※893パロ


金もない。仕事もない。当然ながら住む場所さえない。顔も覚えていない親戚を名乗る輩の借金の形だの、キスすら未遂の阿婆擦れホステスを誑かして寝取っただの。与太話を適当にでっち上げて濡れ衣を着せられ、結局のところ大それた理由なんてないことで易々と死にかけている。
完全に孤立無援だった。リンチと言って何ら差支えない。お世辞にも善良な市民とは言えない風貌の男衆に囲まれてしまい、まともな抵抗をする暇もなく一方的に蹴られ殴られ袋叩きにされた。這い蹲って呻いていると事のついでと言わんばかりに懐の財布を漁られて、唾を吐かれて。腫れ上がった頬を剥き出しのコンクリートに撫でつける他なかった。
そんな碌でもない人生で最低最悪の日。俺は羽のない天使に拾われた。

「ねえ」

鈴を転がすような声が、薄暗い路地に凛と響いた。
澄んだ美しい声音は女のそれであるにもかかわらず微妙な幼さを残していたものだから、満身創痍だった高杉は指の一本だって動かせない四肢の代わりに前髪の隙間から目玉を覗かせた。
路地裏にある人影は三つ。恐らく声を掛けてきたのだろう、こちらを見下ろす影が一番小さくて、シルエットが随分と柔らかい。広小路から差し込む逆光のせいで体の大半が黒く塗り潰されていたが、顔面に当たる部分に存在する二つの球体は喜色を孕んだ様子で高杉を見つめていた。
その小さくて柔らかい影は、後ろ手を組んだまま足取り軽やかに歩み寄ってくる。

「……あ?」
「あなただよ。まだ生きてるならお顔を見せて」

砂利を靴底で踏みつける音。それから再度聞こえた少女の声。いざなわれるように閉じそうだった瞼を抉じ開けて眼球を動かせば、目と鼻の先に可愛らしいサイズのエナメル靴があった。傷一つないそれは新品同様の美しさで、艶々と光っている。
変わらず地面に這い蹲ったままの高杉は、初めて人影の全貌を見た。小柄で、小綺麗な格好の少女だった。
にこにこ、と。微笑む様はあどけない子供そのものであるものの、凄惨な状況で顔色一つ変えないところを見るに、恐らく普通の子供ではないのだろう。一方で自分の薄汚い姿を思い返し、文字通りの天地の差に回らない頭ながらそんな些細なことで笑いたくなる。
浮世離れした少女以外の二つの人影が徐々に近づいて来たかと思えば、そのうちの一人の男に無防備な背中を蹴られてしまう。不意打ちだった。何しやがる、という怨み言は言葉にならず、左右の肺が悲鳴を上げる。ゲホゲホと咳き込むと傷だらけの口内に空気が触れ、鉄の味が一層濃くなった。虫の息である高杉を足蹴にした張本人は「まだ生きてんのか」と失礼なことを言いつつ、窺うような視線を少女に向ける。

「お嬢、またそんな小汚ねえガキ拾って帰ると親父にどやされますよ」
「ええ、だって、先週シンスケ死んじゃったんだもん。代わりの子を用意することくらい許してくれるよ。……ねえ、お顔が見たいな。見せて?」

少女は微かに首を傾げながらそう言って高杉に懇願するくせに、自らが両膝を折ることをしなかった。ボロボロな状態の高杉が、高杉自身の力で、少女を見るのを待っていた。
しかしながら、沈黙は十秒と持たなかった。早々に痺れを切らした男が足を広げたまましゃがみ込むと、短い舌打ちと共に凄みのある声で吐き捨てる。

「おい小僧。お嬢が顔見てえって言ってんだ、顔上げろ」
「頭に風穴開けられたくなかったら顔上げて笑いな、兄ちゃん」
「そういうのいいから」

もう一人の男が詰め寄る姿に便乗するようにスーツの懐に手を突っ込んだ、そのとき。少女は大人二人を切って捨てて一言「下がれ」と命じ、先程と同様に「こっち向いて、笑って見せて」と笑顔で高杉に頼み込んだ。
無茶苦茶だ、こいつら。今度こそ笑ってしまいそうになりながら、高杉は悟った。外面からは全く想像できない歪な上下関係、無抵抗の人間を容赦なく蹴る残虐性、当然のように持ち歩いている拳銃。どこをどう考えても、どこをどう見ても、堅気ではなくその道の人種だった。
顔を上げるため、そして起き上がるため手足を動かそうとするのに、相変わらず手のひらどころか指の一本も動かせなかった。もしかしたら骨が折れているのかもしれない。全身が多種多様の痛みに苛まれている今、高杉にはその判断がつかなかった。
大層無様だろうな、と思う。みっともないだろうな、と思う。コンクリートの上のミミズのようにのた打ち回って、母音ばかりで言葉にならない呻き声を発して。最後の力を振り絞って下半身に集中させ、四つん這いだった体を上に向けたのなら、明るくなった視界に笑みを携えた少女が映り込んでくる。仰向けで地面に寝転がっている高杉の長ったらしい前髪を払うように流し、少女は今度こそ屈み込んで青痣だらけの薄汚れた頬にそっと手を添えた。

「血と泥で汚れてるけど、とても綺麗なお顔してる。……うん、決めた。この子、今日から私の犬<ペット>にする!」

シンスケ二号ね、と奇天烈な台詞と共に差し出された小さな手のひらが救済の御手だったのか従属の首輪だったのかは、今となっては分からない。





高杉晋助が組長の一人娘であるナマエにかしづいてから、数年の月日が経った。
お嬢様の我が儘で半強制的に組へ入ったときは溝鼠と揶揄されていた高杉の変貌は見違えるほどで、類稀なる天性の才能とカリスマ性を発揮しながら資金繰りや道具調達と昼夜問わず日陰の道を突き進んでいた。ナマエの審美眼に狂いはなく、高杉は多大な利益を生んだ実績によって名実ともに組の幹部となっていた。
地獄の底から這い上がって人並みの暮らしが出来る程度になった後の――横浜二丁目のスクランブル交差点付近・新規開店直後の風俗店『U』にて。過半数の照明が落とされた薄暗いラウンジの一角で、スーツ姿の高杉は氷の塊が溶け切った汗だらけのロックグラスを弄んでいた。

「晋助くん、晋助くんってば」
「何度も呼ばなくても聞こえてる」
「本当かしら」

出会った当初から距離が近かった無遠慮な女は、こちらが許可を出す前から下の名前で呼んでいて、思い返せば、高杉との間に親し気な雰囲気を演出することに躍起になっていた。単純に高杉の顔面が好みだったのか、或いは話術で期待させてしまったのか。
あからさまに気に入られている自覚があったものだから、下手に口で指示を出すより手っ取り早いと判断し、部下に代わってターゲットの女と密会を重ねること早数ヶ月。女自身も、店自体も、粗方を調べ尽くし、そろそろ潮時だろうと引き際を見定め始めた頃だった。
左の大腿部に、生暖かい感触。心底億劫そうに嫌々ながら視線を落とせば、想像通り、派手な紅いネイルとゴールドリングに飾られた女の右手がスーツパンツの上から高杉の太腿を撫でていた。

「例の話、考えてくれた?」
「……まどろっこしいのは嫌いでね」

言葉の真意としては、これ以上の小芝居に付き合ってやる義理も道理もない、という意味だったのだが。高杉の刺々しい物言いを都合よく受け取った女は、上機嫌な様子で指先に髪を絡め始める。

「あんな子供のペットなんてつまらなくない?」
「…………」
「何が欲しいの? お金? それとも色? 晋助くんならなんだって好きにさせてあげるから、ウチに来ない?」
「人様のシマで勝手に商売始める命知らずの女郎がどんなもんかと思えば……とんだ無駄足だったな」

え? と間の抜けた声が薄暗いラウンジに響いて、それから沈黙が落ちたのは一瞬だった。二人以外は無人のがらんどうだった筈の店内に黒服の男衆がどかどかと詰め寄って押し寄せて、統率の取れた無駄のない動きであっという間に高杉と女がいるテーブル席を取り囲んでしまった。
にやり、と。口の端を上げた高杉とは裏腹に、顔面蒼白の女は呆然と立ち尽くし「なに、なんで、晋助くん」と呟きながら焦燥と困惑の目を高杉に向けてくる。まるで一本の蜘蛛の糸に縋るようなそれを、吸い込んだ店内の甘ったるい匂い諸共吐き捨てた。
人生最悪の日――ナマエの犬になった日に、高杉の世界は一変してしまった。かつて羽のない天使と称した笑顔の愛らしい少女は、今や高杉の全てだった。その華奢な両肩に軽やかな翼などではなく、消せない罪の痕を彫っていたものだから、高杉自身も這い上がって尚続く地獄を突き進む他なかった。彼女は守る対象であり、跪く対象であり――高杉にとって、夜闇で輝く星だった。

「俺ァお嬢の犬なんでね。あの人以外に尻尾を振ることはしねェのさ」

さっさと片付けとけ、という高杉の言葉を最後に、姦しい声は聞こえなくなった。

地獄道の金星
21'1020

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