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ミョウジナマエ。東都大学大学院の薬学部。二十六歳。安室透が、気に入っている女性。
安室――もとい、降谷は頭の中を整理するために目を閉じた。愛車である白のマツダ・RX-7の運転席に腰掛け、ハンドルに身を預けるように凭れ掛かる。カンカンと車の屋根に雨粒が落ちる音。外から漏れ聞くことが出来る雑踏と雑音。繁華街の近く、大通りの路肩に停めた車は雨模様とネオンに紛れ、目立つはずの真っ白な姿を潜めていた。
ミョウジナマエの素性は既に調べ終わっている。偶然手に入れた学生証が幸いし、生まれや育ち、職業、現住所に至るまで、データベース上の情報は把握済みだった。使えると思った。意図せず出会った歳の近い女子大生。しがない喫茶店の店員と一般客。お互いに手を差し伸べ合い、特別な感情を持つことに説明を必要としないだけの理由は十分にある。一目惚れだとか、人柄に惹かれたとか。ドラマ的な事情すら周囲は納得するだろう、魅力のある女性だった。
降谷はミョウジナマエを安室透の恋愛対象にすることを決めた。設定を馴染ませるように、ぶつぶつと幾度となく繰り返す。安室透はミョウジナマエに惹かれ始めている。行動範囲に出入りし、いずれ東都大学へ踏み入るようになる。東都大学には都内有数の薬学部と医学部がある。黒ずくめの組織が欲する科学と医学従事者の卵が――山のように居る。組織のスカウト活動をするつもりは更々ないが、手土産は欲しい。彼女自身も薬学部の修士課程に身を置く学生なのだから、コネは有効に使うべきだ。喫茶ポアロに来店する、いわゆる安室狙いの女子高生への牽制も充分だろう。恋人になる・ならないは問題じゃない。大切なのは、恋愛対象の存在を周囲へアピールすることだった。
降谷は目を開く。雨がフロントガラスの上を滝のように流れている。車線の反対側、シャッターの閉まった店舗が続く歩道の一帯。見覚えのある傘が、瞳の奥に飛び込んだ。

「きゃ……っ」

短い悲鳴の後に、バシャンと水の跳ねる音。宙を舞った傘がゆらゆらと揺られながら地面へ落ちる。視線の先、車のライトが反射する程度には雨水に濡れたアスファルトに座り込んでいる女の姿に、降谷はフッと口元を緩ませた。天の神様とやらは俺の見方をしてくれるらしい。
偶々、居合わせたと言わんばかりに。あらかじめ積み込んでいたビニール傘を引っ掴み、ずぶ濡れになった頭に傘を差し手を伸べた頃には、降谷は「安室透」の顔に戻っていた。





「着替え置いておきますね。乾燥機は自由に使ってください。……壊れたヒールは応急処置しか出来ませんので、早めに修理に出すことをお勧めします。また雨の日に転んでしまったら、大変ですから」
「重ね重ねすみません」
「ナマエさん。そういうときはなんて言うんでしたか?」
「……ありがとう」
「よく出来ました」

言葉の通り、ナマエを拾った安室は彼女を車に乗せ、自宅へ連れ込んだ。研究室の食事会があるのだと言う由乃は「一時間も経たないうちに友人と合流するから大丈夫です」と遠慮していたのだが、安室が「その格好で店に入るつもりですか?」と言うと押し黙った。自覚はあったらしい。ヒールが壊れ、バランスを崩して転倒した結果、全身ずぶ濡れになった彼女に安室があれそれと世話を焼いたのが、三十分ほど前の話だった。
ゴウンゴウンと乾燥機の回る音がする。雨音とは別の、シャワーが流れる水音が聞こえてくる。安室が接着剤片手にヒールを直そうと奮闘する間に、いつの間にかシャワーを終えたナマエが、畳の居間に足を踏み入れた。

「ああ、ナマエさん。お湯加減いかがでし、た……」

思わず言葉に詰まったのは、一種の条件反射なのだと思う。当然ながら、一人暮らしの安室の家にレディースの服は存在しない。仕方なくフリーサイズのスウェットを用意したのだけれど。広い襟元から剥き出しの鎖骨。あまりにあまった生地が輪郭を覆い隠す腰部。その間の、十分な膨らみを連想させる――ゴホン。わざとらしい咳払いに我に返った。

「安室さん、見過ぎです」
「すっ、すみません! そんなつもりじゃなかったんですが……」
「えっち」

言いながら、ほのかに染められた頬は、羞恥からなのかシャワーの熱からなのか判断が難しかった。机を挟み、反対側に座ろうとするナマエを呼び止め、安室は自身が凭れ掛かっている背後のベッドを叩く。

「ナマエさん、こちらに」
「え?」
「足、怪我してるでしょう?」

いつものように遠慮の言葉が出る前に腕を引っ掴み、有無を言わさずナマエをベッドに座らせた安室は、白い足の前に跪いた。右足首に薄っすらと青い痣がある。労わるように優しく持ち上げ、冷感湿布を容赦なく貼ると声にならない悲鳴が上がった。からかわれた仕返しだと安室が言えば、ナマエから無言のジト目が飛んでくる。
ふふ、と頬を緩ませると、突然笑い出した安室を不思議に思ったらしいナマエが瞬いた。

「……安室さん?」
「いえ。初めてあなたと会ったときも雨だったなあ、と」
「あのときからマイペースなひとだと思ってました」
「あれは僕もやり過ぎたと反省してますが……。見知らぬ男に無邪気に笑いかける姿が魅力的だったから、手を出したくなりました」
「……今日は?」
「え?」
「今日は、手を出してくれないんですか」
「――…………」

――ピピピピピ!、ピピピピピ!、ピピピピピ!
真面目に、何を言うのかと思えば。真っ直ぐな瞳に見下ろされた安室は、咄嗟に言葉が出なかった。意味を咀嚼して、呑み込んで。思わず肯定の意を口に出す寸前のところ、スマホの着信音に邪魔された。惜しかったと思った反面、安堵の息を吐く自分に愕然としながら、通話を終えたナマエに話し掛ける。

「お友達ですか?」
「みたいです。お邪魔しました」

乾いた服に着替え、くっ付けたヒールの調子を確かめるようにカンカンと踵を鳴らすナマエに送迎を申し出たが、当然のように断られた。じゃあ……、と構わず続ける安室に、ナマエが振り返る。

「今度、僕と一緒に飲みに行きませんか?」
「……喜んで!」

お誘いは承諾してくれるらしい。最後に傘を手に取ったナマエの背中に、安室はにっこりと笑い掛けた。

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