレイオス一世は2700kmを7日で走る駅伝を有しました。 ヘロドトスの伝では、スーサ(イラン)からサルディス(トルコ)まで111の宿駅と守備隊が置かれ、徒歩では約三ヶ月で踏破。 主要都市を直接通ってないので、アレクサンドロスら侵攻者の逆利用にはあまり役立たなかったそう。 アッシリアやバビロニアの道を再利用したから、単に最適化されてなかったのか、防衛戦略か。 ◆王の道(インド) 前4世紀チャンドラグプタの開いたマウリヤ朝は、高度な官僚制と常備軍を持つ集権体制を敷きました。メガステネスによればこの時点で延長2400km。 3代アショカ王の時に版図最大、交通網には駅逓が置かれ、街道は密偵だらけ。時には苦行者に扮してというからスパイ氏も大変です。 ◆ハーンの道 13世紀チンギス・ハーンは帝国の幹線道に1日行程の駅站を設け、馬を配備させました。 次代オゴデイ・ハーンは許可証を持つ旅人や商人の通行を自由化、ガザン・ハーンやメンゲ・ハーンによる整備もあり絹の道も機能活性し、マルコ・ポーロやイブン・バットゥータなどが通りました。 ◆ポニーエクスプレス 1860年開始、ミズーリからカリフォルニアの約3000km、駅馬車で25日かかるところを、8〜10日で走破した速達機関。中継所は184箇所。 体力が要るためでもあるし、恐らくは話題作りのためもあり、騎手は18歳以下の若い男前で固め、新聞で彼らの活躍を紹介し、街道では熱狂的な女性ファンが待ち構え、彼らの服をちぎった。 わずか18ヶ月で廃業しましたが、彼らにより開拓された道には、後に大陸横断鉄道が敷かれます。 【3.ローマ街道】 主幹8万km、総延長29万km。 初期のローマですでに道を直す兵科があった。 「国営道路の地所はローマ国民の所有でなければならない」というローマ法を、戦場法は一時的に無効にしたから、執政官は軍団に、戦闘直後の占領地で、あるいは戦闘行為が続いている間に道路建設させたそう。 これらの資金の補助には、しばしば寄付、財産遺贈があてられ、カエサルはうまく財産を作った元老院議員の話を聞くと、彼一流のやりかたで「自発的な」寄付をうながすことを忘れなかったとか。 など、エピソードにきりないです。帝国崩壊後は荒れ果て、以降ヨーロッパには18世紀までまともな道はなかったと言われます。 【4.巡礼の道】 ◆エルサレム 4世紀のキリスト教ローマ公認後、エルサレムへの巡礼がローマ街道を通って行われたそうで、もとの軍用・通商路に、無数の巡礼宿が建ちました。 やがてムスリムの台頭もあり危険は多く、巡礼で死ぬのはむしろ本懐、旅立ち前に遺書を残すことも多かったとか。あるいは楢山節考のおりんのような気持ちもあったかもしれません。 ◆サンティアゴ・デ・コンポステラ ガリシア(スペイン北西)へ、レコンキスタ期の12世紀にはピレネーを越えて年間50万人。 エルサレムにしても、十字軍都市への移民も含め、戦時にかえって巡礼熱は高いこともあったようです。そのうち委託巡礼業という代行業も出てきたとか。 【5.軌道】 ◆マルタ島 岩場にカートラッツと呼ばれる2本ずつ等間隔の条が刻まれていて、車を押して巨石神殿の建材を運んだ、もしくは農業路の軌道とも考えられているそう。 流亡の激しい島では、農耕するには、まず流れた土をすくって上げなければならなかった説があります。 だとしたら裸の島の殿山泰司かシシュポス並のやりきれない労務だったのでは。それでもここで生きねば、という気迫の道でしょうか。 あとUFOの仕業説もあります。好き。 ◆イリュリア バルカン西岸、カルストに軌道が掘られました。石灰質のでこぼこの台地に、幅のある道を整備する手間をかけるより、1輪か2輪の車のわだちを掘る方が理にかなう。商業路として使われたよう。 ◆ギリシャ スパルタ-メッサニア間、アテナイ-テーベ間、キルラ-デルフォイ間、などの主に山岳中に多くの軌道があったようです。 ギリシャやラテン語で、道を作ることを拓くや敷くでなく「切る」という語彙で現すことがあるようですが、あるいは軌道が一般的だったのかもしれません。 また、上記三つは全て地中海性気候です。 冬に強い雨が降り、夏に乾燥し、石灰質で、土壌が流亡しやすい特徴から導かれる道の形なのかも。 ◆イシュタル神殿 オリエントにおいては、農道や商道ではなくパレード用の大路に軌道が掘られました。 神像をのせた山車を進める、その時に神像が揺れるのは凶兆なので。 back ×
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