※22巻軸


「振られちゃったんだ、私」

そんな悲壮感溢れる台詞を聞いたのは自宅である賃貸アパート近所の公園のベンチだったものだから、オレは相槌を打つくらいしか返す言葉がなかった。晩夏から初秋へ移り行く季節の狭間、とはいえ、暦上では立冬が目前に迫っている頃合いの肌寒い夜のことだった。
気心の知れた仲間内での飲み会が解散になった後、敷地を突っ切るために足を踏み入れた公園で人影を認めたとき。心地良いビールのほろ酔い機嫌はどこへ行ってしまったのか、オレは反射的に立ち止まって薄ら寒さに身体を震わせた。ちら、と手元の携帯で時刻を見る。環状線の終電すら終わった、日付変更線を越えてから小一時間が経つ深夜の公園に、いったい誰が。昨晩たまたま見た『絶恐! 日本で一番怖い夜』なんてベタなタイトルの心霊番組のことを脳裏に思い浮かべながら、こんなことなら深夜料金をケチらずにタクシーに乗るべきだったと女々しい後悔を始める。
ええいままよ、と。意味のない意気込みと共に歩みを進めると、案外公園の敷地内は月明かりに照らされて明るかった。ぽつんと一つだけ佇んでいる木製のベンチ。そこに幽霊ではなく、女がいた。ちゃんと足も二本とも綺麗に生え揃っている。全体的に柔らかそうな印象を受ける、いたって女の子らしい服装の女だった。その女が、途端に口を開く。無意識のうちに女へ目が行ったオレは、きっと幽霊か何かその類を見るような顔をしていた。ええなに、失恋? めんどくせーなぁ。お気の毒様もご愁傷様も碌に言えず、適当に生返事をしながら思い至った一つの案を軽々しく口にする。

「じゃあオレの家に来る?」

ほんの少し不気味さと気味悪さを覚えたものの、飲酒後の高揚感を発散したかったし、真正面から見た女の顔はオレの好みだった。都合のいいことに今は特定の彼女もいない。それに女の慰め方なんてこれくらいしか知らなかった。
オレの突拍子もない話に女は一瞬息を詰まらせた。さめざめと泣いた証である真っ赤な瞳が、淡い微笑みと共に細められていく。

「彼氏になってくれるならいいよ」





付き合いに至るまでの正しい順序こそ違えど女――ナマエさんは恋人になった。
なんとなく同年代だと思い込んでいたが、実際は二つ年上の事務系会社員で、少年院での縦社会が染み付いたオレは彼女をさん付けで呼んでいる。ナマエさんは毎週末オレが住む賃貸アパートを訪れ、土曜日曜の休日二日間を過ごし、月曜日の朝に帰っていく週末限定の半同棲みたいなことをした。そもそもオレは土日祝休みの仕事ではなく勤務時間もシフト制だからいないことだって多いのだが、彼女はそれを全くと言って気にせずに仕事で疲れ果てたオレをいつも「おかえり」と温かく迎えてくれた。
ナマエさんのことが好きだった。さらさらと指の間を流れる髪も、ほのかに甘い香水の匂いも、艶のある柔らかい薄桃色の唇も。ナマエさんといると楽しかった。出会いこそ一種の逆ナンで、セフレの一歩手前で、ちゃんと交際が続くなんて夢にも思わなかった。
けれど、今さら能天気に恋に盲目になんてなれない。どう足掻いたって、どう藻掻いたって、オレは普通で括られる側の人間ではないのだから。
前科二犯。少年院には十年以上居座った。犯した罪を一生背負って生きていく。そう誓った決意は揺らがないし、その事実を絶対に隠さない。
ナマエさんには話した。全部、全部。聞かれたことも事細かに話した。セックス後の余韻を楽しむピロートークには程遠い、眩暈がするくらい生々しい過去をぽつりぽつりと語る全裸の男の、なんと滑稽なことか。ナマエさんはそんなオレに対し、「人生いろいろあるよ。人間だから。言い難いことを話してくれて嬉しい」と笑ったのだ。思い返せば、出会ったあの日、首にある刺青を見たときもナマエさんの態度は大して変わらず「ヤンチャしてたんだ?」の一言のみ。なんて物分かりの良い……ではなく、変わった女なのだろうと思った。ここ数年の歴代の彼女たちはみんな等しく怖気づいてしまって惚れた腫れたどころではなかったのに。
――だから、許された気になっていたんだ。そんなことあるはずがないのに。

「貴重な盆休みに墓参りねー……。ナマエさんって律儀なタイプなんだ」
「ええ、べつに普通だと思うけど。昔お世話になった子だから会いに行ってるだけだよ」

どことなく呆れた声色で窘めるナマエさんに、オレは適当な返事をしてから天を仰いだ。九州地方にある低気圧のせいで曇った空に吹き荒ぶ風が少しだけ涼しさを孕んでいて、屋外へ出掛けるのが幾らか億劫ではない。その程度には天気と気分のいい夏の日だった。
いつの間にかナマエさんと付き合ってから十ヶ月が経とうとしていた。段々と初々しさがなくなって、とはいえ、アルコールと失恋の勢いで体から始まった関係に初々しいも何もないが、倦怠期とも言い切れない微妙な安定感が生まれつつある今日この頃。惚気のような愚痴のような悩みをついつい零すと「今が一番楽しい時期じゃないっすか! オレなんか付き合いたての頃は……」と中学時代の甘酸っぱい思い出と共に力説する者もいれば、「そういう時期が一番危ないんすよ。ちゃらんぽらんなアンタに勿体ねぇ出来た彼女なんだからフォローしなきゃ駄目ですよ」とアドバイスに見せかけた小言を言う者もいる。オレとナマエさんが普段やっていることといえば家に引き篭もって日がな一日映画を見たり、腹が減ったらご飯を作って食べたり、夜になったら適当にセックスしたり……と事実を明け透けに伝えたのなら、両者からドン引いた視線が返ってきた。可愛くない後輩たちだ。
おいそれと説得されて頷いた訳ではないが、確かに、レジャーシーズンくらいは出掛けてもいいかもしれない。オレ自身、夏の風物詩を楽しんだ思い出は少ない。そして珍しく意欲的になって恋人を誘った結果、滅多に合わない互いの休日が重なった盛夏に訪れたのは、潮風吹く海でもなければ緑生い茂る山でもなかった。共同墓地。盂蘭盆のうちに墓参りを済ませたいのだという。オレとしてはナマエさんと一緒に過ごせるなら場所は大した問題ではなかったのだが。こちらから誘った手前、軽い憎まれ口を叩いておく。

「だからって……。海とかプールとか行ってナマエさんの水着見てぇよ、オレは」
「ふふ。一虎くんこそ先週の休みに行ったんでしょ?」
「あー……、まぁな」
「きっとその人も喜んでると思う」

真っ白な弔いの花束を抱えたナマエさんは、そう言ってオレを先導するように歩き出す。こつんと彼女が履くサンダルのヒールがコンクリートの歩道を打つたびに、瑞々しい花弁が揺れた。
コンビニ横の横断歩道を直進、三叉路を左折、古い雑居ビルがある角を右に曲がった途端に――既視感。「あれ?」「どうかしたの?」「いや……」と取り留めのない会話を続けながら、ナマエさんとオレはぐんぐんと先へ進んで行く。見覚えのある道路。見覚えのある看板。そして。

「……ナマエ、さん」
「なぁに。一虎くん」
「…………ナマエさんの昔お世話になった子って」

びゅう、と。一際強い風が吹き抜けて、晴れた視界の先には墓石の群があった。
『場地家之墓』と刻まれた家墓の前に、オレが先週手向けた枯れかけの白い花がゆらゆらと揺れている。

「言ってなかった? 圭介くん。場地圭介くんって言うの。私の大切な従兄弟。母方の従兄弟だから名字は違うんだけど、お盆とかお正月とか毎年会ってて、歳が近いから親戚からもセット扱いされててね。中学に上がったときから不良のチーム作ったって言って顔見せるくらいになったから、あんまり会えなくなっちゃって寂しかったなぁ」
「な、なん…………なんで」
「なんで? ……分からないの? 羽宮一虎くん」

綺麗に磨かれて艶々と輝く石を見つめているナマエさんの顔は見えない。厳粛ではあるけれど悲しさも強い白いだけの花束から雫が数滴したたって、彼女の黒い服を濡らしている。
オレは目を見開いたまま動けなかった。さっきまで額に汗が滲むくらい陽炎が暑かったはずなのに、今は氷塊が浮かぶ海に突き落とされたのかと疑うほど寒くて冷たい。それだけではない。痛かった。頭が、腹が、肺が、心臓が。痛くて痛くて堪らない。
砂利と泥を踏みつける音に我に返る。いつの間にか膝を折っていたオレを、ナマエさんが見下ろしていた。逆光で変わらず彼女の顔は見えない。

「ねえ、今どんな気持ちなのか教えてくれる?」
「…………う、エ゛ッ」

最低の気分だった。
一緒に食べた朝食のトーストとハムエッグも、駅前のコンビニで買った新商品のカフェオレも、ぜんぶぜんぶ嫌悪と共に吐き出してしまいたかった。心の底から大好きになった人が、大切で自分が殺した人の親戚だなんて、そんな馬鹿なこと。つんと鼻の奥が痛んで、視界が徐々に歪んでいって。年甲斐もなく蹲ってゲホゲホと派手にえずいているオレに、「私ね」とトドメの一言が降ってくる。もうきみのことが好きなのか嫌いなのか分かんなくてぐちゃぐちゃなの。震えながらナマエさんの嗚咽と悲鳴にまみれた台詞を聞いて、また胃液が逆流するくらいの酷い吐き気が込み上げた。
オレの愛しい愛しい恋人のナマエさんは、いったいどんな顔をしていたんだっけ。

無貌の女
21'1020

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