――なにがクリスマスだ。なにが正月だ。
駅前のイルミネーションを眺める老若男女の間を足早に歩きながら、ナマエは盛大な溜め息を吐いた。ゆらゆら立ち昇った白い息の先に、身を寄せ合った一組のカップルを見つけてしまい、途端に負の感情が強くなる。足は痛いし、指先は冷えるし、化粧が崩れた顔はボロボロだ。思わず鼻を啜るとツンと目の奥が熱くなった。
サービス業界で、いわゆる接客を仕事とするナマエは、クリスマスや正月といったシーズンのイベントを恋人と過ごすことは諦めていた。当然ながら職場は繁忙期だったし、恋人は社畜のナマエさえ驚愕する程の仕事中毒者で、双方の連休が重なることはゼロに等しい。はずだったのに。
数ヶ月ほど前から「ようやく仕事が落ち着きそうなんだ」と度々、口にするようになった恋人は、昇進と共に担当の仕事から外れることになったらしい。仕事の詳細は分からないが、社会に貢献する日々が実を結んだのなら、それは喜ばしいことだ。お祝いの言葉と共に「年末はゆっくり出来るの?」と問うたナマエは、「君が休みを貰えたら温泉に行く?」と突然の温泉旅行を提案され、年末の連休取得が難しいことは重々承知のはずだったのに、期待したのだ。旅行どころかデートすら碌に出来なかった日々を顧みると、恋人からのお誘いは魅力的だったのだ。
本当なら、今頃は老舗の温泉旅館に居るはずだったのに。案の定、仕事の休みを貰えなかったナマエは、今日も今日とて疲弊し切った体と共に帰路に着いていた。いつものようにオートロックの鍵を解除し、エレベーターに乗り、八階にあるマンションの一室へ向かう。カツカツとヒールの音を鳴らしながら廊下を歩いていると、小窓から漏れ出る部屋の灯りや住人たち笑い声に一層、得も言われぬ虚しさが襲ってくる。
――電話しちゃおうかな。それくらいならいいかな。
面白いくらい単純な思考回路に我ながら苦笑し、鍵を差し込んで自宅のドアを開けたのなら、消えているはずの蛍光灯が煌々と輝いていて一瞬、ナマエの時が止まった。混乱と困惑が顔を出す前に、奥の部屋から姿を現した人物が視界に入ったとき、今度は心臓が止まりそうだった。

「おかえり」
「え……。えっ、零さん?!」

居るはずのないナマエの恋人――降谷零そのひとが居た。

「いつまでも玄関に突っ立っていないで。料理が冷めるだろう」
「れ、零さん? 料理?」
「コートと鞄は俺が預かるから、君は手を洗っておいで」

さあさあ行った行った、と半ば追い遣られるように洗面所へ行かされ、ナマエは何が何だか分からないまま素直に手を洗った。蛇口から出る水は十分に温められている。降谷がナマエの帰宅を見計らい、待ち構えていた証拠だった。
リビングのテーブルの上には和洋中の手料理が所狭しと並べられていた。肉じゃが、グラタン、からあげ、ブリの照り焼き、エビチリ、八宝菜、シーザーサラダ……エトセトラ。特等席に座らされたナマエは思わず、茫然とつぶやいた。

「……今日、誕生日でしたっけ?」
「正月ボケは早いんじゃないか? まあ少々作り過ぎた感はあるが……。料理なんて久しぶりだったから、ついつい君の好物をあれもこれもと考えていたらこの有様だ」
「わたしのため?」
「もちろん。ナマエのためだよ」

ナマエが驚いたようにパチパチと目を瞬かせれば、満足気に目を細めた降谷に笑われる。向かいの席に座った降谷に「召し上がれ」と言われ、ナマエは手元にあったスプーンで野菜たっぷりの真っ赤なスープを一口飲んだ。
美味しい。とても。
心地の良い湯気が疲れ切った目元に染みて、旨みが凝縮されたトロトロのスープが喉を潤して。疲労感だとか、倦怠感だとか。ぐちゃぐちゃと心身に積み重なった悪玉が、ホロホロと粉砂糖を崩すように解けていって。無意識のうちに目からボロッと零れ落ちた。
ぎょっとしたようにナマエを見た降谷が、ガタガタと椅子を鳴らし立ち上がる。

「〜〜っ、どうした?! なにか変な物でも入って――」
「……今年はもう会えないと思ってた、から。びっくりしちゃって……」

あとミネストローネが美味しくて……、と言いながら静かに泣き出すナマエを、降谷は「脅かすな」と小言を言った後、手を伸ばし結われた髪を解くように撫でつけた。
大きな掌に揺さぶられ、ナマエは小さく笑う。差し出されたハンカチで目元を拭って、再び手に取ったスプーンで、今度はグラタンを食べる。とても美味しい。降谷の作る料理はプロ顔負けのレベルだった。降谷の言葉の通り、振る舞ってくれたのは久しぶりだったものだから、口にするのは半年ぶりくらいかもしれない。
そういえば、最後に一緒に食卓を囲んだときは――、とナマエが過去の出来事に思いを馳せていると、降谷がふと思い出したように言った。

「いつもと逆だな」
「え……?」
「前は、君がカレーを作ってくれた」

そうだった。「今日は早く帰れそうなんだ」と言う降谷のために、ナマエはカレーを作ったのだ。市販のカレールウを使った、極々一般的な味のカレーライス。不味く作る方が難しいそれを、降谷は美味しいと手放しに絶賛してくれた。
あのとき、ナマエは嬉しかった。結果的に「美味しい」と言ってくれたことは当然、降谷のために何かしたいというナマエの気持ちを受け入れて、喜んでくれたことが嬉しかった。
恐らく、今回と同じように。

「俺は仕事柄、どうしても君を振り回してしまうことが多いから、今回は良い機会だと思ったんだ。自分への戒めになったし、愛想を尽かさないでいてくれた有難さを実感したよ。それに……」

ぎゅうっと唇を引き結ぶナマエの目元を指先で擦りながら、降谷は笑った。「泣くな」と言われているような言動に、ナマエは思わず「泣かそうとするのは零さんじゃないですか」と憎まれ口を叩きそうになる。

「ナマエのことを考えながら過ごす一日は存外、悪くない」
「……そんなに甘やかされたら、零さんが居なきゃ生きていけなくなっちゃいそう」
「それは僥倖。うんと甘やかしてやるから、覚悟しろよ」

――わたしのこと、ちゃんとドロドロに溶かしてくださいね?
今度は我慢せずに口を出たナマエの言葉を、降谷は満足そうに嚥下した。

甘いものしか食べられない女の子だから
18'1231

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