一期一振が遠征から本丸に戻ったのは、空さえも白み始める早朝の頃だった。星の瞬きは霞み、心地良い風が時折ゆるやかに吹き抜けて木の葉を揺らす。太陽が世界を彩る、その瞬間。もっとも、そんなものを楽しむ余裕は隊長を務めた一期一振を始め、同じように遠征から帰還したばかりの刀剣男士たちには皆無だったのだけれど。
粟田口の弟たちを早々に部屋へ送り、他の太刀には「主への報告は明日私がするから先に休んでくれ」と告げ、一期一振は遠征で手に入れた資源を先に片付けようと鍛練所へと足を向けた――瞬間。しっかりと抱えた筈の資源を袋ごと攫われる。犯人は誰なのか、考えるよりも先に口から出たのは溜め息。
視線を横に遣れば予想通りの人影を見付け、僅かに眉を顰める。いつの間にか袋から取り出した玉鋼を弄びながら満足気な笑みを浮かべているのは、同じ太刀の鶴丸国永だった。
「何をするのです」と問えば「いやあもしかしたら主様に会えるかもしれないだろう」との答えが返ってくる。戯言を、とは思うだけに止まった。確かに鍛練所へ行くには刀剣男士の主と言える審神者――ナマエの部屋の前を通る必要がある。遭遇する確率は高いと言える。もっとも、今が漸く太陽が姿を現したばかりの朝なら、話は別だ。十中八九、睡眠の最中に違いない。
遠征の疲れを微塵も感じさせない鶴丸国永は、相変わらず口がよく回る。あめあられのように降り注ぐ情報を要約するに、最近は主に悪戯をすることが好きらしい。一期一振の「主を困らせるようなことは慎んで欲しい」との言葉も恐らくは聞き流されているのだろう。しかしながら取り敢えず、その行為に悪意を感じられないことに安堵する。困ったような、少し嬉しいような顔をしながら鶴丸国永の愚痴を零す主を思い浮かべ微笑ましくなったところ、三歩ほど先の障子が音もなく開いた。

「おかえりなさい」

突然現れたナマエは、あまり明るくない雲に霞む太陽さえ眩しそうに瞬きながら小さな欠伸をひとつ。当然のように遠征を終えた太刀に労わりの言葉を続けた。長時間の遠征お疲れ様でした。ふたりも早く休んでください。微かに充血した目を細め、白い肌に薄っすらと隈を浮かべながらそんなことを言う。
もしも偶然、ナマエが早朝に目が覚め一期一振と鶴丸国永を出迎えたのなら、呆れることも目くじらを立てることもなかったのだろう。いつもは桃色に染まる頬が青白いのは恐らく、寝不足だ。

「……まさか本当に会えるとは驚きだ」
「主。顔色が優れないようですが、もしや……」

出迎えを歓迎されていないと瞬時に悟ったらしいナマエの表情が硬くなり、誤魔化すように目線を逸らす。徹夜をしたことは図星らしい。
頭が痛くなるのを感じながら、一期一振は膝を折り、すっかり冷えた我が主の手に触れる。いくら春とは言え朝は冷え込む。一瞬だけ部屋の中へ視線を動かしたのなら、綺麗に敷かれたままの布団とひしゃげた座布団が目に付いた。書物を読みながら、或いは書簡を認めながら遠征部隊の帰りを待っていたのだろう。本当に、貴女は――。

「一期?」
「……いえ。主こそ早くお休みになるべきです。遠征の報告は後程いたします」

おやすみなさい。ついつい粟田口の弟たちを寝かし付けるように囁き、立ち上がり、頭を撫でる為に腕を伸ばす――のだけれど。真っ白な手袋に覆われた指先がナマエの髪に触れるか触れないか、その瞬間、我に返る。
驚いたように一期一振を見るナマエ。楽しそうにナマエと一期一振を見る鶴丸国永。審神者に触れようとする一振の太刀。
私は、何をしようとした?

「も、申し訳ございません! どうかお忘れください」
「あの、一期。わたしは別に……」
「つい、弟たちにする癖が出てしまいました。ご容赦ください」
「…………」
「……主? どうかしましたか?」

一期一振の心配を払拭するよう曖昧に笑んだ後、ナマエは何も言わず首を振った。今度こそおやすみなさい。言いながら障子を締め切る前に、鶴丸国永の右手が動く。その細い指にナマエの髪を絡めるようにわしゃわしゃと掻き撫ぜた。
「何をしているのです」と言い掛け、口を噤む。愉快と言わんばかりに頭を掻き回す最中、その、ほんの一瞬。鶴丸国永の黄金の瞳が、一期一振を斬った。咎めるような、呆れたような。剥き出しの感情を抑えぬまま、真っ直ぐに一期一振を見る。しかし、無意識に息を呑み、瞬いた後には、いつもの真っ白な男が主をからかっているだけだった。
鶴丸国永はぐしゃぐしゃになった髪を整えながら「驚いたか?」とお決まりの台詞を言い、不意打ちの悪戯に戸惑っているナマエを部屋の奥へと有無を言わさず押し込んだ。閉められた障子に映る影がゆらゆらと揺れ、離れ、見えなくなる。頭を掻き回される勢いのまま倒れそうなくらい足元が頼りなかったものだから、好い加減、床に就くことを願うばかりだった。
「さあ俺らも寝ようぜ」と伸びをしながら振り返る鶴丸国永に、思わず身構える。そんな一期一振が意外だったのだろうか、目を細めた後、可笑しそうにくつくつと笑った。

「罪な男だぜ、一期一振」
「どういう意味ですかな、鶴丸殿」

にやりと効果音が付きそうなくらい意地の悪い笑みを浮かべた後、答えるつもりは毛頭ないらしい鶴丸国永は、ひらひら細い指先を動かしながら回廊の先へと姿を消した。結局、引っ手繰られたままの資源は終ぞ一期一振の手には戻らなかった。
仕事を奪われ、意味の分からない言葉を吐かれ、一期一振の「心」の奥底をぐちゃぐちゃに掻き回した出来事は、鶴丸国永が主――ナマエに触れた、その事実。ひっそりと内側に秘めていたものが溢れ出しそうになったところを無理に呑み込んだ、痛みと苦み。棘を撒き散らしながら喉の奥を這いずり回る。無遠慮に、それをすることは正しくないとよく分かっていた癖に。軽率に、それをすることは赦されないとよく分かっていた癖に。
躊躇った結果、出来なかったことを易々と見せ付けられるのは、存外とても悔しかった。





第二部隊、帰還。首尾は上々。今回の遠征も資源の回収が目的だった。時間も掛からず比較的、容易だったものだから。報告を少しばかり遅らせても問題ないだろう、と、土埃に塗れた白手袋を替えるべきなのか、それとも先に内番中の弟たちの様子を見るべきなのか。真剣に迷っている一期一振の耳に届く、足音。
複数のそれは、一期一振を挟むように前後両方から聞こえてくる。自然と悩み伏せていた視線を上げたのなら、審神者の正装らしい和装束に身を包んだナマエが足早に回廊を歩き、見付けたと言わんばかりに笑み、そして。

「あっ、いち――」
「いち兄おかえりなさーい!」

続く言葉は背後から雪崩れ込むように抱き着く弟たちに掻き消された。秋田藤四郎と厚藤四郎。恐らく畑当番だったのだろう、服のところどころに泥が跳ねている。ナマエに詫びを入れてから屈み、さっさと白手袋を脱いだ手を二振りの頭に添え、撫でる。

「はい、ただいま。お前たちも当番お疲れ様。着物が汚れているから、着替えておいで」

言いながら、促すように背をそっと押す。元気に返事をした秋田藤四郎と厚藤四郎は、一期一振の背後に立っているナマエに気付き、にっこりと笑いながら短刀たちが集まる大部屋を目指し駆けて行った。
立ち上がり、「主」と声を掛けながら振り返ったのなら、ぼんやり短刀たちの後ろ姿を眺めていたナマエがはっと我に返る。ただいま戻りました。ええ、おかえりなさい。いつもと変わらない当たり障りのない会話。ほっとするように息を零す主を見ると、帰還時の挨拶くらいは即座にすべきだったと心の内に反省する。心配されるのは嬉しい半面、とてもこそばゆいものだ。
ふと薄汚れた白手袋を握ったままだったことを思い出す。常日頃から身に付けているものがないと途端に違和感は大きくなった。「報告の前に一度自室へ戻ってもよろしいでしょうか」と言いながら、呼び止められることはないだろうと確信していた一期一振は、曖昧に言葉を濁すナマエを安心させるように「すぐに戻ります」と続け、一歩踏み出そうとした、直後。
ぐい、と。弱々しいながらも物理的な力が一期一振を止める。予想しなかった展開に、思わず「え」と素の声が口を出た。勢い良く振り返ったのなら、あのときとは違う、健康的に染まった名前の頬が、徐々に赤みを増していく。唇が、噛み締められ微かに歪む。

「……主? どうなされました」
「ずるいです、一期」
「は……ずるい、とは」
「あなたが弟たちを無防備に可愛がるから、わたしはあの子たちが羨ましい」

最初はとても都合の良い聞き間違いをしているのかと耳を疑った。目を疑った。けれどその、こちらを真っ直ぐに見つめる大きな瞳と震える小さな体を見ると脳が本物だと警鐘を鳴らすのだ。
正しくない・赦されないと言い聞かせ引いた境界線が突然、消え失せた事実に一期一振は返す言葉が見付からなかった。端的に言えば、思考が停止するくらい混乱した。
「からかわんでください」といつもなら考えられない程の弱々しい声は、言い掛け、喉を通らなかった。胸元にナマエの頭がこつんとぶつかったからなのか、或いは、髪の隙間から覗く耳と項が心情を代弁するように真っ赤だったからなのか、原因は分からない。
人の体というものは、とても正直な上、感情が伝染するらしい。集中する熱に恐らく顔が赤いのだろうと、他人事のように薄ぼんやりと思った。
外套を掴む細い指先が、布の皺を深くする。微弱ながら確かに力が込められた主張は、至近距離だからこそ分かる程度の小さなものだったのだけれど。強請るような、希うような。甘美な「お願い」を聞いてしまったのなら、ひっそりと心の奥に息衝いているものが溢れ出すことは、分かっていた。

「…………わたしにも甘えさせて、ください」

ばかみたいに愛してくれ
16'0515

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