深々とした薄暗い空間に珈琲豆を挽く音、食器の擦れる音、或いは定期的に新聞紙を捲る音が響き渡る。駅から路地裏を渡り歩いた先にある、個人経営のこぢんまりとした喫茶店の店内にはお洒落なジャズは流れず、更には人の話し声さえ聞こえず、ひっそりとした時間が時を刻んでいた。
わたしを含め、店内に客は三人だけ。言葉こそ交わしたことは無くとも、幾度か見た顔ばかりだ。所謂、店の常連なのだろうということは、聞かずとも知れることだった。
マスターのお手製アップルパイを頬張りながら、机いっぱいに広げた雑誌を捲る。その紙面には、様々な服に着替え、スポットライトを浴びながら、笑顔を振り撒くわたしが居た。自分自身の仕事をしているときの顔は好きだ。「モデル」という職業柄、制限される言動が多くても、常に衆目に晒されても、仕事には相応の価値があると思っている。
つまり、常にアンテナを張っているわたしに今この瞬間のひとときは、唯一の休息時間だった。近所の常連客しか来ないような喫茶店なのだから、顔を隠す必要は無いし、マネージャーの目を気にせず堂々とケーキを食べられるし、マスターの淹れてくれる珈琲は美味しい。普段は時間に追われる毎日を過ごす中、此処に居るときだけは、ただの「ミョウジナマエ」に戻れるような気がした。
カランカランと来客を知らせる扉のベルが鳴った。気にも留めず、二皿目の栗のシフォンケーキにフォークを差し入れた瞬間。入り口から続く淡々とした足音が、真横で止まった。誰だろう、とか。バレたらどうしよう、とか。そんなことは頭からすっぽ抜け、反射的に顔を上げたのなら、白いマスクを深く装着した若い男がわたしを見下ろしていた。

「……瀬名?」
「他の誰に見えるわけ?」

言いながらマスクを外し、当然のように隣へ腰を下ろす。二人掛けのソファを悠々と使用していたものだから、追い払うように体を押され、半ば無理やり隣に座られた、と言った方が正しいのかもしれない。

「ちょっと瀬名。相席するなら向かいに座りなさいよ」
「どこに座ろうが俺の勝手でしょ? 指図しないでくれる」

遅れて注文を取りに来たマスターに「珈琲」とだけ告げる瀬名にケーキを頼まないのか問うたのなら、「目の前に胸焼けするほどたくさんあるでしょ」と当たり前のように言う。そろそろわたしは、瀬名に対して怒るべきなのだと思う。撮影の合間にジュースを買えば勝手に飲むし、ロケ弁のエビフライは早々に掻っ攫うし、今も口に入れようとしたシフォンケーキを横からパクリと食べられた。
昔から、瀬名はわたしのものを自分のものみたいに扱うから、わたしもそれを倣うようになった。瀬名のものならば日焼け止めも、化粧水も、リップクリームも、遠慮なく使った。思えば、瀬名の傍若無人ぶりに毒されて麻痺していたのかもしれない。瀬名がモデルの活動を休止する少し前。同じくモデルを辞める前の遊木くんに瀬名と日用品を共用する事実を知られ、ドン引きされた過去がある。
珈琲を啜りながら、瀬名は散乱している雑誌の一冊をパラパラと捲り始めた。わたしも瀬名に構わず、読み掛けの記事に目を通そうとした――のだけど。眉を寄せ、ジッと何かを睨み付ける瀬名に気付き、視線の先を辿る。わたしと黒髪の男の子が肩を寄せ合っている。丁度一か月くらい前に撮影した、新しい化粧品の広告だった。真っ赤なドレスと黒いタキシード。何処か艶めかしい雰囲気を漂わせる、女性向けの化粧品によく見られる典型的なそれ。

「……ナマエさ、最近こいつとの撮影多くない?」
「そう? 同じ事務所の新人だからじゃない?」
「ふうん」

ずずず。普段は立てないような珈琲を啜る音を無意識の内に出すくらい苛々しているらしい。露骨に態度に出すのは珍しいと思いながら、わたしは瀬名が投げ捨てた雑誌をぼんやりと眺めた。我ながら、色っぽい表情が出来た満足な一枚だ。それが余計に瀬名の気に障ったのなら元も子もないのだけれど、仕事なのだから仕方ない。

「瀬名、この子に妬いた?」
「は? ナマエのくせに生意気。チョーうざぁい」

もう黙れと言わんばかりにミルフィーユを差したフォークを口に突っ込まれた。苺は最後に食べようと思ったのに、そんなことを思いながら果実とパイを噛み締める。
瀬名は勝手だ。自分の好きなように振る舞うくせに、気に入らないことは受け入れない。気性の激しい猫みたいに、我が儘だし、口は悪いし、モデルとは違いパフォーマンスやトークも必須のアイドルとしては致命的だろう。モデル活動の休止と夢ノ咲学院への入学を聞かされたときは呆れたものだ。わたしに、相談すらしてくれない。けれど。

「……このクソガキに嫉妬したって言ったら。ナマエは俺に何してくれんの?」
「仕方ないから、うたた寝するときに肩くらいなら貸してあげる」
「あっそう」

ほんの稀に、擦り寄ってくれるものだから。肩に重みを感じながら、今度こそ読み掛けの雑誌に再び目を通し始めた。

イニシャル・ラヴァーズ
16'0101

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -