※梵天


綺麗に笑う人だった。
都内一等地に聳え立つ高層マンションの最上階にある一室を訪れると、部屋の主である彼女はいつもリビングの大窓から景色を眺めていた。視界を邪魔する無粋なものが一切ないそこは真っ青な空と白黒のビル群のコントラストが映え、絶景のパノラマが広がる。今だって、米粒大ほどの飛行機が一点の雲もない空に細く白い線を描いていて、燦々と輝く太陽が目に眩しい。暗くなってから訪れたことがないため分からないが、夜景もさぞかし美しいのだろう。
部屋にはカーテンがなかった。リビングの大窓にも、天井付近の三角窓にも、日月の光を遮る遮蔽物はなかった。
部屋にはテレビがなかった。パソコンも、オーディオも、新聞や雑誌さえも、情報が受け取れる媒体はなかった。
いつだったか俺がそれを何故かと尋ねたとき、彼女は「必要ないから」と零すように言って、少しだけ嘆息して笑っていた。恐らく彼女は知っていた。マンションの最上階は言うまでもなく、一つ下の階にも自分以外の人間がいないことを。彼女を囲っている男が、彼女が部屋の外の世界に触れるのを酷く嫌っていることを。
だからこそ、何一つ隠さない。
彼女と会える数少ない人間の俺は、彼女にとって唯一の権利が許されている。ちらちらと髪の隙間から見え隠れする首筋の内出血の痕や、手首を一周するように薄っすらと残る青痣を晒していることも、他意などなく隠す必要がないからそうしているだけ。まったくもって下世話な話だが、目に見えない衣服の下がどうなっているか簡単に想像できてしまう。世間体良く言えば愛人、悪く言えば愛玩人形。彼女を一言で表すならそんなところだ。
俺が属している日本最大の犯罪組織の首領――佐野万次郎の恋人だった彼女は、いつの間にかこの部屋に住むようになった。幹部の面々が動けないときは決まって俺が彼女の部屋を訪れ、食事を用意し、世間話をした。世間話とはいえ、彼女はニュースや流行を知らないため大概は天気の話だった。今日はいい天気だね、朝は少し冷えたね、夕方から雨が降るかも、なんて他愛のない話題をすらすらと口から吐き出して、俺の曖昧な生返事にも律儀に反応してくれた。
いったいいつからだったのだろう。独善的な情が湧き、雰囲気に呑まれ、あらぬ思いを抱いた俺は彼女にこの部屋から――首領から逃げて欲しいと、そう思うようになった。窓ガラス越しの歪な陽の光なんかではなく、やわらかく暖かい日溜まりを直接味わって欲しいと、そう思ってしまった。
彼女はいつもにこにこと淑やかに笑っていて、明るく朗らかに話してくれたのに、いつだって心の底から笑ってくれなかった。綺麗に、ほんの少し寂しそうに、笑う人だった。

「なんでこんなこと……」

頼りなく弱々しい腕を引っ掴んで引っ張って、有無を言わせぬまま廊下へ繋がる玄関まで連れて行ったときだ。きょとんと頭の上に疑問符を浮かべていた様子から一転、事態を把握した彼女がつぶやいた。待って、お願い、待って。抵抗しながらの必死の制止を素気無く却下して、裸足の彼女に構わず強引に外へ外へと誘い出す。滅多にないチャンスだった。首領は昨日から一週間の滞在予定で香港へ発ち、幹部たちは重要な取引やら密談やらで数日は不在。平日の真っ昼間から人攫い紛いのことをするのは気が引けたが、そんなことを言っていたらいつまで経っても進展しないし、そもそも俺自身も犯罪組織の一員なのだから、それくらいで日和るようなら日陰者はとても務まらない。
いよいよ沓摺を越えるか越えないかの瀬戸際で、彼女は俺が掴んでいる手の上にもう片方の手を重ね合わせて希うように訴える。震えていた。

「駄目……、駄目なの。私はここにいなきゃ……ここで待ってなきゃ駄目」
「出たかったんですよね? この部屋から。いつも外を見てたから、焦がれてるのを知ってるから……俺、あなたには人並みな生活を取り戻して欲しかったんです。楽しそうに笑って欲しかったんです。……だから!」
「何してる」

え、という困惑の声は言葉にならなかった。代わりに撃ち抜かれた左太腿の激痛が、悲鳴となって一帯に響き渡る。痛い、痛い、痛い。何が起こったのか分からなくて彼女の腕を離した瞬間、脳天に凄まじい衝撃が与えられてしまい、あらがう余地などなく床へ倒れ込んだ。他人事ように眺めていた梵天トップの凶弾が、蹴りが、自分に向けられていると実感した途端に恐怖が五臓六腑を支配する。
内廊下の真っ白な照明に溶け込んで、真っ白な男がそこに立っていた。当初のスケジュールなら今頃は香港の歓楽街にいるはずだった首領は、光沢のない真っ黒な感情を孕んだ目と共に銃口を俺に向けている。

「そうか、オマエもか」
「待って、万次郎、私の話を聞いて……っ」
「オマエもオレからナマエを奪おうとするんだな」

ごめんなさい、と。無機質な音が破裂した直後に、彼女の涙ながらの声が小さく聞こえたような気がした。
そして、暗転。

在る青年の妄執
21'1020

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