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ナマエは自分のために必死になれない人間だった。
人生の通過儀礼と言える進学や就職に当たったときは努力を重ね、頑張った結果が今に至っていることは間違いないのだが、一様に「それなりに」やった後から勝手についてくる付属品だと思っていた。「自分のため」という大義名分が苦手だった。「自分のため」に死に物狂いで他人を顧みず、我が強い自分を自覚することが怖かった。
だから、「大衆のため」の正義をまっとう出来る職業に就いたのだ。自分の意志は必要ないと思っていた。任務遂行は「組織のため」と言い聞かせれば、ナマエは十分だった。筈なのに。
いつの間にか芽生えていた感情に愕然とする。人間という生き物は一度自覚すると我が儘になるらしい。本当はもっと日本に居たい、帰国したくない――なんて。「自分のため」にFBI捜査官になった赤井やジョディと同様、私情を持ち得るようになってしまった事実を認めたくなかったのに。自分の生き方を否定したくなかったのに。
目の前の男は、ナマエと綺麗な別れ方をする気は更々ないらしい。





「今日は麦茶の用意できませんよ」と言うナマエに対し、安室は「お構いなく」とアパートの玄関に足を踏み入れた。今日の安室はグレーのスーツ姿だった。見慣れない服装に驚く前に、全身ずぶ濡れでスーツを色濃く変色させ、あまつさえ金髪から雫を滴らせている状態にナマエは目を剥いた。荷造りが終わった段ボールからタオルを引っ張り出し、安室の頭を包み込むように拭く。安室は無抵抗に為すがままだった。
ポタポタと零れ落ちる雫がコンクリートに染みを作る。「急に降られちゃって」と苦笑する安室の言葉通り、数分前まで快晴だった天気の悪化具合は、カーテンが取り外された大窓から確認できた。
うつむきがちだった安室の視線が宙を泳ぎ、室内を一周した後に再び伏せられた。前に来たときより一層、私物が片付けられた部屋。殺風景というより無人の空き家だった。

「いつですか」
「え?」
「いつここを出て行くんですか」
「明日ですよ」

明日、とナマエの言葉を繰り返した後に、安室は口を噤んだ。
昨日の今日なのだから、後処理に追われているに違いない多忙の安室が、ナマエを訪ねた理由は簡単だ。一方的に別れを告げられ反論する暇さえ与えられず、一言物申そうとがむしゃらに追い駆けたのに、実際に張本人を前にすると言葉が出ない。そんなところだろう。お互いの立場を順々に整えながら至った思考の末に、そもそもの疑問を口にする。

「安室さんって、わたしのこと好きなんですか?」
「……はい?」
「安室透じゃなくて、降谷零がわたしのことをどう思ってるのか、教えてくれませんか?」

一転、呆気に取られ瞳を瞬かせる安室――もとい、降谷は言葉を散々悩んだ挙句、腹の底から絞り出した嗄れ声で答えた。

「好き……だと思います」
「曖昧だなあ」
「ナマエさんは? 僕のこと好きなんですか?」
「好きでしたよ? 安室さんのこと」

ナマエの返答を聞いた降谷は小さく笑った。儘ならないナマエに苛立った様子で、歪んだ表情を隠さずに吐き捨てる。

「あなたから言わせた癖に、随分と簡単に過去形にしてくれる」
「もう終わらせたつもりですから」
「……諦めるんですか?」

真っ直ぐに見つめられ、ナマエは思わず視線を逸らす。降谷から追及の目を向けられるのはいつものことだったのに。のらりくらりと躱し続けた筈だったのに。瞳の奥からの責めるような咎めるような激情に、耐えられなかった。

「安室さんは普通の女子大生のミョウジナマエのことを好きになる設定だったんでしょう? じゃあ終わりにしてください。……わたしの知ってる安室さんは、そんな頑なな人じゃなかった」

ガッと強く両肩を掴まれ、ナマエは降谷を見た。過去何度か触れられたときからは到底、考えられない。無遠慮で、一方的で、暴力的とさえ感じる力を指先に篭められて、眉が顰められたこともお構いなしに、降谷はナマエを睨みつけてくる。本当に頑ななのはどちらなのだろう。ナマエが口を開く前に、「俺は」と捲し立てるように続けられる。

「ミョウジナマエなんてどうでもいい。俺はあなたが好きだ。あなたを好きになったんだ」

真上から降ってくる雫がナマエの頬の伝い流れた。色素の薄い髪から落ちたものなのか、見開かれた瞳から落ちたものなのか、ナマエには分からなかった。ただ、冷え切っていた筈の降谷から伝播する体温が熱くて、凝り固まった意地と思考をドロドロに溶かすようだった。
肩を掴んでいた腕が背中に回される。ナマエは心の最奥から生まれ出た気持ちに胸を高鳴らせた。

「――だからナマエさん。俺のことを諦めないで」

わたしは、この人と、一緒に居たい。

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