或る日、ナマエはひとりの男に出逢った。小学校に進学したばかりの、暑い夏の日だった。
カーテンの隙間から差し込む陽の光に目を瞬くと家の中が随分と騒々しかった。まさか寝過ごしたのだろうかと慌てながら目覚まし時計を覗き込めば、短い針が九・長い針が十二をぴったりと示す。今は夏休みも終盤に差し掛かった八月の下旬。遅刻する心配は皆無だが、世話役の光忠がナマエの寝坊を許さないと言わんばかりに早々に起こすことを考えると、思わず首を傾げるくらい不自然だった。
そもそも廊下を行き来する足音が多い。午前九時とは言え朝だ。織田の家を組員が出入りするのは日常茶飯事だが、早口に捲し立てる声や家の中を右往左往する足音が「今日はいつもと違う」とナマエに教えてくれた。
遮光性のカーテンを開き、玄関の方角を見ると、面する道路に黒い車が並んでいる。広い庭に生い茂る立派な松の木に遮られ、それ以上を目視することは出来なかったが、ナマエには十分だった。午前中の来客は決して多くない。先週から組の長――父親の不在を考えると可能性は限りなく低い。必然的に導かれる答えは、その父親の帰宅だった。
ナマエは父親のことが大好きだったが、何も言わず家を空けることが度々あることは不満に思っていた。たどたどしかった鞠突きが出来るようになったところを見て欲しい。指を折らずに引き算が出来るようになったことを褒めて欲しい。クローゼットから取り出したお気に入りの白いワンピースを頭から被り、買ったばかりのカーディガンに腕を通し、部屋の隅に転がっていた鞠を引っ掴む。仕上げに髪を梳かしながら鏡を覗き込めば、期待に胸を膨らませた七歳の少女がこちらを見つめ返した。
ナマエの家は純和風と言える外観だったが、実際のところ一日の大半を過ごす二階は洋室ばかりだ。一階は出入りする人間が多い為に畳と障子がずらりと並ぶ、大きな広間がある。恐らく父親は、そこに居る。いつものように紫色の座布団の上で胡坐を掻いている筈だ。
思いながらナマエが階段を駆け下りると玄関から続く廊下に組員がずらりと並んでいた。真っ黒なスーツ。真っ直ぐに伸びた背筋。表情は一様に硬い。子供ながらに異様な雰囲気を感じ取ったナマエは、途端に不安になる。助けを求めるように視線を左右に動かしたのなら、廊下の突き当たり、列の端に、今朝から見掛けなかった光忠が居た。いつもナマエに微笑み掛け、優しげに緩む目元は緊張気味に細められている。
 的に足が動いた。釣られるように手が伸びた。結果、抱えていた鞠がトントンと音を鳴らしながら、艶々に磨かれた床を転がっていく。
「あ」と声を発したのは鞠を落としたナマエだったのだろうか、それとも突然現れたナマエの姿を見た組員だったのだろうか。一直線に廊下を転がる鞠は、左右を組員に囲まれた人垣を突き進む集団の最後尾――ひとりの男の足に当たった。
男が振り返る。拾い上げた鞠とナマエを交互に見比べながら、薄く笑む。

「三日月。さっさと来い」
「組長は先に奥へ。俺は後から行きます」

初老の男の一喝を涼しい笑みのまま流しながら、三日月と呼ばれた若い男はナマエの目線と合わせるように膝を折り、小さな手に鞠を返した。ありがとう。礼には及ばん。ゆるりと笑みを浮かべ、恥ずかしそうに不安そうに鞠を握り締めるナマエを見つめる様は、希有な花を観賞するようだった。
とても美しいひとだと思った。子供ながらにナマエは目の前の男が並みの人間とは違う存在だと感じ取った。艶のある黒髪。麗しい容姿。瞳の奥には名前の通り、金色の三日月が浮かぶ。無意識に「欲しい」と思わせる魅力が、男にはあった。

「おにいさん、だあれ?」

純真無垢なナマエが問う。美しさの裏にひっそりと身を潜める棘に気付かず、子供は無防備に手を伸ばす。
三日月が口を開くよりも先に、強引にふたりの間を割った光忠が「この子は組長の娘さんですよ」と言いながら自然な流れのままナマエを背に隠した。最低限の礼節は守りながら敵意を剥き出しにする光忠を見下ろす視線は、とても冷たい。しかし、細められた三日月は一瞬の後、驚いたように弧を描く。

「……織田の? 子供が居るとは聞いたが、娘とは知らなんだ」

そうかそうか良いことを聞いたと言わんばかりの声は至極、嬉しそうだった。
余計なことを言ったのかもしれないと光忠が後悔し始めると同時に、あっさりと三日月は奥の部屋へ向かい歩き出す。一癖も二癖もある三条の三日月宗近には気を付けろと散々、耳に胼胝が出来るくらい聞かされていた光忠は、思わず拍子抜けする。
少なからず最初に廊下を突き進んでいたときに比べて強くなった織田の組員の警戒心を微塵も気に掛けず、三日月は何かを思い出したように振り返った。視線の先はナマエと光忠。

「織田のお嬢さん。大事なものは手放さぬよう気を付けろよ」

ぞくりと鳥肌が立った。警鐘が鳴り響いた。やはり彼は危険なひとだ。光忠が無意識のうちにナマエの手を握り締めると一層、三日月の笑みが深くなったように見えた。
三条組の最年少幹部・三日月宗近――彼は恐らく、光忠に忠告した。ナマエの世話をする役目を負っているのが光忠だと確信し、本来ならば格下の立場だろう織田の若造に話し掛けた、その理由は。

「……楽しみだ」

何か仰いましたか。さあな。三条の組員と他愛ない話を交わしながら、今度こそ三日月は部屋の奥へと姿を消した。

アダムトヰブ戦争

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