きょうは『あのこ』がいなかったから『ざんねん』でしたね、みどり。
定期的に行う活動のひとつ、夢ノ咲学院のアイドルユニット「流星隊」のヒーローショウ。恒例のショウの後、ファンサービスと称した簡単な握手会や撮影会を終え、色鮮やかなユニット衣装から制服に着替え、さあ帰ろうとエナメルのスポーツバッグを肩に掛けた瞬間。ドアからひょっこりと顔を出し、にこにこと微笑みながら告げる奏汰に、翠は何を言われたのか分からず動きが止まった。
「あの子? 誰?」と首を傾げる鉄虎と忍たち一年生の声にハッとする。ショウ後の高揚した気分のまま体温が上昇、じわじわと頬に熱が集中する。「違ッ、深海せんぱ、それ、あの」と言葉としての役目を果たさない叫びが口から零れる中、奏汰の様子を見に来たらしい千秋の「ああ、高峯の気になっている女子だな!」の無遠慮な一言がトドメだった。
「お疲れ様でした!!」――普段の倍以上は大きい声が出たことに驚きながら、翠は一目散に自宅がある商店街まで走り抜いた。
深海先輩は意外にそういうところ目敏いよな、とか。なんで守沢先輩も知ってるんだろ、とか。思うところは色々と尽きないのだけれど、何よりも事実を突き付けられ、ショウの最中も無意識のうちに「あの子」を探したのだろう自分自身の行動が恥ずかし過ぎる。端的に言うと死にたい。
いつもなら帰宅早々、炬燵に潜り込み、惰眠を貪るのが休日の過ごし方だ。しかしながら今日ばかりは、全力疾走した結果、体は発熱しているし、顔は火照っているものだから、更に外から熱を浴びせられようものなら倒れてしまいそうだった。
とりあえず顔を洗おうと洗面所に足を踏み入れた直後、翠の姿を見付けた母親から声が掛かる。父親が得意先へ野菜の配達に出たらしく、店番を手伝って欲しいとのことだった。隙さえあれば八百屋の手伝いを頼まれるのはいつものことだし、何かと理由を付けられ断れないことも知っているものだから、いっそ外に出れば冷たい北風に晒され、余計な熱も冷めるだろうと翠は渋々ながらも、自分用のエプロンを手に取った。
いらっしゃあい。あら奥さんひさしぶりねえ、採れたばかりの白菜も一緒にいかが?
サツマイモの品出しをしながら、翠は相変わらず商魂たくましい母親の接客に感心する。前々から、お客の注文から更に一品を追加するのが接客の基本なのだと聞かされたものだ。俺には絶対無理、と思いながらサツマイモの表面の泥を払い落とし陳列していく。
そういえば以前、プロデュース科の先輩に野菜のゆるキャラのデザインをお願いしたときに描き下ろしてもらったラフの中に、サツマイモのキャラがあったことを思い出し、翠は上がりっぱなしだった心拍数が少しずつ落ち着くのを感じた。肩に入った力が抜け、頬に集中した熱が冷めていく。
可笑しな話だ。愛らしいゆるキャラさえ、「あの子」と比べると胸をギュッと締め付けるような苦しみから解放される術になる。名前も知らない。声も知らない。恐らく弟なのだろう小さな男の子と一緒に、楽しそうにヒーローショウを見る笑顔だけは知っている、あの女の子。
あらナマエちゃん、いらっしゃい!
一際大きくなった母親の声に顔を上げたのなら、翠は今度こそ、身体中の機能が全部、止まった気がした。数時間前、奏汰に落とされた爆弾とは比べられないくらいの衝撃。あまりに予想外のことだったから、逆に血の気が引いたのだろうか。頭の片隅には冷静に、状況を整理しようと頭をフル回転させる、もうひとりの自分が居るような錯覚。
反射的に握り締めたサツマイモが、ミシリと音を立てる。

「こんにちはー。ジャガイモと玉葱、あとニンジンを二つずつください」
「今日も姉弟一緒にお使い? いつも偉いわねえ。今日はサツマイモも入荷したばかりなのよ、一緒にどうかしら?」
「ふふ。じゃあサツマイモもおやつに買っちゃおう、お願いします」

「帰ったら大学芋でも作ろうかなあ」と言いながら母親と談笑する女の子は、「あの子」だった。
想像よりも優しそうな、可愛らしい声だった。想像通り一緒に居た小さな男の子は、弟だった。想像さえ出来なかった名前は、母親曰く「ナマエ」と言うらしい。
知り得た情報をひとつひとつ噛み締めるように、反芻する。その度に心が締め付けられるような、覚えのある鈍い痛み。名前も声も知らなかった「あの子」のことが本当に好きだったのだと再度、自覚した瞬間に。
ぶわりと冷めそうだった熱がぶり返した。意味もなく理由もなく突然の羞恥心に襲われる。ウンウンと自分の世界に魘されていた翠を引き戻したのは、母親の「翠! 早くサツマイモふたつ持って来なさい!」との現実味が溢れる一言だった。

「うあっ。えっと……その、すみません!」
「店先に居るんだからぼんやりしないの! はいこれ、ナマエちゃんに渡して」
「……ナマエ、さん?」
「あ、わたしです。ありがとう、翠くん」

普通に名前を呼ばれ、困惑する翠に対し、ナマエは「流星グリーンの翠くん、でしょ」と口にした。補足するように「おばさんからもよく『息子の翠くん』の話は聞くんだ」と言われてしまったのだけれど、ヒーローショウは弟の付き添いだと思っていたものだから、翠はナマエが「高峯翠」という自分の存在を認識していたことが嬉しかった。
その反面、「今日のショウは行けなかったから残念」と言ってくれるナマエに碌な返事が返せない自分の口下手加減を呪う。いっそ埋まりたい。
ドン、と足に衝撃。足元に視線を落とせば、ナマエの弟らしい小さな男の子がキラキラとした視線を向けながら、翠の左足にへばり付いていた。

「グリーン! りゅうせいグリーンだ!」
「こらっ、急に抱き着かないの。ごめんね翠くん」
「えっと、俺は別に……」
「あくしゅして! あとポーズも! おねえちゃんもグリーンのこと大好きだから、おねえちゃんにもあくしゅしてね」

「え?」「あ」
しまった、と言うように口元を指先で隠す仕草さえ可愛いと思うのだから、自覚すると「好き」と言う感情は末恐ろしい。否、今はそんなことよりも。信じられず、翠が呆然とナマエの顔を見つめると、照れ隠しなのか逸らされた顔の代わりに、髪の隙間から覗く耳が真っ赤になっていた。
照れ臭そうに笑い、逃げるように八百屋を後にする「あの子」を見つめながら。ほんの少しだけ、期待しても良いのかもしれないと小さくガッツポーズをする翠に、母親から再三の叱咤が飛んだ。

ハートの膨らむ季節です
16'0508

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