※大学生設定


カンカン、コンコン。鉄製の何かが硬い何かに叩きつけられるような断続的な音で目が覚めた。果てのない夢路から連れ出してくれるはずの携帯のアラームは、確かに止めた形跡を残したままシンと静まっている。そういえば、向かいに分譲マンションが出来るから平日は工事の音がうるさいって千冬が言っていたっけ。じわじわと寝過ごしてしまったことを実感しながら、私は恐る恐る携帯の時計を見る。十時三十四分。ひんやりとした朝の空気はとっくに温められていて、遮光性のカーテンの隙間からポカポカと効果音が鳴りそうな陽光が覗いている。完全に寝坊した。
ワンルームにあるロータイプの大きなソファベッドで一緒に寝ると、大抵は寝入ったときと違うあらぬ体勢になっていることが多い。どうやら子ども体温らしい千冬が寝返りを繰り返すものだから、今だって、昨夜は私に引っ付いていたはずなのに背を向けて呼吸と一緒に体を揺らしている。まだまだ夢路をさ迷っている様子だ。やわらかな金色の隙間から見える、無防備なうなじにある剃り込みをジッと見て、ついつい誘われるように手を伸ばす。指先に広がる特有の触感に感動しつつ、三日前くらいに美容院に行っていたことを思い出した。剃りたては気持ちがいい。
のそのそと欠伸を噛み殺しながら起き上がってみると、千冬の手足が床に投げ出された挙句、ニットのカーディガンがくしゃくしゃに丸まっていた。千冬が一人で暮らしているこの部屋に毛布はひとつしかない。要らないって言っているのに有無を言わさず私に巻きつけて抱き締めるように眠りにつく恋人が愛しいから、本来であれば優先するべき家主が厚手の衣類を布団にしている可哀想な現状も甘んじて受け入れてしまう。私の体温で十分に温められた毛布を千冬のお腹辺りに乗せ、ギシギシと金具を鳴らして壁伝いにそっとベッドから抜け出した。
とりあえず着替えたい。昨日は替えの服を持っていなかったからほとんど下着みたいな格好で寝てしまった。部屋の隅にあるワードロープの中から手頃な服を引っ掴んで、頭からがばっと被って裾を下ろす。オーバーサイズのTシャツは意外と使い勝手がいい。本当は半袖のはずなのに肘下まである袖を捲りながら、通りすがり様にグレーのカーテンを開けて簡易キッチンに立った。
カンカン、コンコン。チチチチ、チチチチ。工事の音に混ざってコンロの着火する音が鳴っている間に、卵を二つ冷蔵庫から掻っ攫ってサラダ油を垂らしたフライパンを揺らす。ハムがあったらハムエッグに出来るんだけど、と理想の朝食を思い浮かべながらもそんな都合のいい食材はなかったので、大人しく殻を割ってドロッとした黄味と白味を鉄板の上に滑らせた。ジュウジュウと油と水の跳ねる音が加わって、白味が焦げつく香ばしい匂いに鼻をすすっていると、腰に剥き出しの腕が回されて背中が温かくなる。

「起きた?」

ほんの少し振り向いた先に、千冬の金髪が見えた。私の肩口に擦りつけていた額を起こし、次に尖った顎をちょこんと乗せる。

「八時には起きるつもりだったんですけど……」
「私もさっき起きちゃった。トーストはジャム? マーガリン?」
「どっちも」
「欲張り」

揶揄うように言えば「へへ」と千冬がはにかんだのを感じた。照れ臭そうに笑うその顔が可愛いことを知っているから、見られなかったのを心底残念に思う。べったりと背中にくっ付いた千冬を放置したまま食パンを二切れトースターにセットしていると、耳の後ろから「あ」と唐突な声が降ってくる。

「ナマエさん、今日の午前ゼミって言ってませんでしたっけ」
「……しまった」
「今からでも走って行きます?」
「や、寝起きでそんな元気ない。とりあえず電話してくるから目玉焼き見てて」
「はーい」

軽く身じろぐと同時に離れていった体温を名残惜しく思いながら、毛布に沈んでいた携帯を掴み上げて仲のいい友人の名前をプッシュする。コール音が鳴っている間にカラカラと窓を開けると、騒々しい工事の音が大きくなった。カンカン、コンコン、ガラガラ。うるさいといえばうるさいけれど、自主休講の言い訳を並べることを千冬に聞かれる恥ずかしさと比べたら、どうということはない。空気の震えを感じつつせせこましいベランダで一言二言交わして、大学生協の菓子パンと引き換えにノートのコピーを手に入れることにも成功し、鼻歌交じりに上機嫌で部屋の中へ戻ると朝食が出来上がっていた。折りたたみの小さなテーブルの上に、こんがり焼けたトースト、コショウをまぶした目玉焼き、申し訳程度の彩りのプチトマト、それから牛乳たっぷりのカフェオレ。

「カフェオレ作ってくれたの?」
「いつも飲んでるから欲しいかなって。もしかしたら甘さ足んねぇかもですけど」
「ううん、嬉しい」

言いながらフォークが並べられた位置に腰を下ろすと、あれ、と小さな違和感に気づく。私が食べようと思っていた黄味の破れた不格好な目玉焼きが、千冬の前にある皿の上に鎮座していた。

「あ、ちょっと、千冬」
「なんスか」
「潰れちゃった方は私食べるよ。半熟好きでしょ」
「ナマエさんだって半熟派でしょ。オレこっちでいいですよ」
「……すぐそうやって甘やかす」
「彼氏なんで」

満面の笑みで百点満点の答えが返って来てしまって、ぐうの音も出ない。いつだって、どんなときだって、惜しみなく私のことを甘やかして大事にしてくれるから、私はそろそろ千冬がいないと駄目になる気がしている。幸せだなぁ、なんて少々年寄り臭いことを考えつつ、綺麗で艶々の目玉焼きをフォークでつついて口へ運んだ。とろんと口の中で溢れた濃厚な黄味を堪能して、後から訪れたピリッとしたコショウの風味に舌鼓を打つ。いつも一人で食べている目玉焼きより、ずっとずっと美味しかった。
瞼を開くまでひたすら惰眠を貪っていたくせに、人という生き物はしっかりと空腹を覚えるものらしい。朝食なんだか昼食なんだか分からない食事をあっという間に平らげ、人肌くらいにぬるくなった甘いカフェオレを飲み干し、スプーンを咥えて苺ジャムの瓶の蓋を閉めている千冬を見つめる。

「千冬は今日講義あるの?」
「午後に二コマ。でもナマエさん暇ならサボるんでどっか行きません?」
「それは駄目。ちゃんと出て」
「……今日は家帰るんスよね?」
「え? うん」
「じゃあやっぱオレもサボります」
「こら」
「だってこんな可愛いカッコしてんのにこのままハイさよならなんてゼッテェ無理」

一瞬、何を言われたのか分からなかったから、茫然としてしまった。猫みたいな千冬の透き通った青い目が、真っ直ぐ私に注がれている。否、正確には私が着ている千冬のTシャツに。メンズサイズゆえに袖どころか裾も余っていて、結果的にワンピースのような着こなしになっているそれ。きょとんと目を瞬いてからTシャツを見下ろし、太腿にかかっている裾まで落とした視線を、だんだんと持ち上げて千冬へと戻していく。

「……可愛い? これ」
「めっちゃ可愛い」
「……だらしなくない?」
「そんな訳ねぇし、まぁ目の毒っちゃ毒だけど……」

至極真面目な顔つきで力強く褒めちぎった後、ぶつぶつとつぶやいた千冬が、ハッと気づいたように私の肩を掴んで詰め寄った。

「そういえばナマエさん、さっきそのカッコでベランダ出てたでしょ。今後は禁止。宅配とか新聞とか出んのも駄目ですよ」
「…………」
「返事して」
「はぁい……」

言いたいことを言い終えて満足したらしい千冬が重ねた皿を持って立ち上がった途端に、じわじわと照れ臭さが襲ってきて顔に熱が集中していくのを感じた。恥ずかしくて嬉しくて、ほんの少し悔しい。ネット通販よりウィンドウショッピングで欲しいものを見つけるから、宅配便なんて滅多に届かないくせに。小難しい文字の羅列よりテレビやラジオの音声に耳を傾けるから、新聞なんて実家を出てから買っていないくせに。途方に暮れるくらい有り得ない可能性に対して、突然いいことを思いついたように嫉妬しないで欲しい。同年代の男の子たちが尻込みしてしまうような、真っ直ぐで気持ちのいい言葉を紡いでくれる千冬が、私は堪らなく好きで胸をきゅんと高鳴らせた。
ちふゆ、と何回呼んだのか分からない名前をまた呼んで、「なんですかナマエさん」と朗らかに振り向いた千冬に昨晩の失態を詫びる。

「昨日寝ちゃってごめんね?」
「っ、アンタほんと、そういうとこですよ……」

小さな仕返しの意味を込めて首を傾げてやれば、千冬が持つ皿が揺さぶられてカチャンと露骨な音を立てた。私も大概わざとらしかったが、千冬も単純で分かりやすい。
私が「へへ」とはにかんでいると、千冬は皿洗いも歯磨きもほったらかしでつかつかとこちらに歩み寄ってくる。まっしぐらに突き進んで倒れ込んできた体を、受け止めずにそのまま一緒に床へと寝転がった。少し毛羽立つカーペットの繊維が肌に当たってこそばゆい。けれど、そんなことが気にならないくらいに嬉しくって楽しくって二人して肩を揺らしていたから、お腹を抱える理由なんて一つではないのだろう。降って湧いた午後の休日は毛布とパジャマを買いに行こうかと考えたものの、このままではまたなあなあで先延ばしになってしまうことは目に見えて分かっていた。

砂糖とスパイスと無敵な何か
21'1120

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