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::レーヴィニュ王国(酒場)にて(ルトナ)

一月五日の十二日節前夜祭はクリスマスに始まる降誕節のしめくくりで、中世にはりんご酒を飲んだり、豆をたべたり、仮装したり、大きな火を焚いたりして祝ったそうです。
で地名がフランスなので、中世フランスの落語たるファブリオーを出してみようと。「靴屋バイイェ」を軽めに編集し、韻律てきとうに七五調ぽくしただけのお手軽詩形でした。
もっとも厳密には靴屋バイイェは、内容はともかく詩型が抒情詩に近くもあり、ファブリオーに分類しないこともあるようです。



しかし考えてたんですけど、この話だと奥さんの視点からの方がPBC的にドラマになりやすいのかもしれません。
中世当時の今ほど自由でもない職業選択と結婚事情から、先の決まってしまった閉塞感など主婦の憂鬱は大きかったのかもしれません。
靴屋の女房におさまって地味に暮らす毎日。そこへ男前の司祭。当時の僧侶は知識階級ですから洗練された教養と豊かな物腰です。引き比べての旦那が野暮ったく見えてしまったりもしたでしょう。ちょっとマディソン郡の橋みたいで、同情的な気持ちもあるわけです。

でこの話が粋なのは、不貞を知った旦那がキーキーわめいて責め立てるんでなく、知恵でもってやりこめる点。
それで旦那の案外頼りになる面や、僧侶の情けない面なども見えて、奥さんの方もフッと憑き物が落ちるような心持ちがしたり、以後夫婦はわりとうまくいったんじゃないかな。なんて勝手に想像してます。
また旦那のほうも、見苦しいほどに問いただせたら悲痛な気持ちもry、というのをグッと堪えて偉かった偉かった、一杯飲みいくか?と肩ポンしたくなるところ←
あとまあどちらにせよ君らは大人ですから、自分の甲斐性の内でどうなと勝手にやったらよろしいけど、子供のことが置かれずちゃんと出てくるのがよいですね。どうもわたし説教くさくていけませんが(笑)



しかしなんにしろ不倫話はたくさんあります。
時代精神への一面的な理屈づけは、個人的にかなり警戒感があってみだりには言いたくないですし、ことがことでどう言っても無神経にしかならないんですが、ファブリオーのみならずレーやロマンスでも一般的な主題らしく、それこそグィネビア妃とランスロットの恋など、世界一有名な不倫譚かもしれません。向こうを張るならトリスタンとイゾルデか、これらは口さがないファブリオーと違い、むしろ悲恋という色づけも強いですね。

少なくともそうした憧れが、一種の解放を物語に仮託して持たれていたふしはあったのかもしれません。そう考えるといじらしいようでもあります。今より宗教教育が画一的だった反面、放縦の方に針が振れると歯止めがきかなかったり、ハレとケのコントラストも強くて、祝祭日の狂騒もここぞとばかりにテンション高めだったらしい証言や分析はよく目にします。その中世精神の激しさはホイジンガの名著「中世の秋」などにて、よく描き出されていると思います。

またそうした反動的なのでなくてアッサリした方では、三銃士(あれは17世紀の話だし中世ではないですが)ポルトスなど、怪力無双の豪放磊落、キャラポジションとして野球漫画ならキャッチャー、戦隊ならキレンジャー、三国志なら張飛、下手したら許チョ、というおよそ忍ぶ恋も似合わなそうな(いろいろ失礼)彼が不倫相手に服買うお金をねだりに行く場面などあっけらかんとしたもので、当時は夫人が若者に援助するのはわりと普通のことだったよう。



などなどもろもろ、なにぶん現代とは感覚の違うところありますから、無造作に「昔の人はこうだったんです!」と持ち込んでもpetitに合わないと思うのですが、そのへんコンセンサスありきでの、人目を忍ぶ恋ロルなどもなかなかに粋なものかもしれません。
まあエロール・フリン版ドン・ファンのように毎度見つかってバルコニーから「とっつぁんまたな〜」してるあまり忍べてないやつとか、バリー・リンドンのようにしゃあしゃあ公然とパワーゲームを仕掛けてるやつもいますが。
また古くは故郷を思い海を眺めるオデュッセウスと、彼の心ここにあらざるを知りつ離れ難く、しかしそこを殺して手厚く送り出す魔女キルケーのように。
また近代なら野心の為に貴婦人に近付くジュリアン・ソレルと、それを知りつつ囲う夫人との駆け引きのように。
とか書いててコッ恥ずかしいですが、そんなのもなかなかにデカダンな味わいでいいんじゃないでしょうか。
その時はぜひ胸に薔薇でもさして、ドン引くくらい格好つけてやりたいものです(笑)



あ、あとちなみに「毎度ばかばかしいお笑いを一席」はステロタイプながら実際には死語です。きょうびの落語家誰もそんなこと言わないです(笑)
 

2015.01.08 (Thu) 20:33
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