※22巻軸


ガチャンと鍵を開ける音、それからドアノブを回す音。と、少しだけ遅れてヒールが床を叩く音が鳴ってから「ただいま」と帰宅を知らせる挨拶が聞こえてくる。
時刻は午後八時半を過ぎた頃。四半世紀を越えた歳の大人三人が暮らす賃貸マンションの一室で、一虎はつけっぱなしだったテレビを消してソファから立ち上がった。同居人が帰ってきたらしい。

「ナマエ、おかえり〜。メールで頼んだもん買ってきてくれ――」

ぺたぺたと素足独特の足音を鳴らしながら玄関まで出迎えにきた一虎は、思わず言葉を失って固まった。グレーストライプのジャケットを羽織ったスーツ姿は今朝、この部屋から出勤していった普段の通勤スタイルと何ら変わらないのに、問題といえば、同居人の一人であるナマエが薔薇の花を抱えていることだった。
この世の全ての真紅を集めたような赤色の花束を見て、一虎は立ち尽くしたまま瞬きを繰り返す。

「え、なに、今日って何の日だった? 結婚記念日?」
「馬鹿。誰と誰が結婚してるのよ」
「だって……。あ、オレと結婚する? 逆プロポーズ歓迎だよ」
「正社員になってから出直してきて」
「は? 薄給は千冬に文句言えよ、オレのせいじゃねぇだろ。つーかオレれっきとしたXJランドの社員なんだけど」
「試用期間中は契約社員って言ってたでしょ! 一虎、馬鹿なんだから雇用契約書ちゃんと読んだ方がいいよ」
「うるせーなぁ」

こちらから突っ込んだ話題とはいえ、学歴や収入の話をされると耳が痛い。ぐちぐちと口煩く小言を続けられても面倒なので、露骨な態度でしらっとした顔で澄ましていると、早々に悟ったらしいナマエは諦めた様子で口を閉じてしまった。きゃんきゃんと吠えて噛み付く浪費タイプのもう一人の同居人と違って、ナマエは物分かりが良く無駄なエネルギーを使わない省エネタイプだ。どっちもどっちで損な性格してるよな、だからオレみたいなやつに目ぇ付けられるんだ、なんて口が裂けようが天変地異が起ころうが直接言えないが。
一虎はナマエが抱えている花束に顔を寄せ、すん、と一度鼻を鳴らす。薔薇特有のダマスク系の華々しい芳香が鼻孔を擽った。

「で、それなに? なんでそんなもん持ってんの?」
「大学の後輩に押しつけられたの。駅前の花屋で働いてるんだって」
「ふーん……?」

大学の後輩って誰それ、男? 喉まで出かかった言葉を呑み込み、その直後にナマエから「面倒な勘違いされたら困るから言っておくけど、女の子だから」と渋い顔で言われたため無事に事なきを得た。
そもそも最初から一虎は疑っていた。真っ赤な薔薇の花束なんて滅多なことで贈られるような代物ではなく、特別な意味を持っているのは馬鹿だろうが少年院出身だろうが分かる。終わってしまうと思った。上機嫌で出迎えに行った玄関でナマエの姿を見たとき、頭から冷水を掛けられたような心地がした。彼女に、ナマエに、花束片手に気障ったらしく愛を告げた輩がいるのではないか、と。そう思ってしまったから。
ナマエと向かい合っていると否が応でも視界に入る薔薇の花束から視線を外し、一虎は人知れずつぶやいた。

「ここから勝手に出て行くつもりじゃねぇならいいけど」
「? それって……」
「うわ、狭い玄関で何やってんですか、二人とも」

驚いた声に導かれるように一虎とナマエが揃って開かれたドアの方を見ると、白いシャツにネクタイを締めたツーブロックヘアの男が立っていた。左手にジャケットと機能性に富んだバッグ、左耳に馴染みのピアスはなく穴だけが残る。この部屋のもう一人の同居人である千冬だ。

「あ、千冬だ。おかえり〜」
「おかえり、千冬。締め作業お疲れ様」
「ただいま。一虎君、ナマエちゃん」

いつの間にか恒例となった挨拶を交わし合い、我が家への帰宅に安堵したのもつかの間。千冬の透き通った青い瞳が一虎を捉え、ナマエを捉え、そして――薔薇の花束を視界に捉えたところで、ぱちぱちと音が聞こえそうなくらい瞼の開閉を繰り返し始める。
千冬が平常心を失くしていく様があまりに顕著だったものだから、一虎は笑ってしまいそうになった。

「え……え? なにその薔薇の花束、なにこの微妙な雰囲気。もしかして一虎君、オレに黙ってナマエちゃんにプロポーズ……っ」
「あーはいはい。それさっきやったから。大体オマエは少女漫画の読みすぎ」
「自分だって勘違いしたくせに……」
「あ? なんか言ったかナマエ」
「べつに」

言うに事欠いてプロポーズかよ。困惑と混乱の真っただ中にいる千冬を置き去りにしたまま、一虎は大手を振って「ないない」と大袈裟にアピールする。示し合わさずとも真っ先にその思考に至ってしまうところが、自分も彼も本当にどうしようもないと再確認した。
一方で、一虎の詰問に知らん顔でいたナマエが「というか、いい加減に」と我慢の限界とばかりに前置いて、ジト目でこちらを睨みつけてきた。

「荷物下ろさせて。腕がちぎれそう」
「オレ、これやっとくんで。花瓶ないからナマエちゃんのグラスかジョッキ使っていい?」
「うん、お願い。この前の晩酌で使った大きいやつ使って」
「了解」
「ちょっと一虎。袋の中身大半は一虎のおつかいなんだから、ぼうっとしてないで手伝ってよ」

薔薇の花束を受け取っていそいそと部屋の奥へ消えていく千冬の背を眺めていたら、ナマエに怒られてしまった。乳白色のビニール袋を押しつけながら目を吊り上げる彼女の言い分はもっともで、一虎は自覚があったからこそ間延びした返事をして袋の中身を漁り始めるものの、心ここに在らずといった調子で意識は相変わらず赤色に囚われていた。
薔薇の花の本数には意味があって、花言葉が変わるのだと聞いたことがあった。あの花束がナマエの後輩の独断で用意されたものなのか、ナマエの意見が反映されて束ねられたものなのかは知らないが。何本だったっけ、とつい数秒前まで目と鼻の先にあった花束を思い返していると、ようやくジャケットを脱いだナマエが一虎の手元を覗き込んでくる。

「桃缶、牛乳、冷凍うどん……って絶妙に重量があるチョイスな気がする」
「気のせいだろ」
「今日の当番一虎でしょ?なに作るつもりなの? 牛乳と冷凍うどんって」
「飯はもう出来てるよ。キーマカレー作ってある」
「え? ……冷凍うどんは?」
「今日の夜食用」
「牛乳は?」
「オレが飲みたかっただけ」
「……ハア」

言ってしまえばパシリだった。厭味ったらしい溜め息を吐いた後に項垂れたナマエは、激務終わりの社畜OLにこの仕打ち、泣きそう、と怨み言を言い募りながらめそめそと嘘泣きを始めてしまい、一虎は思わず苦虫を噛み潰したような表情をする。人一倍物分かりが良い筈だった聡明な彼女は、覆い隠された目鼻口と一緒に身を潜めたらしい。名前を呼んで、腕を広げて。ナマエが愚図っている原因の張本人であるにもかかわらず、尊大な態度は崩さないまま、一虎は全力で甘やかしてやるために受け入れ態勢を整えた。

「仕方ねーなぁ。泣きてぇなら胸貸してやるよ、ほら」
「…………一虎はやだ。千冬がいい」
「ああ? って、コラ、ナマエテメっ」

暫くの思案を巡らせた後、ナマエは一虎を振ってしまった。微塵も涙が滲んでいない睫毛を上下させ、さっさと踵を返して一目散に廊下を駆け抜けていく。

「千冬! 私のこと甘やかして!」
「は?」

駆け込んだ先のリビングで薔薇の世話を焼いていた千冬が、飛びかかる勢いで迫ってきたナマエに間の抜けた声を上げた。追い掛けながら、華やかに彩られたテーブルと猫のようにじゃれ合う二人を見下ろして、一虎は粗暴な言葉とは裏腹に満足そうに口元を緩める。
薔薇の花は、全部で九本。狭すぎず広すぎず、三人で丁度いい部屋の中に花の匂いが舞う。あまりにも優しくて愛おしいそれは、瑞々しく赤々と咲き誇っていた。

private room
21'1020

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