8:30
二十歳を超えたくらいから出先で水を買う癖がついた。かれこれ六年ほどになる。
コンビニのショーケースの中から選び抜かれるのは炭酸が溶け込んだコーラやフレッシュなジュースではなく、天然水だとか水素水だとかそういった類のうたい文句がラベリングされたミネラルウォーター。ペットボトルに入ったただの水。だいたい百円硬貨一枚と細かい小銭を支払えば、印のテープを貼って手渡されるもの。昔のオレが知ったら単なる水に金を払うなんて正気かと驚くだろう。正直、今でも軟水や硬水の違いは全然分からない。
理由は簡単だった。悪く言えば子供っぽいカラフルなそれを持って出歩くより、無色透明なボトルを片手にたたずむ方がカッコよかったから。

「お疲れ様でーす」

いちにちの始まりにふさわしい快活な声が聞こえ、パソコンの画面に落としていた視線を上げる。しまった、もうそんな時間だった。いつもより早めに出社したからメールチェックだけ終わらせるつもりだったのに、そのまま不足備品の発注作業に取りかかっていた。まぁいいか、とキーボードを打ちながら「ナマエちゃんお疲れ様。今日もよろしく」と言えば、元気な返事がかえってくる。シフト勤務が基本である弊社の挨拶は、時間帯にかかわらず『お疲れ様』だ。
今日の通しスタッフはオレとナマエちゃん。休憩をまわす要員の一虎君はお昼からの出勤だ。珍しくメインスタッフが勢揃いだけれど、ペットウェアやらお手入れグッズやら新商品の入荷日だからなんかんだで忙しい予感がする。

「あの、松野店長。ちょっといいですか?」
「うん?」

いつの間にか近くにいたナマエちゃんにおずおずと声をかけられ、頬杖をついていた顔を向ける。

「冷蔵庫使いたいんですけど、入れたいものが大きいから占領しちゃいそうで……」
「あー……」

ショップの事務所、兼、スタッフの控え室として使用している一室には、事務作業用のデスクが二つと応接用のソファとローテーブルが一組、それから立ち並んだキャビネットに紛れるように冷蔵庫が置いてある。スタッフなら誰でも自由に使うことが可能で、入れた日の日付と自分の名前を書くのがルール。ヒナちゃんとの結婚を機にアパートから引っ越したタケミっちに譲って貰った型落ちのオンボロ冷蔵庫だったが、意外と重宝している。
なんとなくナマエちゃんの言いたいことが分かった。小さな冷蔵庫の中には、五百ミリリットルの無機質なペットボトルが所狭しと詰め込まれているから。

「いいよ。オレの水邪魔でしょ。一本だけ残して後は出しちゃって」
「あ、ありがとうございます……!」
「ついでに一虎君のビールも全部出しといて。職場じゃ飲ませねぇから冷えとく必要ないし」

仕事終わりに飲む! と豪語して一週間前から自宅に持ち帰ることを忘れ続けている一虎君の缶ビールを指摘すると、ナマエちゃんは突然の一虎君の飛び火にふふっと笑いながら「助かります」と感謝を重ねた。こちらとしても願ったり叶ったりだから有難いことこの上ない。
オレが座っている向かいのデスクから粘着タイプの付箋を拝借し、ナマエちゃんはその辺に転がっていたボールペンで文字を書き込んでいく。チラ、と。さっきまで大事そうに抱えていた、彼女曰く『冷蔵庫に入れたい大きいもの』を盗み見る。
取っ手がついたどこか見覚えのあるシルエットの箱。冷蔵庫。二月十四日。サプライズが待ち切れないオレは、残念ながら鈍感になれそうにない。

「ナマエちゃん、それ、期待してもいい?」
「……秘密です」

そんな可愛い顔されたら、答えを言ってるようなもんじゃんか。あと三十分程度でペットショップの営業が始まるのに、来客用のドリップコーヒーまだあったかなぁなんて、だらしのないことばかり考えてしまっていた。





13:00
「……なんだこれ」

いつものように事務所の冷蔵庫を開けたら視界に飛び込んできた、謎の白い物体エックス。いったい誰の、と頭を回転させる前に、薄桃色の付箋に『ミョウジ 2/14』と書いたメモが目に入る。なんだナマエのかよ、と思ったのもつかの間、謎の物体エックス――もとい付箋が貼られた白い大きな箱の、上部にある持ち手の部分から僅かに中が覗けたものだから反射的に中身を確認すれば、オレはふたたび混乱することとなった。
ケーキだ。まんまるなケーキ。茶色のクリームが塗りたくられ、赤いイチゴがたくさん乗った、豪華で美味しそうなショートケーキ。プレートのような平たい固形物が見えるものの、どんなメッセージが記されているのかは分からず。
口うるさい上司がいないから冷蔵庫の扉を開けっ放しにしていれば、閉塞を催促するアラームが鳴り続ける。ピーピー、ピーピー。やかましいったらない。けれど、今はそんな些細なことどうだっていい。目の前にあるチョコレートケーキがなんのために、誰のために、ここに持ち込まれたのかが最大の問題だった。
つーかオレが入れておいたビールがテーブルに転がされてるんだけど。つーかさっき千冬にもナマエにも会ったのに断りの一言すらないんだけど。つーか今日って……。

「バレンタイン?」

ぽろっと口から零れ落ちた小さな独り言は、人工的な冷たい空気に溶けるように消えていった。
そうだ、バレンタインだ。今日は二月十四日。昼食と飲み物を買うために数十分前に立ち寄ったコンビニも、包装紙で綺麗に包まれたチョコレートを売っていた。どうして気づかなかったのだろう。
オレはナマエにチョコレートを渡すような親しい異性がいたという衝撃に目をまたたくことさえ忘れ、ただただ呆然とふるびた冷蔵庫の中央に鎮座する真っ白な箱を見つめる。チョコレートを用意しているのはそういうことだし、職場に持ち込んでまで告白する意思がある事実に眩暈がした。ナマエはただの同僚なのに。おんなじ店で働く仲間なのに。そのはずなのに。腹に鉛玉を喰らったみたいな気持ちになるのは、なんで。

「…………帰りてぇ」

でも働かなきゃなんない。
冷蔵庫の前でずるずると座り込むようにして蹲ると、項垂れた拍子に外し忘れていた鈴のピアスが耳元で鳴った。派手なピアスを外して、長ったらしい髪を結んで、首の刺青を隠して、指定のエプロンをつけて働かなければならない。オレはとっくに成人した社会人で、千冬が店で働いている、羽宮一虎という人間だから。





20:30
『CLOSE』の札を表に出し、本日のXJランドの営業終了。ただの月曜日にもかかわらず休日並みに忙しかったのは、入れ替え商品のセール日と新商品の入荷が重なったからだろう。ぐっと肩を回すと骨の小気味いい音が鳴る。力仕事で固まってしまった体をほぐす私の横で、欠伸を零した直後に羽宮さんがながながと溜め息を吐いた。
レジ締め、鍵の確認、消毒と清掃。退店前におこなう最後の仕事。それらを終わらせた途端にエプロンを脱ぎ始めた松野店長と羽宮さんを呼び止め、二人並んで仲良く事務所のソファへ腰掛けてもらう。肩を並べている二人の表情は対照的だった。からっと晴れやかな雰囲気で微笑む松野店長に対し、どんよりと暗い曇天のように浮かない顔の羽宮さん。もしかしたら今日の業務が大変だったから疲れているのかもしれない。日ごろお世話になっているお礼に渡したいものがあるとはいえ、帰宅を遅らせてしまった申し訳なさからさっさと本題に入ることにする。あらかじめ入れて置いた白い箱を冷蔵庫から取り出し、じゃあん、と中身のチョコレートケーキを見せるように言う。

「松野店長、羽宮さん、ハッピーバレンタイン!」

間。なぜなら笑顔の松野店長が「ありがとうナマエちゃん」と言った後、羽宮さんが無言のまま固まったから。
いつも男子中学生みたいなノリでちょっかいを出す羽宮さんに、私としては「仕方ねぇから貰ってやるよ」くらいの返しを身構えていたのに。私と、手元にあるケーキと。その二つの間で視線を泳がせている羽宮さんは、冷蔵品で指先の熱が奪われつつあるころに漸く口から音を発した。

「えっ…………、は?」
「……あ、もしかして、チョコ苦手でした?」

恐る恐るといった調子で口にした言葉は、思いのほか沈んでいた。こんなにも歓迎されていないことを考えると、私のなかで思い当たる理由はそれくらいだった。どうしよう、失敗した。以前、自動販売機で押し間違えたミルクココアを事もなげに飲んでいたから、チョコレートも食べられるものだとばかり。ちゃんと羽宮さんの苦手なものを確認しておけば、こうはならなかったのに。
だんだんと小さくなっていく私の声に対し、羽宮さんが慌てて叫ぶように言った。

「すっ、好きだけど! つーかなに、それ、オレにくれんの……」
「オレ、じゃなくて、オレたち、ですよ」
「千冬には聞いてねーよ! なあナマエ、もっかい言って」

数秒も経たないうちに調子を取り戻したらしい羽宮さんは、松野店長のどことなく刺々しい訂正を蹴っ飛ばし、ずいっと詰め寄るように私に顔を近づけてくる。鬱々として血の気のなかった表情は、すっかりと赤らんで健康的な色になっている。チョコレート苦手じゃなかったんだ、じゃあ、さっきの無言の間は……。次々と頭に浮かんで消えていく正解のない疑問はいったん置いておいて。

「羽宮さん。私のバレンタインチョコ受け取ってください」

正確にはケーキですけど、という私の声なんて聞こえないみたいに、羽宮さんは嬉しそうな顔をする。彼の羨ましいくらい大きな瞳が、ご機嫌にまたたく。まるで小さな子どもが母親に誕生日のケーキを独り占めしていいよと言われたときのようで、微笑ましさすら感じられた。
けれど、けれど。ケーキを作ろうと決めた当初から目論んでいた、私も食べたいから今からケーキを三等分します、なんて言い難いことをどうやって伝えようか考えながら、「コーヒー淹れるから手伝って」と部屋の隅から聞こえてくる松野店長の声に私は「はぁい」と返事をした。





「ナマエちゃんからのチョコ美味しかったですね」
「おー」
「……一虎君」
「なんだよ」
「勝手に落ち込んで復活したのはべつにいいんですけど、安心しちゃうのは早いんじゃないですか」
「……あ?」
「油断してると来年は一虎君だけ義理になっちまうかもよ」
「千冬、オマエ……」
「オレは譲らないんで」
「……上等だよ。来年吠え面かかせてやるから覚えとけよ」

ケーキの角の崩し方
22'0320

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