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からんからん。喫茶ポアロより音階が低いベルの音を聞きながら、安室は扉を開けた。水曜日の午後三時過ぎ。年季の入った駅前の喫茶店。ティータイムなのに相変わらず店内の人出は疎らで、来客に気が付いたウエイトレスが会釈をして足早に歩み寄ってくる。

「お一人様ですか?」
「いえ、今日は……」

言いながら視線をさ迷わせ続けていると、奥のテーブル席に見覚えのある人影があった。入り口から一番遠い席は観葉植物が視界を遮っていて、パッと見は使用中なのかさえ判別し難い。人目を気にせず歓談するにはちょうどいい場所だった。
安室は朗らかな笑みを浮かべたまま、ウエイトレスに向き直る。

「先に連れが来ているので。奥の窓際の席に案内して貰えますか?」





「うそつき」

安室の棘のある言葉など意に介さない様子で、ナマエは優雅に紅茶を啜っていた。今から一週間前に本国であるアメリカ合衆国へ帰ると宣言したはずのFBI捜査官の女はいけしゃあしゃあと日本の喫茶店で、安室の目の前で、アフタヌーンティーを楽しんでいる。
結論から言えば、ナマエは暫くの間は日本に留まることになった。安室透ことバーボンから黒ずくめの組織へ情報が流される危険性がゼロになった為、ミョウジナマエの学歴や戸籍を無駄にするのは勿体ないと上層部が判断した――という都合の良い決定が、安室が三日前にナマエから掛かってきた電話で聞かされた話だ。そんな簡単に? と余所の組織のことながら安室は疑問を持ったが、既にジョディ・スターリングやアンドレ・キャメルの前例がある以上は杞憂なのかもしれない。所詮は他人事だった。
小さく音を立てながらティーカップをソーサーに戻して、ナマエが困ったように笑う。

「わたしも知らなかったんですよ?」
「どうでしょうねえ。結局、あなたの手の上で転がされていた感が拭えませんが」
「……やっぱり安室さんは意地悪だ」

ホテルや来葉峠での出来事が遥か昔のように思える。安室にとってナマエの帰国が白紙に戻ったことは喜ばしいことであるはずなのに、正体を隠して騙し騙されと駆け引きをするときと比べて落差が大き過ぎたものだから、なんとなく脱力してしまう。お互いの気持ちがある程度は露呈してる分、それは余計だった。
とはいえ、焦る必要はない。ナマエの様子を見るに彼女も同じ考えなのだろう。正体がバレて本性が分かってしまった予想外のアクシデントはあったものの、安室とナマエの関係は出会った当初から何ひとつ変わっていない。駅前の喫茶店で偶然知り合って、時間が経つうちに惹かれ合って、年相応の恋にヤキモキする男と女だった。
延長戦? 望むところだ。勝負の行く末は既に決まっている。
安室は無言のままテーブルの上に右手を出した。何をすればいいのか分からず安室の手のひらを見ながら固まっているナマエの意識をこちらへ向けるようにゴホンと咳払いをひとつ。目と目が合う。不安、動揺、困惑――ナマエの瞳の奥で揺れ動く感情を溶かしてみたくて、失くしてしまいたくて、手を取って欲しいと差し出した。

「僕は私立探偵で米花町の喫茶ポアロで働いている安室透と言います。あなたは?」
「……わたしは東都大学薬学部の院生のミョウジナマエです。よろしく安室さん」

恐る恐るといった様子で重ねられたナマエの手を、安室は力強く握る。堅苦しくて不格好な握手は、端から見れば異様に思われることだろう。けれど、それで充分だった。ナマエが安室の手を取った事実さえあれば、それだけで充分だったのだ。

「ええ。こちらこそ」





安室とナマエが喫茶店を出ると雨が降っていた。扉を開けた瞬間に舞い込んだ湿った空気のにおいと徐々に強まる雨音に、思わず灰色の雲を仰ぐ。しまったな、と傘を持っていないことを嘆いて思い悩む安室の横で、パンッと小気味いい音と共に傘が開いた。安室が呆気に取られて黙りこくっているとナマエが不思議そうな顔で見上げてくる。

「入らないんですか?」

当然のように、誘うものだから。相合い傘をしてもいいのだとか、今からどこへ行くのだとか、聞きたいことはたくさんあったはずなのに。朝の天気予報すら雨の報せがなかったにもかかわらず、普通に傘を差すナマエに吹き出しそうになってしまう。

「やっぱりあなたは傘が似合いますね」
「……安室さんこそ雨男だと思いますよ」
「そういう意味じゃありませんが……。まあ、それはお互い様ということで」

高く掲げられた傘の中に肩を並べて納まった二人が、雨の中へ消えて行った。

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