※22巻軸
※場地生存IF


クラフトビールとカルーアミルクの乾杯から始まって、シーザーサラダ、フライドポテト、ビーフアヒージョ、ハムの盛り合わせ、ハラミステーキ……と小洒落た肉バル名物のコース料理をあらかた食べ終えた頃には、ナマエは既に出来上がっていた。
けらけらと笑う訳でもなく、めそめそと泣く訳でもない。ほんの少しだけ眠そうに瞼を開閉させながら頬を血色良く赤らめる、なんて可愛らしい酔い方をするらしい彼女は、どことなく浮いた空気感のまま呂律の回らない舌で三ツ谷の名前を呼んだ。タカちゃん。記憶すら曖昧な子供の頃から変わらない呼び名を、子供には似つかわしくない時間の、ふさわしくない場所と雰囲気で、あの頃とは似ても似つかない甘ったるい女の声が呼んでいる。
はいはいどうした? と三ツ谷がいつもの調子で甘えてきた妹のような存在の頭を撫ででやると、ナマエは上機嫌に「んふふ」と笑い声を漏らしアルコールの熱で潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。いったい何が楽しいのだろうか。彼女と杯を交わしたのは今回が初めてだったため、どういう対応をするのが正解なのか全く分からない。
もう一人の幼馴染みである八戒は酔うと涙脆くなるタイプなので、泣き疲れて寝るまで泣かしておいて寝落ちたところをタクシーに押し込むのが吉。その姉である柚葉は口数が増えるタイプなので、好き勝手に喋らせて適当な相槌で聞いているアピールをしつつ満足した頃に解散するのが定石だった。どうして酔っぱらいの相手はこんなにも面倒なのだろう。
伸びた髪を手櫛で梳かしながら三ツ谷が頭を悩ませているのを余所に、ナマエは赤ら顔でとろんと蕩けた瞳をさ迷わせたかと思えば、小さく呟いた後にダイニングテーブルの上に倒れ込んでしまった。
ナマエの視線の先、彼女から見て左の奥から二番目のテーブル。三ツ谷たちのテーブルと全く同じコース料理が所狭しと並んでいる席に、同じく若い男女の二人組がいた。向かい合わせに座っている彼らは見るからに緊張していて、その様子は傍からでも簡単に見て取れた。たいして箸が進まず皿の上に残された赤身の肉、水ばかりが減り続ける檸檬が入ったピッチャー、目と目が合うたびに下を向く真っ赤な顔。イマドキ珍しく純情で初心なカップルを見て、寝落ち寸前のナマエが呟いたその言葉。

「いいなぁ」

羨望、憧憬、願望――そんな焦がれるような感情を切に込めた声色が、零れ落ちたものだから。堪らず息を呑んだ。言葉を失った。無意識のうちに頭を撫でる手を止めていて、視線と意識を奪われてしまった。
あの頃の、当時のナマエは三ツ谷のことが好きだった。タカちゃんタカちゃんと後ろをついて来て、タカちゃんが一番好きと恥じらいもなく言ってのけて。幼いながらナマエの『一番好き』が本物だったことは知っているし、そんな彼女に対して兄貴面し続けてきたのは他の誰でもない三ツ谷だった。そのはずだった。
これまでナマエのことを妹として見続けてきたのなら、きっとこんな気持ちにならない。これから本当の兄であるかのように接するつもりなら、きっとこんな気持ちは有り得ない。
なんで、今さら。
硬くなったフライドポテトのカスみたいな欠片を摘まみながら、赤ワインのサングリアで口の中の食べ物を胃袋へ流し込み、フルーツが浮いたグラスを持ったまま徐々に意識をフェードアウトさせていく、だらしない古今東西の酔っぱらいの末路であるその姿に。
三ツ谷はすとんと恋を自覚してしまった。





「なんでオレだよ」
「だよなぁ。オレも今思ったワ」

活気溢れる大衆居酒屋の一角に昔馴染みの友人と肩を並べた三ツ谷は、妥当な指摘に頷いた。
ゴールデンタイム真っただ中の混み合う店内で、丁度良く席を立った中年の男二人の後に一番奥のカウンター席へ案内された。がたがたと音を立てて年季の入った椅子を滑らせ、ぺちゃんこになった薄い座布団の上に尻を乗せたタイミングで、とりあえず生ビールを二つと適当なつまみを注文しておく。常連客という程ではないものの馴染みの店だというのに、隣でどことなく居心地悪そうに膝を揺らす友人――場地は、待っていられない様子で早く本題に入れと鋭い目で訴えてくる。相変わらず気が短い男だ。まあ待て、と手で制してから三ツ谷が「まず乾杯」と言って宥めている間に、生ビールとお通しのポテトサラダが「おまちどう」と元気のいい一声と共に提供された。幸いとばかりにジョッキを抱え、ほら、と促してやると渋々ながらテーブルからジョッキの底を浮かせた場地とかつんと乾杯した。
なみなみと注がれた炭酸と泡で渇いた喉を潤し、滑らかな舌触りのポテトサラダに舌鼓を打ったのもつかの間。カウンター席へ通されたときに頼んだ揚げ出し豆腐、たこわさ、白子のポン酢和え……といった居酒屋メニューが目の前に出てから程なくしてのこと。ちまちまとポテトサラダの上に乗ったとびこをつまんでいた場地が「で?」と痺れを切らす。んー……、と。三ツ谷が歯切れ悪く「恋愛相談なんだけど」と言った直後の場地の第一声はもっともだったし、それに対する三ツ谷の返しも然るべきだった。

「三ツ谷テメェ」
「いや場地が自分で言ったんじゃん」

三ツ谷自身、場地を呼びつけたことが人選ミスであることは薄々気づいていた。あくまで冷静なつもりだったのだが、意外と動揺していたのかもしれない。たまたま直近で連絡を取っていたのが職場が程近い場地だったものだから、反射的にメール受信画面の一番上にあった名前を脳死でタップしてしまった。今思えば愚直にも程がある。場地も「タケミチ……は、違うかもしんねぇけど。カノジョ持ちならドラケンとかいんだろ」と痛いところを突いてくる。ぐうの音も出ない。
場地は言葉に迷っている様子だった。そりゃあそうだ。いつもの調子で取引先の愚痴とかデザインの進捗とか、来シーズンのプロ野球の話とかそんな世間話を想像していたら、元不良の成人男性からクソ真面目に恋バナを持ち掛けられた挙句に聞き覚えのある名前を言われたともなれば、誰だって戸惑うだろう。
露骨な溜め息を吐いた場地が、半丁ほどの大きさがある揚げ出し豆腐をまるまる箸で掴んで口へ運ぶ。ひとくちデカ、とほんの少しだけ驚きながら、三ツ谷は咀嚼し続ける場地の言葉を待った。

「ナマエちゃんってアレだろ。昔オマエの後ろチョロチョロしてた」
「そうそう、そのナマエちゃん」
「両想いじゃねーか。オメデトさん」
「……だったらどんなにいいだろうな」
「あ?」

今度は白子を食べるために開けられた口が、生っ白い得物を食らう前に止まる。眉をひそめた場地が何言ってんだオマエ、と言わんばかりの顔でこちらを睨んでくるので、三ツ谷は弁明のために重たい口を開いた。

「アイツにとってのオレってもうそういうのじゃねぇ気がするんだよなぁ」
「……考えすぎだろ」
「いやいや」

ないわ。即答出来てしまうところが遣る瀬無い。
場地の言う通り『三ツ谷の後ろをチョロチョロしてた』頃のナマエは三ツ谷のことが好きだった。間違いない。ただし、それは昔の話だ。もう馬鹿をやっていたあの頃とは違ってナマエは三ツ谷の後ろを歩かないし、一番好きとも言ってくれない。散々ルナ&マナと同じ妹のように扱って、面倒見のいい兄貴面をしてきた癖に、今さらどの面下げて彼女のことが女として好きだと言えるのだろう。もっと早く知りたかった。もっと早く気づきたかった。ナマエがとうの昔から向き合い続けてくれたことから、三ツ谷が目を背け続けてきただけなのかもしれないけれど。
やたらと達筆な字で書かれたお品書きの陰に隠れていた陶器の灰皿を指先で引き寄せると、場地が喉の奥でくつくつと笑い出したから居た堪れなくなった。三ツ谷は内心で悪態を吐いた後、カーディガンのポケットからブルー系の小箱を取り出す。「最近控えてんだ」と禁煙と言えずとも本数を減らしていることを何気なく伝えた前回の飲み会から、たいした間を置かずにこの有様だ。原因は言わずもがな。ナマエと食事をしたあの夜から、目に見えて煙草の消費量が増えた。
灰皿の中にあった安っぽいオレンジ色のライターで火をつけ、肺の中を満たしてからゆるゆると紫煙を吐き出すと、メンソールの爽やかな後味が生ビールの苦味を上書きしていく。そういえばポテトサラダしか食べてなかった、と思い出したように並べられた皿へ目を向けるものの、場地がほとんどを食い散らかしてしまった後だった。三ツ谷は仕方なく追加でだし巻き卵とエイヒレの炙りを頼んだ。たとえ人選ミスであろうが恋バナに興味がなかろうが、今日は日付変更前に帰してやる気は更々ない。

「なんで今なんだろうな」
「知るか」
「ハハ、ごめんごめん」
「ぐだぐだ言ってる暇があんなら本人に聞きゃいいだろーが」
「今さらすぎて無理」
「……三ツ谷、オマエそんなに女々しかったか?」
「オレが一番びっくりしてる。何よりさ、」

短くなった煙草の先を灰皿に擦りつけて火を消す。ジュウ、と聞こえもしない火の断末魔が微かに聞こえたような気がした。

「オレもナマエもとっくにガキじゃねぇことにビビッちまってる」
「あんまり考えすぎると拗らせんぞ」
「残念、もう手遅れです」

明け透けに面倒臭そうな顔をする場地に向かって、三ツ谷は白い歯を覗かせて笑った。乗りかかった船なんだから最後まで頼むぜ、なんて場地からすれば迷惑極まりない誘い文句をリズミカルに謳いながら。

春はもう青くないことを知っていた
21'1101

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