「え…………?」

瞬く間にナマエの脳裏を過ったのは軽率だとか迂闊だとか、そういった類の後悔だった。
剥き出しの電球が光る白い天井。使用感のある狭いシングルベッド。全く見覚えのないそれらの景色とは裏腹に、隣で枕に顔を埋めている男の銀髪は見覚えがある。癖のある毛先があちらこちらへ跳ね返って、ふわふわと柔らかそうに見えて、実際の触感は想像通りだった髪の毛。家族でも恋人でも何でもない、同僚の国語教諭・坂田銀八の寝姿。
ぞぞぞと背筋が凍る惨憺たる状況に、ナマエは思わず銀八に背を向けた。いっそのこと夢なら良かった。目が覚めた途端に幻と消え去る悪夢なら、こんなに思い悩むこともなかったのに。変えられない現実を嘆き天を仰ぎ見ながら、体へ巻きつけた毛布の下で素っ裸の自分を抱き締める。肺の底から無限に沸き上がる溜め息を零し続けるナマエに、ふと声がかけられた。

「やっぱ痛む?」
「きゃ――――?!」

喉とか腰とか……、とデリカシーがない慰め方をする銀八から逃げるように、ナマエは悲鳴を上げた勢いのままシーツを蹴り上げてベッド下の床へと転がり落ちていく。恐る恐るといった調子で後ろを振り返ると、ぱちぱちと寝惚け眼を瞬かせていた銀八が一転、どことなく胡散臭い顔で微笑んでいた。

「おはよーございます、ミョウジせんせ」
「お、おは……よう、ございま、す……?」
「覚えてます? 昨日のこと」

血の気を失って青褪めていたはずの顔が、今度は熱が集まって燃えるように赤い。ナマエが言葉もなく肩を震わせている様子を、銀八はへらへらと楽しそうに見つめていた。
しっかりはっきり覚えてしまっていることが、今回の出来事最大の難点だった。昨日は同じ学校に勤める教員の一人として、日々の愚痴を聞く話相手になって貰った。まあまあと宥められるままにお酒を注がれて、飲まされて。まともに歩けないくらい泥酔してしまったナマエを「介抱するだけだから、絶対手は出さないから」と無責任な言葉で説き伏せると、自分の牙城である賃貸アパートへ誘い込んだ酔っぱらいの銀八が取った行動は――お察しの通りである。
持ち得る記憶が確かなら、一回では終わらなかった。二回、三回……くらいまでの記憶は脳内にある。生存本能を刺激された動物みたいにお互いを求めあって、本能のままに思春期のようなセックスをしてしまった。天然パーマの髪がわたがしのようにやわらかいことも、眼鏡を外した素顔が年齢よりも随分と幼く見えることも。昨日までは知らなかったはずの事実を胸に抱えていると、とんでもないことをやらかした罪悪感に名前は泣いてしまいそうになった。

「さ……さ、さかた、先生?」
「はい、なんですか」
「あの……、私たち、その……」

言いづらそうに口ごもるナマエなど気にも留めない様子で、銀八はのそのそとベッドを抜け出してナマエの前にしゃがみ込む。下半身を覆っていた毛布が滑り落ちたときは狼狽えそうになったものの、さらけ出された上半身とは違ってピンク色のいちごパンツを穿いていた為に事なきを得た。
そういえば私の下着どこだろう、と裸体を包み隠してくれる毛布を握ってナマエが視線をさ迷わせていると、ぬっと銀八の顔が目と鼻の先に現れたものだから反射的にびくんと肩が跳ね上がる。貪るような激しいキスもしたし、それ以上のこともしてしまったが、瞳の色が赤いことは今初めて知った。

「ち、近いです、先生」
「そうですねえ」
「あ、あの! だから近い! 離れて!」
「そりゃ近づかなきゃチューできないんで。あ、口開けて貰えます?」
「は……――っ」

馬鹿正直に開いたナマエの口を塞ぐように、銀八の唇が吸いついて重ねられた。当然口の中へねじ込まれると思っていた分厚い舌は、浅いところを行ったり来たりして啄む程度でちゅっちゅと軽やかな音を立てている。まるで愛でられているようなそれが気恥ずかしくて仕方なくて、名前は大きく手を突っぱねて必死に抵抗した。

「ま、……って! 待って、ください!」
「ええ……なんで」
「昨日のことは……その、お互いお酒も入ってたことですし……」
「綺麗さっぱり忘れましょうごめんなさい……って? ざァんねん。だから教頭に緩いだの甘いだの散々言われるんですよ、ミョウジ先生。俺ァそういう展開にするつもりなんざ更々ないんで、ちゃんと覚えといてくださいよ」

俺の上で腰振って教え子に見せらんねェ顔してたミョウジせーんせ。ハートマークでもつきそうなくらいにっこりと微笑んでくる銀八に、腹の底から湧き上がる感情が殺意なのか羞恥なのか分からなくなるくらいナマエは困惑した。同時に、下着一式が見当たらない理由がなんとなく予想ついてしまい、止めておけばいいものを一連の元凶に聞いたばかりに自爆することとなる。

「……あの、私の下着って……」
「ああ、あの赤チェックの可愛いやつ。洗濯機に突っ込んどいたんで、乾かせば穿けるんじゃないですかね。俺もミョウジ先生も結構飛ばしてたから、さすがにそのままじゃ着れねーよなァって思って。ミョウジ先生がノーパン趣味なら全然そのままで良いし寧ろ興奮す――」
「あーもう! それ以上言わないで、お願いだからやめて……」

もう勘弁してください……、と項垂れてしまったナマエを落ち着かせるように、前髪をかき上げて露わになった額に再びキスが降ってくる。好意を意味する言葉の一つすら口にせず、一貫してセックスの生々しい批評のみし続ける銀八が、いったい何を考えているのか全く分からない。一夜の過ちに愕然としていれば、一応は気遣いの言葉をかけてくれて。綺麗に忘れましょうと提案すれば、するつもりは更々ないと一蹴して。そんなに優しいキスをしないで欲しかった。恋人みたいに優しく触れないで欲しかった。
雰囲気に流されてしまい絆されそうになりつつある有様にふと我に返って、ナマエが悪夢から目を覚ますようにその場に立ち上がった瞬間。銀八が踏みつけていたらしい毛布が下へ引っ張られて、包み隠していたものが一瞬のうちに四つの目玉の前にさらされてしまった。

「………………」

静寂。そして無言。いくら昨日のことを鮮明に覚えているとはいえ、お酒も酔いも抜け切ってしまい官能的な雰囲気が微塵もない今、異性に裸体を見られている事実に襲い来るのは羞恥心以外の何ものでもなかった。瞬時に蹲ったナマエが悲鳴を上げる元気もなく「死にたい……」と落ち込んでいると、銀八は銀色の髪をぐしゃぐしゃと掻き回して何事もなかったかのように言い放った。

「まァあれだ、ここは一先ず……。もう一発ヤっときます?」
「……、さ」
「ん? さ?」
「最っ低です、坂田先生!」

――それから数時間後。左頬に残ったモミジの跡に銀八は学校中の笑いものになったらしいが、喉と腰の鈍痛に耐え忍ぶナマエはそんな些細なこと知ったこっちゃなかった。

裸のままのヴィーナス
21'0420

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -