「あ、入間さん」

呼び止められた声は聞き覚えがあった。銃兎が声の持ち主を振り返ると、見慣れた顔の女がこちらへ歩み寄ってくる。こんにちは、と花のような満面の笑みで挨拶され、彼女と同様に笑顔で挨拶を返すと、後ろに控えていた部下が「巡査部長……?」と声を掛けてくるものだから、やれやれと言わんばかりに溜め息をひとつ。余計な詮索をされる前に、困惑する部下たちを追い払った銃兎は、女に向き直った。きちんと年相応に整えられた服装・髪型・化粧。唇の形は常に口角が上がっている。見るからに人柄の良さを感じさせる彼女――ナマエが碧棺左馬刻の恋人だと言うのだから、世も末だと思う。
他愛のない世間話を交わしていると、独特のにおいが銃兎の鼻孔をくすぐった。煙草のにおい。無意識のうちに口寂しくなった喉の奥が音を鳴らす。繁華街の歩道は全面禁煙の筈なのに一体どこから? 誰から? ……彼女から? 疑問の答えは考えるまでもなかった。

「またあの馬鹿に吹きかけられたんですか? あなた、煙草のにおいは苦手だったでしょう。この後に会う予定があるので、出過ぎた真似じゃなければ言っておきますよ」

世間話のつもりだった。銃兎とナマエの関係は、警察官と一般市民という一点を除いたのなら、左馬刻――身内の好い人以外の何者でもなかった。他人と言うには近く、友人と言うには遠い、絶妙な距離だったのだ。
だからこそ、驚いた。ナマエは途端に、ボッと火が点いたように顔を真っ赤に染めた。

「…………は?」
「いえ、あの、違うんです……。ッごめんなさい!」
「落ち着いてください」
「今日は左馬刻さんと一緒に居た訳じゃなくて、わたしが勝手に……」

ごにょごにょと口にする言葉を探すように、或いは考えるように。羞恥が紅潮となったナマエの顔の中に、喜怒哀楽の「喜」を彷彿させる表情を奥底に見つけ出してしまった銃兎は、言葉の続きを聞く前に何となく想像がついた。

「彼の煙草を部屋で焚いていて……。だからにおいが付いちゃったんだと思います……」
「……なるほど」

頭を下げながら逃げるように遠ざかる女を見送った後、大きな溜め息を吐く。まったく……とつぶやいた言葉の矛先は彼女でも、左馬刻でもなく、お節介に口を出した故に、盛大な惚気を食らうことになった原因の自分自身への叱責だった。

隣の水は甘くて苦い
19'0106

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