真っ黒のローファーが一揃いと焦げ茶色のスクールバッグがひとつ。砂浜とは結び付かない学生の必需品が無造作に放置されているのを見て、羽風薫は既視感を覚えた。思い出すのは夢ノ咲学院アイドル科の同級生、そして同じ海洋生物部の深海奏汰。彼は暇があれば靴やバッグを放置して、学院内の噴水を「ぷかぷか」と言いながら漂っている。しかし今回は間違いなく、人違いだと言い切れた。何故なら深海は海が好きと言う癖に泳げないものだから、水に身を任せるのは足が着く学院内の噴水と決まっている。
誰の物だろう。羽風が海辺を見渡すと持ち主は簡単に見付かった。制服姿の眼鏡を掛けた女の子が、裸足のまま浅瀬を歩いている。よくよくローファーを見直すと中に紺色のソックスも入れられていたから、彼女のものに間違いないだろう。
今日は運が良いなあ。反射的にそう思った。野郎の物なら素通りするつもりだったが、女の子の持ち物なら話は別だ。偶々、学校帰りに海へ寄り、海辺を散歩してから帰ろうと思い至った数十分前の自分を褒め称えたい気分だった。
六月下旬、梅雨真っ最中の貴重な晴れ間。あと一ヵ月も経たない内に海開きを迎えるだろう。そんな時期に待ち切れないと言わんばかりにふらりと海を訪れる羽風同様、あの女の子もマリンスポーツをしているのかもしれない。靡くスカートの裾から見える太腿は真っ白で、艶めかしくて。とても日に焼けた様には見えないが、元々の肌質が焼け難いタイプなのかもしれないし、最近は特に手入れさえ怠らなければ日焼けの対策など幾らでもある。細過ぎず、太過ぎず。健康的なバランスの取れた素足は、何かしらのスポーツをしている証拠だった。
不意に振り返った女の子が、羽風の姿を見た。見知らぬ男が居たことに驚いたらしい彼女は立ち止まり、波打つ飛沫への反応が遅れ、それは盛大にスカートを濡らしてしまった。短い悲鳴を上げながら、ペタペタと波打ち際から遠ざかる。濃い赤チェックの生地が透けることは幸いにもなさそうだったが、恐らくは赤の他人に失態を見られた気恥ずかしさから、ジロリと眼鏡越しに睨まれてしまった。
ローファーとバッグを持ち、付着した砂を払い、砂浜を踏み締め足早に歩きながら。羽風に背を向け、ぐっしょりと濡れたスカートを絞る女の子に声を掛ける。

「ごめんね。それ俺のせいだよね」
「……別に。あなたが謝る必要ないと思いますよ」
「俺のせいだよ。自分の荷物の側に知らない男が居たら驚くよね。本当にごめん。良かったら、これ使ってくれる?」

言いながら、スポーツタオルを差し出すと女の子は遠慮するように首を横に振った。少なからず断られることを予想していた羽風は、困ったように笑いながら続ける。

「でも、その格好じゃ帰れないでしょ? そんなに気にするなら洗濯して返してくれたら充分だから、使ってくれたら嬉しいな」
「……ありがとう。助かります」
「うんうん。俺は君みたいな可愛い子の味方だから」

タオルを受け取った女の子はキョトンと瞬いた後、可笑しそうにくすくすと笑った。やっと笑ってくれた。羽風が言うと、彼女は恥ずかしそうに咳払いをした後、消え入りそうな声で再び「ありがとう」と言った。





コンクリートの堤防に並んで腰掛け、制服の赤いチェックのスカートが乾く間、羽風と女の子――ミョウジナマエと言うらしい――は、簡単な自己紹介を済ませ、あとは羽風お得意のトークを繰り広げていた。名前は?、どこの学校?、何年生?、もしかしてスポーツしてる?、エトセトラ。最初は見た目通りの軽い羽風の態度に警戒していたらしいナマエも、会話運びの上手さに毒気を抜かれたのだろうか。或いは、少なからず羽風のことを助けてくれた恩人と認識しているからなのだろうか。段々と表情も解れ、ふとした瞬間に笑うことが多くなった。
とても目が悪いらしい分厚いレンズの奥の瞳が細められると嬉しくなった。口数は少ない方だと言うナマエが声を上げて笑ってくれると、更に欲が出てしまう。もっと彼女のことを笑わせたい。もっと彼女のことが、知りたい。会ったばかりのナマエにそんな気持ちを抱いてしまうのはきっと、「海」というキーワードがあったからだと思った。
想像通り、ナマエは水泳をしていたらしい。最近こちらへ引っ越して来て、近くに海があると知り、学校帰りに立ち寄った。しかし、いざ海へ来ると我慢が出来なくなり、足だけでも入りたいと浅瀬を歩いているところを羽風に見付かったとのことだった。

「いいところのお嬢さんって感じなのに、意外と大胆なんだね。あ、そうだ。同い年なんだから敬語は駄目だよ。俺もナマエちゃんって呼ぶから」
「うん……わかった。羽風くんもスポーツしてるの? 体つきもしっかりしてそうだし、水泳と言うよりは……」
「俺はサーフィンすることが多いかな。泳ぐことも嫌いじゃないけれどね」
「やっぱり」
「えー、やっぱりってどういう意味?」

そういう意味だよ。言いながらくすくすと笑うナマエを見ながら、羽風は参ったなあとばかりに両手を挙げた。世間一般的に「チャラい」と称される見た目と言動、更に趣味を当然のように結び付けられると毎度の事ながら肩を落とす他なかった。
日が暮れ始め、段々と風も強くなるとナマエは立ち上がり、深々と羽風に頭を下げた。本当にありがとう。助かりました。謝礼を言い終わると今度はスカートの乾き具合を確かめる。いくら晴れとは言え、湿気の多い六月下旬に一・二時間ほど太陽に晒したところで当然、スカートは生乾きだった。しかしながら、彼女曰く。帰りは徒歩だから問題ないらしい。
送るよ。羽風は喉から出掛けた言葉をそのまま飲み込んだ。初対面のナマエにそれは過干渉だと思ったし、今回ばかりは深追いする必要がなかった。タオルの件もあるし、彼女とは件のことがなかったとしても再び、この場所で会えるような、そんな気がしたからだ。

「タオルはいつでも大丈夫だから。またねナマエちゃん」
「うん。またね羽風くん」

羽風は女の子と別れる瞬間が一番嫌いだった。どんなに楽しいデートの後も訪れる別れが、それぞれの帰る場所に向かう瞬間が、嫌いだった、筈なのに。何故なのだろう。「またね」と言えば「またね」と返してくれたナマエとの別れは寧ろ、次の出会いを楽しみにするためのものに感じられた。
ミョウジナマエは今まで付き合った女の子たちとも違う、転校生とも違う、「女の子」だった。

Ghost of a siren
16'0627

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