きっかけは唐突だった。

「……セルエルさ、」
「あら」

心の準備が整う前に、開かれた扉の向こう側に居た人物が思っている御方と違ったものだから、悲鳴を上げそうになった。驚いた顔さえ麗しい佳人の女性はヘルエス様――セルエル様の姉君だった。
セルエル様の部屋の扉をノックするのを躊躇い苦悶する私に、メイド仲間たちが口々に「頑張れ」と励ましと冷やかし半々の声援を送ってくれたのは、三十分ほど前の出来事だった。あと一歩なのに。手を伸ばせば、届く距離なのに。作り慣れた筈の焼き菓子も、見慣れた筈の部屋の扉も、今日だけは私の足を竦ませるのだ。
だから、私の手がドアノブに触れる前に扉が開いたときは思わず、頭が真っ白になった。咄嗟に、反射的に、部屋の主の名前を呼んだのなら、姿を現したのはセルエル様ではなく、姉のヘルエス様。とんでもない間違いに眩暈を覚えながら、深々と頭を下げる。

「ヘルエス様……?! 申し訳ございません、私……!」
「謝らなくて大丈夫ですよ。セルエルの部屋から出て来た私のタイミングが悪かったのですから。……それより、貴女の愛らしい笑顔がセルエルに向けられたものだと思うと、我が弟ながら嫉妬してしまいそうです」
「ええ……?!」

ヘルエス様の手が頬を滑るように撫で、顔を持ち上げられる。優雅に微笑むヘルエス様に対して、いまの私は何が何だか分からず頬を茹でられたエヴィのように真っ赤に染めるだけだったのだが――。ゴホン。場の空気を壊すように落とされた咳払いに、ふと我に返る。
両肩を後ろから掴まれ、強引にヘルエス様の手から引き離された。あっという間にセルエル様の腕の中に収められ、上から降ってくる声に、今度は驚嘆の声を上げる余裕さえなかった。

「姉上。彼女を揶揄うのはやめてください」
「あらセルエル。私は本気ですよ」
「……余計にタチが悪い」

お二人とも私の心臓に悪いことは確かですよ、といっそのこと言ってしまいたいのを寸でのところで留まった。セルエル様も、ヘルエス様も、私のリアクションを楽しんでいる節がある。
ヘルエス様がセルエル様と、私と、私が持っている焼き菓子を順々に見た後、顔を覗き込むように真っ直ぐ伸びた背を屈め、柔らかく微笑んだ。

「もちろん、貴女の手作り菓子は私にもくれるのでしょう?」
「は、はい! あとでお持ちします」
「ふふ。それは楽しみ。そういうことですから、あまり彼女を独占しないように」
「……解りました」

渋々といった調子が背を向けているのに分かってしまうセルエル様の返答に、思わず苦笑する。当然ながら、それを正面から向けられたヘルエス様は重々承知の筈なのに、弟の可愛らしい嫉妬心は気にならないらしい。最後に「頑張ってくださいね」と密やかに囁かれ、再び頬を染めた私を満足そうに見て、ヘルエス様は肩に掛けたガウンをゆらゆら揺らしながら場を立ち去った。
お見送りの視線を送り続けていると、セルエル様に名前を呼ばれた。「はい、何でしょうか」と返事をする前に、持っていた焼き菓子を引っ手繰られる。固まってしまった私に構わず、さっさと部屋に戻る背中を茫然と見て、追い掛けて、勢いのまま縋り付いた。

「セルエル様。あの……」
「解ってますよ。姉上より、他の誰より、私の為に作ってくれたということは」

「違いますか?」と誇らかに言われ、首を横に振るだけで精一杯だった。
リボンを解いて、袋を開いて。そのまま食して頂けると思えば、そういう訳ではないらしい。部屋に備え付けのティーポットやティーカップを手に取って、何処となく楽しそうにティーパーティーを提案する。

「紅茶を淹れて、貴女が持って来た菓子でお茶にしましょう」
「では、私が……」
「たっぷりと、時間をかけて、私が淹れます。ティータイムくらいは貴女を独り占めしても、姉上から小言を言われないでしょうから」

――ヘルエス様、ごめんなさい。
「あとで」と言った癖に遅くなってしまう焼き菓子の差し入れを、アイルスト王国の元王女様に心の中で深謝する他なかった。

レディ・メイドの恋人たち
19'0228

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