彼の親指が無意識に触れる場所には、かつて幸福の証が有ったのだろう。俺は実際に見た事は無いけれど、聞いた話では銀色の極々シンプルな物だそうで。
 高校生だった頃、普段は付けないんですか、と何気なく聞いた俺に、傷を付けると嫁が煩いからな、と彼は笑った。俺の知らない笑顔で、とても綺麗に。
 月日も経ち、俺は随分と長く承太郎さんといるのに、彼があんな表情を浮かべた事は終ぞ無い。もう、彼と家族を結び付けていたリングなど存在しないのに。美しく長い指は自由なのに。あの人の心は未だ、囚われている。



「承太郎さんのクセですよね、そうやって親指で薬指の付け根触るの」
 今日は互いに仕事が早く終わり、飯を食いながらテレビを観ていた。賑やかなクイズ番組の合間にだらだらと雑談を交わす。彼が一年前に日本に帰って来て、共に住み始めてから幾度と無く繰り返された光景だ。
 そんな中、呟いた俺の言葉に承太郎さんは不思議そうに瞬きを行い、自らの左手に目線を移す。 

「そんなに触ってるか?」
「うん。かなり」


 俺が最初に気付いたのは、つい先日のこと。当初は虫に刺されでもしたのかと思って眺めていたが、そういう訳でもないらしい。
 主に考え事をしている時や、本に集中している時なんかは顕著に見られた。人には様々な癖があるからその類だろうと気にもしていなかったけれど、ある日の何気ない行動でそうじゃない事を知る。


――その日はたまたま平日に休みが重なり、特別に用事もなく今のようにテレビを観てた。昼間だったから主婦向けのワイドショーだの変なドロドロしたドラマだのばっかりで、どちらかと云うと聞き流しつつ互いの作業に没頭していたと云う方が近いかもしれない。
 そして12時も半分過ぎた頃、腹が減ったと言い出したのはほぼ2人同時だったと思う。ちょうどテレビで料理番組が始まった影響もあったのかもしれない。その日作られていたのは極々オーソドックスな鍋焼きうどんで、丁度材料もあったし一緒に作ることにした。


 何を入れるかを簡単に話し合い、2人で台所に立った時気付いたのだ。承太郎さんが手を洗う寸前、右手で薬指の根元に触れたことを。それが、指輪を外す仕草である事を。勿論、そこには何もない。承太郎さんは自分でも驚いたように指を見下ろし、ほんの一瞬だけ決まり悪げに眉を寄せた。
「どうしたんですか」
 そう訪ねる俺に曖昧に言葉を濁しすぐに手を洗って調理に取り掛かったのだけれど。ああ、結婚指輪があったのかと悟ってしまった俺の心臓は煩い程にざわめいて、何度も深呼吸を繰り返した。


 あの日以来気をつけて観察していると、実に良く触れていて。無意識の内に有りもしない指輪を外そうとしていたのはあれきりだけど、今のように親指を薬指の付け根に押し付け、軽く引っかくのは何度も見た。
 それを見る度に、俺は胸の奥が締め付けられる。


「お前は良く俺の事を見ているな」
 唇を吊り上げた、少しだけ意地悪そうな笑み。
「そりゃあ承太郎さんの事が大好きですから」
 軽口を返す俺に承太郎さんは呆れたように眉間に皺を寄せ、またテレビへと視線を戻す。どうせ下らない冗談だとでも思っているのだろう。俺はそれ以上深く掘り下げたりはしない。これまでずっとそうだっだし、これからもそのつもりだ。

 自分で云うのも図々しくはあるが、俺のスタンドはとても優秀で、どんな傷でも瞬時に完治させる。跡も残らないし、痛みが後々出て来るという事もない。でも、それは表面上だけの話で、心を修復だなんて出来やしない。いっそ承太郎さんの左手薬指に大きな傷でもあったなら簡単に治せたのに。治して、俺がそっと包み込めたのに。冷たく疼いているであろうそこを。

「けど、冗談抜きであんまり爪でガリガリしてると切れちゃいますよ」
 俺が云えるのはそんな陳腐な台詞しかない。
「んなにヤワな訳ねーだろ」
「そりゃそうでしょーけど」
 本当なら意地でも止めてやりたいのに。そしてもし叶うなら、新しい指輪を俺自らが填めてやりたいのに。
「お前は逐一気にしすぎだ」
 先程の意地悪そうな物じゃなくもっと柔らかい笑顔を向けられて、俺は肩を竦めて見せる。
「そんなことないっすよ。大事な甥っ子を心配するのは当然でしょ」
「まだ抜かすか」
「優しい叔父さんですから」
「お前なぁ…自分で云う奴があるか。バーカ」

 下らない応酬を繰り返す承太郎さんはいかにも楽しげで。ああ幸せだと思うけれど、同時に数年前の綺麗な表情がチラついて苦しくなってしまう。相手に悟らせる程に子供ではないが、それがこの関係を停滞させてしまっているのだから皮肉な物だ。


「あんまりふざけてるとスタープラチナでブン殴るぞ」
「うわぁぁああっ、家庭内暴力反対!」
 スタンドを背後に出現させ、拳を振り上げた様を見て俺は悲鳴と共に承太郎さんの隣から逃げ出した。
「ふん、じゃあ許してやるからコーヒーでも煎れろ」
「何で俺心配したのに怒られてんの!?」
「…何となく」
「ヒデェ!」
 横暴な物言いに抗議をしてみるけれど逆らえるはずもなく、俺は渋々と云った体で腰を浮かせた。やれカップは一度温めろだの、ドリップはゆっくりやれだのの注文を聞き流しつつキッチンに向かう。湯を沸かし色違いのマグカップを用意して、手早く準備を。


 云われた通りにコーヒーを煎れ芳ばしい香りをさせながらリビングに戻れば、承太郎さんはテレビに飽きたのか俺には一生縁の無いような分厚い本を広げていて、俺は息を殺しながら佇む。
 活字を追う瞳。緩やかに呼吸する肩。ページを捲る右手。そして、また左手の薬指に触れる親指。条件反射の様に疼く、俺の心臓。


「…何だ、そんな所に突っ立って」
ふと気配に気付いたのか承太郎さんは怪訝そうに俺の方を振り向いた。
「…いいえ。何でも。コーヒー、どうぞ」
「ああ。ありがとう」
 隣に移動しカップを差し出すと、彼はまたは本へと集中し俺もコーヒーを啜り始める。けれど味など分かる訳もなく、熱さだけしか感じなくて。
 随分と巧く煎れられたな、と驚いた声を上げる承太郎さんに、もっと褒めてくれと反射のように返しながら酷く泣いてしまいたくなった。



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