「ナマエ!」

錆びた蝶番を軋ませながら書庫の扉を閉めた直後、可憐で快活な声が私の名前を呼んだ。
黒の教団本部・城内の回廊はやや薄暗く、壁掛けの燭台キャンドルが周囲を柔らかく照らしている。そのオレンジ色の火をゆらゆらと動かす振動の先へ視線を向ければ、生み出された人影と共にレンガを打ち鳴らす靴音が段々と大きくなっていく。そんなに急ぐ必要なんてないのに。そう思っているはずなのに、咎める気持ちが微塵もないところをみると私自身もまんざらでもないのだろう。
屈託のない満面の笑み。東洋系の愛らしい顔立ち。両足のアンクレットが小さく揺れた。こちらへ駆け寄ってくる声の持ち主を受け止めるために両腕を広げたのなら、迷わずに飛び込んできた体をぎゅっと抱き締めて頬を擦り寄せる。

「ただいま、リナリー」
「おかえりなさい! いつ帰ってきたの?」
「ほんの二・三時間前だよ。挨拶できてなくてごめんね」

最後に頭をひと撫でしてから抱擁を解き、持っていたニットのカーディガンを抱え直す。帰還後に会いに行かなかったことを詫びると、リナリーは「ナマエが無事に帰ってきてくれて嬉しい」と私の無事を心から喜んでいるように笑ってくれた。
リナリーはいつも、どんなときも、ホームへ帰ってきた仲間を笑顔で迎え入れてくれる。『ただいま』と『おかえり』は当たり前のようで、私たちエクソシストには当たり前でない挨拶だ。任務に出たら生きて帰ってくる保証などない。昨日会った仲間と明日会える約束された未来なんてない。だからこそ、リナリーは仲間の帰還を歓迎してくれるのだし、私も精一杯それに応えたいのだ。
きゃらきゃらと笑って会話に花を咲かせていたのもつかの間、彼方へ追いやったはずの眠気が急に襲ってきた。必要以上に目を瞬かせ、どうにかこうにか睡魔を飛ばそうとするのだが、なかなか上手くいかない。ふあ、と噛み殺し損ねた欠伸が零れる。思わず口元を手で覆う私を見て、リナリーが不思議そうに首を傾げていた。

「? 寝てたの?」
「うとうとしちゃったみたい。コムイさんに報告してからそのまま調べものしてたから……」

言いながら、抱えているカーディガンを無意識のうちに撫でつけていると、余計にふかふかのベッドが恋しくなってしまった。屋内とはいえ、教団本部は断崖絶壁の高所に建てられていて基本的に気温が低い。加えて今は引っ越し準備中のため、あちらこちらの扉や窓が開け放たれている。冬ともなれば、寒さから身を守ってくれるコートの一つや二つは必須だった。うたた寝して中途半端に温まった体温を、床の底冷えが容赦なく奪っていく。
談話室の暖炉で温まろうかな、と考えていると、不意に視線を感じた。こちらをジッと見つめてくるリナリーと至近距離で目が合う。先程から一転、次は私が戸惑いながら首を傾げる番だった。相変わらず可愛いな、とか。コムイさんが過保護になるのも分かるな、とか。そんなとりとめのないことを考えている私の顔を覗き込み、反射的にそれを背けたい衝動に駆られて突き動かされる前に、彼女は「ナマエ、待って」と先手を打って逃げ道を塞いでしまう。リナリーの指先がゆるやかに唇へ伸びた。

「口紅が滲んでるわ。直した方がいいよ」
「えっ、本当?」

ほら、と手鏡を見せられたのなら、真っ赤な口紅を満遍なく塗ったはずの唇が、何かに拭われたように滲んで擦れている。ふちからはみ出たそれをそっとなぞれば、やや赤みを帯びた淡黄色の指の腹があでやかに汚れた。
確かに、机の上に突っ伏すように寝入っていたが、腕にも手にもどこにも口紅がついたような痕跡はなかった。不自然な落ち方をしているのだから、どこかへ付着した拍子に取れてしまったと考えるのが妥当なところだ。その場に残っていたものといえば、いつの間にか肩にかけられていた見覚えのあるニットのカーディガンくらいで――。
ふと思い至った一つの事実に、ぐわんと頭を揺さぶられる。まさかね、と流してしまいたくなるのに、それを肯定する条件は全て揃っていた。つい数分前まで温かさと柔らかさに癒されていたカーディガンが、私にとって小憎らしいものに感じられる。動揺を悟られないように、手の中にある毛玉を握り潰して昂った感情を落ち着かせ、喉元まで出かかった溜め息を呑み込んだ。

「……本当だ。ありがとう」
「どういたしまして。風邪引いちゃうから書庫でうたた寝しちゃ駄目よ。……ナマエには素敵な毛布をかけてくれる人がいるみたいだけどね?」

そう言ったリナリーの視線の先にあるのは素敵な毛布などではなく、もみくちゃにされたニットのカーディガンだった。私が着るには大きいそれが本来は誰のものかなんて、とっくの昔にお見通しだったらしい。からかわれるようにウィンクされて、けれど必要以上の言及はしないで。勘弁してくれと言わんばかりに恨みがましい目つきで睨んでみるものの、リナリーはくすくすと楽しそうに笑うだけだった。

「…………リナリー」
「ふふ。ごちそうさま」

リナリーは軽やかな足取りで踵を返し、私にとって不本意な捨て台詞を残して去っていった。感づかれたのがカーディガンのことだけだったのは不幸中の幸いだが、恐らく次回開催の女子会で根掘り葉掘り聞かれるんだろうな、と思うと少しだけ憂鬱な気持ちになる。割り切れないだけで、不満がある訳ではない。私が彼女と同じ立場ならそうするだろうし、女という生き物はいつだって恋愛の話が大好きなのだ。
そんな些細で可愛い事柄よりも、現在進行形で私が頭を悩ませているのは、カーディガンの持ち主のことだ。顔に似合わず随分と恥ずかしい置き土産をしてくれた彼をいったいどうしてくれようかと考えを巡らせていると、リナリーが歩み去った逆側の通路からこつこつと靴音が聞こえてきた。リナリーの靴音よりも強く大きいそれは、彼女と比べると背丈と体重があることを暗に示していた。さらに言えば、こちらへ真っ直ぐに向かってくる足音の間隔には馴染みがある。滅多に歩調を緩めてくれない彼に置いて行かれないように、私は今までに何回早足になったのだろう。
あと数歩を残して止まった靴音。無遠慮に注がれる視線。真っ黒な人影の方へ顔を向ければ、想像通りの人物が仏頂面で立っていた。私はわざとらしく持っていたカーディガンを掲げてみせてから、それを見て眉を寄せた彼にひそやかに歩み寄る。

「上着貸してくれてありがとう。お陰でくしゃみ一つ出なかったよ。……まあ、それはそれとして、ちょっと二人でお話しようか」

ねえ神田? と口角を上げてにっこりと笑ってみせたのなら、今度こそ神田の眉間には深々と皺が刻まれた。





神田の部屋は相変わらず生活感がなかった。よく言えば整頓されていて小綺麗な部屋だが、悪く言えば殺風景でがらんどうな空部屋である。教団本部が引っ越し準備中ということも一つの要因かもしれないが、それにしても物が少ない。積み上げられた本や資料で溢れ返っている司令室とは雲泥の差だった。
当然ながら客人を歓迎するための椅子やソファーもないので、部屋で一番の大物であるベッドに並んで腰かける他ない。お互いに遠慮する間柄ではないが、親しき仲にも礼儀ありだ。先に神田がベッドに腰掛け、その横をポンポンと叩いたのを認めてから、人一人分の距離を空けて腰を下ろす。シングルベッドが二人の体重を受け止めてギシリと軋んだ。
話をしようと言ったのは確かに私だったが、それは神田も私に話したいことがあると思っていたからだ。事実、神田は私が隣に座った際に、もの言いたげな目でチラリとこちらの様子を窺った。それから苛々した様子で舌打ちを一つくれた後、口を固く閉ざしてしまった。さっさと部屋に上がらせたくせに変なところで往生際が悪いというか、意地っ張りというか。
続く沈黙。増す緊張。サイドテーブルの上にあるキャンドルの蝋が燃え尽きて火が消えた。日が暮れるどころか日付が変わってしまうと痺れを切らした私が、おもむろに口を開いた瞬間だった。ようやく観念したらしい神田から、小さな声で謝罪が聞こえてきた。

「……悪かった」
「何が? 寝込み襲ったこと?」
「…………」
「なんで分かったんだって顔してる」

ぎょっとした顔をされ、思わず呆れたように笑ってしまう。事の顛末はこうだ。神田は書庫を訪れたとき、机の上の突っ伏して惰眠を貪る私の肩に、持っていたカーディガンをかけてくれた。そしてその後、私が寝入っていることを認めてから、唇にキスをしたのだ。たっぷりと塗ったはずの口紅が滲んでいて、尚且つ他に付着した痕跡が見られなかったのは、つまりそういうことである。
さぞかし間抜けな顔を晒していたことだろう。無防備な寝顔を見られるのは決して気持ちのいいことではない。彼は私の恋人なのだから、そう目くじらを立てる相手ではないのかもしれないが、それはそれでこれはこれ。もう少しだけ、あと少しだけ、仕返しも兼ねて暫くは遊んでしまえと心のうちで企んだところで、ふと我に返る。
苦虫をみ潰したような顔をする神田を覗き込んで、導かれるまま視線を向けた先には、散々探したはずの痕跡があった。まずいことになったかもしれない。いやな焦燥感と同時に頭を過ったのは、仲間であるエクソシスト二名の顔だった。私の不躾な視線を鬱陶しいと思ったらしく手で払おうとする神田に構わず、恐る恐るといった調子で尋ねる。

「書庫に戻ってくる間に誰かと会った?」
「は? なんで……」
「いいから」
「廊下でラビとすれ違った。それがなんだよ」
「……アレンじゃなくてよかったね」
「あァ?」

率直な感想を口にすると、何を言っているんだこの女は、と言いたそうに怪訝な顔を向けられたが、相手にしなかった。無知というのは哀れで愚かに違いないけれど、運が良く幸せなことだと改めてそう思う。
大袈裟に肩を竦めながら嘆息すれば、神田の額には薄っすらと青筋が浮かぶ。無視された挙句に厭味ったらしく溜め息を吐かれ、更には憐みの目を向けられていることに、いよいよ我慢の限界を迎えたようだ。怒りの矛先がこちらへ照準を定める前にずいと顔を寄せる。神田が怯んで瞬いた隙を見逃さず、ベッドに手をついて身を乗り出す。指先で弾力のある皮膚をぐいと押し上げ、目の前に厚ぼったい唇を突き出した。

「今日の私、赤い口紅塗ってるでしょ」
「だからそれが一体な、ん……」
「ついてるよ。下唇にべったりと」

まるく開かれた切れ長の目が、口のふちの薄い皮で覆われた柔らかい部分を凝視する。仄暗い無音の部屋の中で、先に静寂を破ったのは神田だった。武骨な手が乱暴に自身の口元を何度も拭っている。かたちのいい唇が蕩けてしまいそう、なんて錯覚に陥るほどの強さと速さで摩擦され、まったくもって関係ないはずの私の唇が微かに痛みを訴えていた。
本当に気づいてなかったんだ、と苦笑していると耳に飛び込んできたのは、腹の底から響くような短く鋭い舌打ち。手の甲についた鮮やかな血の色を忌々しそうに見つめ、神田は骨が軋むくらい強く拳を握った。

「あのクソウサギ……!」
「やっぱり何か言われたんだ?」
「…………ッッ」
「掘り返したりしないから落ち着いて」

私へ向けられたものとは比べものにならない激しい感情をふつふつと沸き上がらせ、敵意露わに殺気立っている神田を宥めようとするものの、とばっちりを食うのは火を見るよりも明らかなので肩を叩く程度に留めておいた。リナリーのように力業で捩じ伏せるほどの度胸はないし、ラビのように口先で丸め込んで誤魔化すほどの器量もない。そもそもの原因はラビだ。なんで私が……、と思ってしまうのは至極当然のことなのに、今回ばかりは当事者なのだからどうしようもなかった。
いっそのことほとぼりが冷めるまで放っておくのも一つの手だ。下手なことをして更に機嫌を損ねるより、健全で堅実だと言えるだろう。ベストではなくベターの答えを選んで、明日にでも再びラビにそれをほじくり返されたのなら目も当てられないが。
頭から湯気が出そうな勢いで回転させていると、突然神田が立ち上がったものだから面食らった。何度目なのか分からない舌打ちと、部屋の床を靴が踏みつける耳障りな音。驚いたように彼を見上げれば、顔をむすっと不満そうに歪ませたまま部屋から立ち去ろうと歩き出してしまう。

(――待って!)

言葉にはならなかったが、行動には反映された。咄嗟に黒衣を掴んで引き寄せると、まさか引っ張られるとは思わなかったらしい神田の体がほんの少しだけ傾いて、その歩幅の分だけ足が元に戻された。沈黙が痛い。視線も痛い。ジッと見つめてくるそれを真正面から受けるように、ベッドから立って顔を上げた。そして掴んだままだった団服を力任せに引き、私よりも頭一つ以上は背丈の高い神田を強引に屈ませてやる。
ああもう面倒だ。まっぴらごめんだ。私は私のやり方でやればいい。

「ね、キスしようよ」
「……この雰囲気でどういう神経してんだ、お前」
「だって寝てたから覚えてないし、勝手に襲ってきたのは神田でしょ。やり直したいだけなのに嫌がられるなんて心外だな」

どこかの誰かを思わせるからかうような口ぶりで笑んでみせれば、神田の顔が露骨に引き攣った。効果は抜群だったらしい。
いかにも恋人の逢瀬といった様子で、私は神田にしなだれかかった。カーディガンと同じ匂いだ。そう思い至ったのと同時に艶々の髪が手に触れ、滑らかに指の間を滑っていく。こんなに綺麗で長い髪をしているのに、神田は髪を触らせたり弄らせたりするのを好まない。けれど、私は一度だって断られたことはなかったし、改めるように言われたこともなかった。他の誰にも許していないことを私には許してくれる。それがとても嬉しかったのだ。
口では否定したものの、腰に回された腕が、先にある行為はやぶさかでないと告げている。いつもこちらの都合なんてお構いなしの神田に雰囲気がどうのこうのと説教されたのは癪に障ったが、無理も構わず強気で押し進めた自覚はあるので大人しく閉口しておいた。
目と鼻の先まで近づけられた唇がくっ付く前に、人差し指で神田の唇をとんとんと突っつく。口紅を馴染ませるように私自身の唇に舌を這わせ、不遜な態度でこちらを見下ろす彼を挑発するべくゆるゆると目を細めた。

「もっと色っぽくしてあげる」
「……上等だ」

重ねられた唇は最初こそ冷たかったが、段々と深く熱くなっていく。やっぱり夢なんかじゃなかった、と脳髄が溶け落ちてしまいそうになりながら、皮膚を擦り合わせ続ける行為に夢中になった。こくんと鳴った喉はもう、どちらのものなのか分からない。
呼吸を整えるために解放された数秒間、ぐらぐら揺れる視界の中で神田の唇を盗み見ると、拭い去ったはずの口紅がべったりと元通りに付着していて、ふっと息を吐くように笑いそうになる。途端に空気が重たく淀み始めて、ああまた不機嫌にしてしまったんだ、と碌に回らない頭の片隅で理解するものの、今の私にできることなんて何一つなかった。だからこそ、ちゃんと集中しろと言わんばかりに頬に添えられた手で顎を持ち上げられたところで、それを甘んじて受け入れる他なかったのだ。

あまくてあつくてあかい色
20'1207

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