瞼を開けたのなら、とっぷりと日が暮れていた。
開け放たれた障子から吹き込んでくる夏の名残がある生温い南風が、軒下の風鈴をチリンと軽やかに鳴らし、絡みつくように素肌の表面を撫でる。遠くから聞こえてくる虫の鳴き声だけが、僅かに秋の訪れを感じさせる。お世辞にもまだまだ過ごしやすいとは言えない、厳しい残暑の熱帯夜になることは必至だった。
薄っすらと滲み出た汗が、つうっと肌を伝った。風で散らばった髪が頬や首に張り付いてしまい気持ち悪い。払い除けたいのに頭が働かなくて、体が重くて仕方がない。眉間に皺が寄ったのを見止め、骨ばった大きな手が湿り気を帯びた髪をていねいに整えてくれた。
恭弥さん。名前を呼ぶと、視線がこちらへ落ちる。ナマエ。返事をするように名前を呼ばれた。薄暗い部屋の中で白い肌が月明かりに照らされて浮いている。
下から見上げるような角度から顔を覗くといつもより額がよく見えた。噛み殺すことなく零された欠伸に反応するように、切れ長の目が細められる。横たわった頭の下にあるのは恐らく彼の足――正確に言えば太腿だろう。高さはちょうどいいものの、硬く筋肉質でクッション性のないそれは、とても贅沢な枕だと思う。身動ぎしながら上体を起こそうとすると、指先で前髪を横に払った後に額を抑えて制される。

「軽い熱中症だよ。大人しく寝てて」
「……もう大丈夫です」
「駄目だ。恨むなら君の自己管理の甘さを恨みなよ」

わざとらしく嘆息を漏らす彼に拍子抜けしたような、肩の力が抜けたような。体調が悪いのだから休息を取れ、なんて滅多に言われない心遣いがこそばゆい。ここが戦場なら死ぬまで休むなと馬車馬のごとく働かせるくせに。間延びした返事をして、口の端だけで小さく笑う。
風紀財団本部にある施設内に作られた和室は、こだわりと一言で片付けるには度が過ぎるほど徹底的に整えられた至極の一室だった。床の間に掛けられた掛け軸や部屋の隅に鎮座する行灯が、いったい幾らするのかなんて知らないし考えたくもない。部屋へ上がるたびに強制的に着替えさせられる浴衣も高級そうな衣装箱に入れられていたが、言及すれば藪蛇になるのは分かっていたので見て見ぬふりをした。
ここへ来るときの彼は雰囲気がほんの少しだけ柔らかい。ここは彼の安寧の地なのかもしれない。
いつの間にか手に持っていたお猪口から何度も中身が嚥下されていくのを見るうちに、徐々に頬が色付いている気がしたものだから、思わず目を瞬かせた。じっと見つめていると無抵抗なのをいいことに、空いていた左手で顔のあちらこちらを触ってくる。いつもひやりと冷たい手が熱を感じる程度にぬるかった。

「汗ついちゃいますよ」
「まだ赤いな。熱があるかもしれない」
「そういう恭弥さんも赤くないですか」
「どうかな」

こくんと大きく動いた喉がやたらと煽情的に映る。口角の上がった唇が微かに濡れていて、瑞々しく光っていた。
開いていた目がとろんと緩んで、眠たいような熱っぽいような不思議な感覚だった。ここが安寧の地なのは彼だけじゃない。すんと鼻を鳴らしたのなら、香るのは畳のい草と彼の香水。いつから香水を付け始めていたのかは知らないが、気づいたら嗅ぎ慣れた香りになってしまっていた。頬を撫でられたり、髪を遊ばれたり、好き勝手にさせていると身体中の力が抜けていく。安心できて、信頼できる、世界一安全な場所だった。
頭がぼうっと霞がかったようになるのは熱中症の名残なのか、それとも雰囲気に当てられたのか。額に降ってきた薄い唇の中から、ちらりと覗く舌が赤くて熱い。上機嫌らしい彼が含みのある声色で言った。

「君は、これが夏のせいだと思う?」

茹だるような夏の暑さのせい? 喉を焼くような強いお酒のせい?
――それとも、私の、せい?

舌で転がす7度8分の微熱
20'0909

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