黒いマスクと黒縁の眼鏡。紺色のロングジャケット。歩く度にレザーブーツが高い音を鳴らす。瑛一は我ながら随分と怪しい服装だと思った。顔を隠すためとは言え、マスクは白色にするべきだったと後悔し始める。そこそこ高身長の瑛一が、露骨に人目を避けるような服装をすると寧ろ逆効果だった。ひそひそ或いはチラチラ。擦れ違い様、不躾な小声と視線を無視し、瑛一は地下街を突き進む。
寒さに負け、地下に潜ったのは失敗だったらしい。あと一時間も経たず日付が変わる時間帯とは言え、週末の終電前。駅付近の地下街は想像以上に人が溢れていた。瑛一を追う視線の中には、好奇心や不信感の他に、色めき立った小さな悲鳴が入り混じる。数秒前に追い抜いた若い女のグループにバレたようだ。そもそも隠し通せるものだとは思わなかったが、いまはファンを相手にする時間すら惜しい。声を掛けられる前に足早に地上へ出た。
既に約束の時間を一時間半も過ぎていた。突然「イタリアンが食べたい」とラインを送り付けたのは確かにナマエだったが、日時を決め、店を予約したのは瑛一だった。「ピザ食べたい」「ワインが美味しいところがいいなあ」「いつでも大丈夫だからよろしく」と怒涛の追伸に呆れながらも我が儘を聞いてしまう自分は大概、ナマエに甘いのだと思う。
二時間ほど前、「先に適当に食べていてくれ」とメッセージを入れると瞬時に既読が付き、ビールジョッキを片手にしたキャラクターのスタンプが返ってきたところを見ると飲む気は満々らしい。酔い潰れる前に合流しなければ、後々の処理が面倒になることは必至だった。瑛一は無意識のうちに歩調を速めた。
店に入ると深夜に差し掛かる時間帯にも関わらず、店内は賑わっていた。アルコールを存分に摂取したと見受けられる店内の客は誰ひとり瑛一の姿を気にする素振りすらない。ようやく有象無象の視線から解放されたようだ。詰まった息を吐きながら、案内された個室へ足を踏み入れる。スマートフォンを片手に弄りながら、頬をほんのりと赤く染めたナマエがワイングラスを煽っていた。

「おっそーい」
「遅れると言った筈だぞ。……そのワイン何杯目だ?」
「あんまり遅いからボトル開けちゃった。ごめんね?」

その「ごめんね」は端から奢られるつもり故の金銭的な意味なのか、単に瑛一を待ち切れなかった申し訳なさ故の謝罪なのか。少なからずアルコールの熱に浮かされへらへらと緩く笑むナマエから誠意は感じられなかった。しかしながら、こてんと首を傾げる仕草と必然的な上目遣いは態となのだろうか。一度しっかり問い質したい。

「大して強くもない癖にがぶ飲みするな」
「酔いたい気分なんだもん。あ、瑛一はロゼ嫌いだった?」

言いながら並々とグラスに注ぐのは一種の嫌がらせなのだろうかと思う。恐らく深い意味はない。何が楽しいのか相変わらずへらへらと笑っているミョウジナマエという女は、酒が入ると絡むわ泣くわ終いには寝るわの三重苦だった。幾度となく惨状をまざまざと見せ付けられている瑛一は、ナマエの酒癖は最悪の一言に尽きると思っている。
かんぱーい。間延びした声と共にグラスを重ねた。一口飲み込んだ後、瑛一は冷めたマルゲリータに手を伸ばす。ワインと温かい料理で冷え切ってしまった体を労わりたいところだったが、追加注文をする前に眼前の食い散らかした料理を片付ける必要がある。固まったチーズを咀嚼していると、グラスを空にしたらしいナマエが、テーブルに上半身を放り投げるように倒れ込んだ。行儀悪いぞ。言いながら髪を梳くように撫でると、間延びしたうめき声が上がった。

「お義兄さん聞いてくれる?」
「誰がお義兄さんだ」
「瑛二くん今日デートなんだよ。いいなあ羨ましいなあ。お姉さんともデートしてくれないかなあ」

瑛二くんが。瑛二くんが。瑛二くんが。
ナマエの口から弟・瑛二の名前を聞くのは何度目になるのだろう。成人する前から。学生の頃から。記憶すら断片的な幼い頃から。瑛一は瑛二の名前を耳にタコが出来るくらい聞き続けている。
瑛二は自慢の弟だった。少々遠慮するような言動を取ることもありながら、非凡と言える天賦の才を持つ弟を芸能界へ入るよう勧めたのは瑛一と父親のレイジング鳳だし、アイドルユニットを組んだことに後悔はない。見る見るうちに上達するダンスや歌に刺激を受け、負けられないと互いに切磋琢磨した筈だった。それなのに。ナマエが瑛二の名前を口にする度に、瑛一は腹の底から湧き上がる苦い感情を呑み込むことになる。理由は至極単純だ。
瑛一はナマエのことが好きだった。
ナマエは瑛二のことが好きだった。
そして瑛二には、中学生の頃から付き合っている恋人がいる。
傷の舐め合いを続け数年。恋という直情は消え失せ、残ったのは同情と依存と重過ぎる親愛。瑛一は、ナマエの気持ちが瑛二と同等、或いは瑛二以上に自分へ寄せられていることに薄々気付いていた。長い年月を費やし、真摯に自己を捧げ、失恋という心の傷に付け込んだ結果だった。
羨ましいと言いながら、ナマエから瑛二の恋人を羨む女の顔は日に日に消えていた。甘い笑顔のまま残酷な事実を突き付ける弟より、甘い言葉を与え続ける兄を選ぶのは当然だし、それを毒だろうが薬だろうが躊躇わず嚥下してしまうのは、仕方がないことだ。傷心に付け込むというのはそういうことなのだから。
瑛一とナマエが恋人同士になるのは恐らく、時間の問題なのだろう。ふたりともそれを分かっている。その結果、他の誰でもない瑛二が一番に祝福してくれることも、分かっている。

「ごめんね?」
「今更だな。待つのはもう慣れた」
「まあ、華の十代をわたしのために使わせちゃったことは申し訳なく思います」
「瑛二には言わないのか」
「言わないよ。今更だもん」
「……その強情さだけは褒めてやる」
「ふふ、ありがとう」

頬杖を突きながら、ナマエは瑛一の言葉に満足するように笑った。
ふと目に入ったのはグラスに付いた薄いピンク色の口紅。同じ色がナマエの唇にも塗られている。瑛一は手を伸ばし、火照ったナマエの頬へ指先を寄せると親指を滑らせ、唇から口紅を奪い取った。粘着質な液体が皮膚に絡み付く。

「あーあ。瑛二くんが選んでくれた色なのに」
「似合わないな。おまえにはもっと濃い色の方が合う」
「……やっぱりそう思う?」

即答すると無言のまま手の甲をつねられる。地味に痛い。しかしながら、瑛一はナマエから手を離さなかった。頬を突かれても、眼鏡を取られても、手を離さなかった。酔っ払いながら場の空気を読んだナマエは困ったように目線を右往左往へ動かし、溜め息を吐いた。仕方ないと言わんばかりにへらへらと笑い、目を閉じる。
悪酔いしそうになるくらい強いアルコールの口付け。熱に浮かされながら、次に会うときは未来の恋人へ新しい口紅を贈ることに決めた。

アンスミーズ
17'0218

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