「俺と結婚して」

高層階にある個室レストランで、フレンチフルコースのディナーを終えた直後だった。
平々凡々な日常からかけ離れた空間と雰囲気に圧倒される。落ち着かないな、と思いながら無意識にコーヒーカップの持ち手をなぞるナマエの手を、ひとまわり大きい手が指と指の隙間を埋めるように包み込んだ。硬い指の腹が薬指に触れて、撫でて。目と目が合った瞬間に、恋人である亮介から結婚を申し込まれた。

「………………」
「……ナマエ?」
「…………、んうっ!」

いつの間にか開いていた口を閉じるように唇を抓まれて小さく悲鳴を上げるナマエに構わず、亮介はニコニコと笑っている。驚愕と困惑の表情を浮かべていると、今度は「間抜け面」と口で攻撃された。言葉通りの醜態を晒していたのはナマエだったが、相変わらず情け容赦がない。
言いたいことは色々あるはずなのに、結婚という言葉の力が強すぎるものだから頭が上手く回らなかった。口元を押さえながら視線を亮介からテーブルの上に移したのなら、リングケースと花束が目に入ってしまい余計に混乱する。
結婚? 誰と誰が? ……わたしと亮介が?

「えっ、あの、……結婚? ……ぷ、プロポーズ?」
「ナマエは俺じゃ嫌なんだ?」
「違う! 違うよ、でも……」

そもそも今日の食事デートはお互いの就職祝いが目的だった。ナマエも亮介も無事に就職活動を終えて、後は大学の卒業を待つばかり。とはいえ、卒論のためにゼミや研究室に通う必要はあるし、卒業旅行や一人暮らしの引っ越し資金を貯めるためにアルバイトを続ける必要もあるので、多忙ながら質素倹約の日々を送っていた。そんなときに亮介がたまには贅沢しようと高級ホテルのディナーを提案して計画してくれたのだ。
フランス料理に舌鼓を打って、グラスからワインを呷って、食後のコーヒーを堪能して。華やかな非日常は夢みたいに楽しかったのだが、ドレスコードのために着飾ってめかし込むよりドーム球場の観客席でビールを飲む方が性に合っているかもしれない、と過去のデートを思い出しながら息を吐いて肩の力を抜いた瞬間に――不意を突かれた。ガツンと頭部を殴られて、夢から覚めたような衝撃だった。
いつかそうなったらいいな、と思っていた。いつかの願いがたった今、叶ってしまうなんて思わなかった。
複雑そうな表情を浮かべたまま俯いてしまったナマエの顔を覗き込んで、亮介が笑う。唇を抓っていたときの意地の悪い笑みからは考えられないくらい優しい笑顔だった。落ち着かせるように言葉を選びながら、安心させるように一つずつ説いていく。

「ナマエ、一人暮らしするんでしょ」
「……うん」
「ちょうどいいタイミングだし一緒に住みたい。籍も入れたい」
「……話が早すぎるよ」
「つまんないことで悩むなよ。俺はとっくに覚悟決めてるんだからさ」

亮介は椅子に座っているナマエの左手を取って、跪くように膝を折った。微かに唇が皮膚に触れたかと思えば、銀色の指輪がゆっくりと薬指に嵌められるものだから、嬉しいような恥ずかしいような、言葉に出来ない感情に心臓が暴れて煩かった。
婚約指輪だ、とあるがままの事実を思う。いつかは今で、夢じゃなくて現実だった。
照明の下で光る美しい輝きに眩みそうになったナマエが目を細めると、知らず知らずのうちに滲み出たものが頬に沁み入るように伝って消えた。跡を指先でなぞりながら、亮介が満足そうに笑む。もう一度だけ言ってあげる、と閉じた瞼の奥から薄っすらと瞳が覗いた。

「俺と結婚してください」
「……はい!」

その日からさらわれたまま
20'0710

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