夢から醒めたのなら、懐にナマエがいなかった。
寝惚けまなこを瞬かせ、無意識のうちに名前を呼んだが、起き抜けのしゃがれ声に返事はなかった。もう一度。あと一度。手繰るように名前を呼んだところで、朝の澄んだ空気に溶けて消えていくだけ。はっとする。夢見心地だった意識を取り戻す。咄嗟に伸ばしていた手の先にある寝床はもぬけの殻で、彼女の体温を失った白いシーツは冷たかった。
ぞっと身体の背面を撫でたものに突き動かされるように、銀時は走り出した。もつれそうになる足を必死に動かし、前かがみの姿勢のまま両手も使い、不格好な四足歩行で和室を駆け抜ける。蹴り飛ばした布団が畳の上でぐちゃぐちゃになったのが視界の端に見えたが、そんなこと構っていられなかった。力任せにスパンと襖を開け放ち、部屋中に視線を巡らせるものの、居間にもナマエはいない。
再度、彼女の名前を呼んだ。弱々しく小さいつぶやきは誰の耳に入ることもなく消えた。と、鼻孔をくすぐる匂いと同時に、微かに物音が聞こえてくる。脳内で理解し考え得るよりも先に、台所へ向かい走った。

「ッ、ナマエ!」

肩で息をしながら騒々しい足音と共に現れた銀時に驚いたのか、或いは大きな声で名前を呼ばれたことに驚いたのか。振り返った肩越しに見えたナマエは、菜箸を持ったままキョトンと目をまるくしている。しかし、瞬きと一緒に驚嘆の表情を崩したかと思えば、ゆるゆると蕩けるように笑んだ。

「おはよう、銀時」

ほがらかに気持ちのいい朝の挨拶をされ、拍子抜けしてしまう。求めている答えは目の前の光景が全てであるのに、銀時は知らず知らずのうちに問いを口にしていた。

「……何してんの」
「何って……お腹空いたから朝ごはん作ってたんだけど」
「……あさごはん」
「うん、卵焼きとモヤシのお味噌汁。……まだ寝惚けてる? もうできるから顔洗ってきて」

釈然としない様子で呆けている銀時を寝惚けていると判断したナマエが、布団から飛び起きた状態のままであることを窘めた。確かに、寝癖がついた髪は天然パーマに拍車がかかっているし、着崩れた寝巻きは胸元が大きく開いていて見るに堪えない。一方のナマエは身だしなみが整えられていて、銀時のエプロンまで律儀に身に着けていた。
ナマエの言葉に従わない理由も特になかったので、銀時は思考停止した頭で何を考えることもなく洗面台へと足を進めた。水でバシャバシャと顔を洗った後、脱いだ寝巻きをカゴに放り込み、いつもの馴染みの服を順々に着込んでいく。最後に青い流水紋が入った着流しを羽織り、腰元に帯とベルトを結んで着替えを完了させた。
台所を覗くと、既にナマエはいなくなっていた。綺麗に畳まれたエプロンだけがテーブルの上に置いてある。すんと小さく鼻を鳴らし、香ばしい匂いに誘われるまま居間へ足を進めた。
ナマエはソファに座っていた。向かいの正面に腰を下ろし、銀時は朝食に手を合わせる。白米とモヤシの味噌汁と卵焼き、それから付け合わせのたくあん。食材が冷蔵庫の中をかき集めた有り合わせであることを思えば、よくできている。大きく切った分厚い卵焼きを箸で摘まみ、一口で呑み込んだ。噛み締めた途端に口いっぱいに広がる、甘くて柔らかい食感に舌が溶かされる。

「……あまっ、うまっ」
「今日は神楽ちゃんも新八くんもいないから、銀時スペシャルなんだ」
「何その犬の餌みたいな名前」
「砂糖たくさん入れた甘い卵焼き」
「ああ……。こんな美味ェのに何が不満なんだかな、あいつらは」
「お菓子みたいな甘さだし、朝からは駄目なタイプなんじゃない?」
「そういうもん?」
「お年頃だし」
「関係あんの?」
「年頃の女の子はカロリーが気になるものなの」

言いながら、本人は微塵も気にしない様子で、箸で切り分けた砂糖たっぷりの卵焼きを口に運んでいる。ナマエはともかく神楽がそういう歳だという実感が湧かないな、と年寄り臭い感想を持ち始めたことに軽いショックを受けつつ、話の流れから自然とナマエの口元に目を向けてしまった。
ぼんやりと思い出すのは、昨晩の閨事のことだった。ナマエに感づかれようものなら「朝っぱらからやめて」と言われること必至だろうが、朝だからか食事中だからか紅が乗っていない唇にちらっと赤い舌が這う度に、どうしてもそういうことを連想してしまう。触れたい。抱きたい。キスがしたい。だいたい朝になったら勝手に腕の中から抜け出していなくなっているなんて、そんなことを許した覚えはこれっぽっちもない。だから変な夢を見て不安に苛まれる羽目になったんだ、絶対にそのせいだ、といちゃもんに近い主張を堂々巡りさせていると、手元の茶碗に落ちていたナマエの視線がおもむろに上を向く。

「……いいよ」
「は?」
「欲しいなら食べていいよ、私の卵焼き」
「……あ、ああ。じゃあ遠慮なく」

びっくりした。いつの間にか心の声が漏れてしまったのかと疑うくらい、抜群のタイミングで許可を与えられたものだから何事かと思った。銀時としては触れたくて抱きたくてキスしたいことに変わりはないので、都合のいい展開だとしてもそれはそれで充分に美味しかったのだが。
ナマエから貰い受けた卵焼きを食べる。変わらず美味しい。暫くは会話もなく黙々と食べ続け、銀時が最後のたくあんを口へ入れた瞬間に、ナマエは手を合わせ「ごちそうさま」と言って立ち上がった。使い終わった茶碗や箸を片付けるため、再び台所へ向かい遠ざかっていく背中を、口の中の残骸を飲み込みながら慌てて呼び止める。

「なあに」
「いや、あのさ……今朝、なんで……」
「……」
「……」
「……先にお皿洗ってきていい?」
「え、いや、それはちょっと……」

紡ぐ言葉が見つからず口ごもっていると、小さく息を吐いたナマエが持っていた食器類をテーブルの上に戻した。どうやら待っていてくれるらしい。
ガシガシと頭を掻いた指の隙間から、ナマエを盗み見る。触れたい。抱きたい。キスがしたい。悶々と頭の中を支配する欲望を押し殺し、なんとか喉から絞り出せたのは、情けなく女々しいお願いだった。

「…………こっちきてぎゅってして胸貸してくんない……」
「……?」
「深く考えなくていいから!」

困惑の表情を浮かべているナマエを強引に押し切ってしまえば、素直な性格が幸いして戸惑いながらも二本の腕が伸びてくる。服越しとはいえ、男が持ち得ない柔らかさの胸部に顔を埋めると、一気に多幸感に包まれた。あったかかった。心臓の音が聞こえた。今朝、彼女がいない冷え切った布団に触れたときの恐怖に似た寒気が、瞬く間に消えてしまった。
ぎゅうぎゅうと力を込めて抱き締めていると、指先で生え際をなぞっていたナマエが息を詰まらせたような浅い呼吸を繰り返す。

「銀時、ちょっと痛い。もう少し緩めて」
「……」
「……ねえ、銀時」

ほんの少しだけ緩められた腕の力にナマエは笑って、名前を呼んで。銀時が欲しかった言葉を簡単に見つけてしまい、それを惜しげもなく口にした。

「ちゃんとここにいるから、大丈夫だよ」
「……おう」

恋も憂いも解けるな光
21'0209

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