「なんで付き合わないの?」

いったい何度言われたのか正確な回数が分からないほど聞き飽きてしまった台詞が、頭の真ん中にこびりついている。





極彩色のまばゆい突き出し看板から発せられる派手な光で全身を照らされながら、既読が付いたままメッセージの返信がない液晶画面を見つめる。月末の金曜日、午後八時。約束の時間から三十分経つのに待ち人はいっこうに現れない。けれど、盛大な遅刻の原因は本人と無関係のところにあるのはなんとなく想像がついたから、私は自分が押した了解の意のスタンプを睨みつける他なかった。昼休憩に差し掛かった人が疎らなオフィスで冷めたコーヒーを啜っている最中、不意に送られてきた『七時半には行く』へ返した無機質なサイン。それ以上に催促のメッセージを送る必要なんてない。だって、どんなに遅れたとしても絶対に来てくれることは分かっていたから。
チェスターコートのポケットに携帯を持っていない左手を突っ込み、緩く巻いたカシミアのマフラーに鼻先を擦りつけたところで、薄手のストッキングにヒールを履いただけの足元を冷え切った夜風が吹き抜けていく。誰かを待つ時間を苦に思うことはないものの、寒さには耐えられないかもしれない。芯まで冷えた全身を強張らせながら真っ暗な空を見上げると、浮かんでいるのは弱々しく光る星ではなく、白い結晶が降り出しそうな分厚く重い雲だった。
タタン、タタン。後方から電車の走る音がこだまするたびに視線と意識を右へ左へさ迷わせる。実際にその音を発する車両に乗っていたとして、そんなに早く改札口を抜けられないのは分かっているのに、自然と待ち人の姿を探してしまった。そうして幾度となく不毛なことを繰り返しているうちに、視界の端で見慣れたグレーのロングコートが揺れる。

「悪い、遅れた」

次いで聞き慣れた声が届き、力んでいた肩が落ち着いた。かつかつとアスファルトを打つ靴底の音がリズミカルで、少なからず急いでいる速度でこちらへと近づいてくる。

「晋助」

その待ち人の名前を呼びつつ視線を上げると、彼は私の顔を見た途端にぎゅっと眉間に皺を寄せた。

「中で待ってろって言っただろ」
「外で待ってたい気分だったんだもん」
「……そうかよ」

恐らく小走りで駆けつけてくれたからだろう、いつもさらさらの晋助の前髪が少しだけ逆立っていて、そんな些細なことに冷え切ったはずの体温がほのかに上昇したような気がした。我ながら本当にチョロいと心配になる。寒さを誤魔化すように指先を擦り合わせる安直な暖の取り方をする私に対し、晋助は心底呆れたような表情をしてから左手首にある腕時計に目を落とした。

「九時半からだったよな。映画館入る前にどっかで軽く食うか。食いたいモンがあるなら……」
「お寿司がいい」
「このクソ寒いのに正気か?」
「え、駄目?」
「……べつに構わねェ」

希望を聞いておきながら渋々といった気持ちを隠しもしない様子の晋助に笑いつつ、一歩足を踏み出した瞬間だった。私がふたたび夜空を見上げたのと、同時に誰かが言った。「雪だ」と。
きざしはあったものの今朝の天気予報さえ見誤った突然の雪模様に、人々は悲鳴のような歓声のような声を上げて屋根の下へ駆け込んでいく。いちがいに雪と呼ぶには少々水気が多く感じられるそれは、容赦なく肌や髪を濡らしてなけなしの体温を奪う。どんよりと揺蕩う曇天から落ちてくる水蒸気の結晶なんて、コンクリートジャングルに住む人間にとって雨となんら変わらないただの悪天候だった。
ほうら、はやく、こっちへおいで。そう言わんばかりに男が手を取って促せば、女は照れ臭そうにはにかんで指を絡め返す。あちらこちらでそんな甘ったるい二人の世界が展開されつつあるのも、さっきまで温かかったはずの心臓がすうっと凍えてしまったのも、ぜんぶぜんぶ、みぞれ紛いの雪のせいだ。本当に安っぽい女で嫌になる。私には与えられない権利を易々と手にすることが出来る彼女たちが、心の底から羨ましくて仕方なかった。

「――ナマエ?」

いつの間にか足を止めたまま人混みを眺めていた私を晋助が呼び戻す。コートの袖口から伸びるその両手は、黒い革の手袋で覆われている。

「な、なに?」
「どうした。調子悪いのか」
「ううん、そうじゃなくて。……なんでもない」





リクエストに沿って創作寿司を提供する小洒落た酒房で食事を済ませ、その後に入った駅近くの映画館は夜にもかかわらず賑わっていた。敷き詰められたカーペットの上を、無人窓口に向かって突き進む。ほとんど一方的に「観たい映画があるから付き合って」と誘った手前、率先して自動券売機でチケット購入やら座席指定やらの手続きをしている間、晋助は所在無げにグッズ売り場の付近をうろついている様子だった。
大人二枚、レイトショー割引。青白い光を放つ機械から吐き出されたチケットを手に、ロングコートを脱ぎ終わって今度は手袋を外している最中の晋助に歩み寄る。

「レイトショーって混んでるんだ」
「金曜の夜ならこんなモンだろ」
「いつも土日の昼間に来るから知らなかった。だいたい友達と遊ぶときとか、デートのときとか……」

言いながら、失言だったことに気づいて尻すぼみになっていく。不意に藪をつつかれてあらぬものが飛び出す前に、私はさっさと話題を変えた。

「そういえば晋助って恋愛系とか結構観るの? 意外」
「は? 観る訳ねェだろ」
「え? だって……」

またしても言葉は最後まで続かなかった。場内アナウンスに従って進んだ先に待っていた係員に笑顔で迎えられる。「チケット拝見致します、五番スクリーンへどうぞ」と流れるような確認作業と共に告げられ、指示された薄暗い通路を粛々と歩いていく。そしてたどりついた先の、煌々と光る掲示板の前で止まった。チケットに印字されたタイトルと同じ文字が上映時間と共に白く浮かび上がっている。

「席どこだ」
「えっと……P列の十三と十四」
「最後列か」

チケットを買った私が先頭を切るのを遮るように、どんどん先を行く晋助の背を追いかけて緩い傾斜のある劇場内の階段を上った。座席は最後列の、丁度真ん中。ふかふかの椅子に二人揃って腰を下ろし、上映開始五分前なのに人が少ない静寂さにつられ、おのずと声の調子をひそめる。

「ねえ、なんで今回は観る気になったの?」
「なんだっていいだろ」
「いいじゃない教えてよ。映画始まるまでまだ時間あるし」
「…………」
「晋助ってば」

追求がしつこかったのか、とうとう無視を決め込まれる始末。あーあ、と心の中で落胆の溜め息を吐き、持ったままだったチケットをバッグのポケットへ押し込んでいると、小声ながらも通る低音が右隣から降ってくる。

「そんなに知りてェなら教えてやろうか」
「えっ、うん、教えて」

目もくれなかったおざなりな対応から一転、今度は晋助の口から直々に教えてくれると言う。素直に強請って、視線を送って。澄ました顔の晋助と暫く見つめ合う。けれど、ちっとも口を開く様子がなかったから再度問い詰めてやろうと思った、そのとき。

「好きな女に誘われたからだ」
「………………は、」

ふわっと照明の真っ白な光に幕が覆い被さるように、劇場内の明かりが消えた。口から漏れた吐息は大音量で流れ始めた春公開の予告映像やコマーシャルに呑み込まれ、チカチカと明滅を繰り返すスクリーンの鮮やかな色彩が身勝手に襲いかかってくる。何ひとつ入ってこない。耳にも、頭にも。こんなに凄まじい情報量で私のことを支配してこようと躍起になっているのに、それ以上の衝撃で脳天を殴られてしまったからだ。
顔色ひとつ変えない晋助は真っ直ぐに前を見据えたまま、そっと左手を動かした。混乱して固まっている私の右手の上から覆い被さるように、その手を置いた。冷え性のはずなのに、私よりほんの少し体温が高い。知らなかった。こまめに付けるようになった手袋のお陰なのか、単純に私の手が冷え切っているからなのか、それすら分からない。晋助は止まらなかった。ハリのある指の腹で骨の形をなぞるように撫でて、指と指の隙間を埋めるように絡めてくる。
あんなに嫉んで羨んでいたものが、私に触れている。

「嫌じゃねェだろ」
「…………そんなこと」

ある。全然、ある。
何度も何度も、言われ続けて頭の中でリフレインし続けている台詞に、返す言葉がない。
極彩色のネオンに似た激しい光が、不規則に私と晋助を照らしている。あと数分も経たないうちに上映が始まる、恋愛映画を観たかった理由がこれっぽっちも思い出せなかった。すっかり興味を失くしてしまった映画が終わった後、いったいどんな顔をすればいいのだろうと、回らない頭で必死に考えていた。

幕は落とされた
22'0320

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