それは、転機

暗闇の中佇む一つの人影。
それはひどく儚く美しかった。
そっと手を伸ばすも、触れる寸前
「私は貴様の何なのだ」
それは拒絶する様に掻き消えた。
お前は俺のだろう?
しているんだ…
なあ頼む、泣くな…


「み、つ…」
目を開ければ視界には木目の浮いた天井が映る。
「残念だったな、小生だ」
そして官兵衛殿が俺を覗き込んでいた。
「ああ………官兵衛殿」
何故俺の屋敷に彼が居るのだろうと思ったが、ふと思い出す。そうだ倒れたのだった。
横になったまま少し辺りを見回せば、ああ矢張り見覚えがある。
官兵衛殿が連れて来たのだろう、此処は医務室だった。
「まったく…驚いたぞ。あ、吐いたモンは片付けておいたからな安心するといい」
「さすが不運。…そんな所に出くわすとは」
あの女を見て、気分が悪くなって…そして。
吐いたせいか喉の奥がひりつく。
「礼を言ったらどうだ!…ま、こんなに弱った壱矢殿を見る機会は滅多に無いからな、珍しくツいてたさ」
「そんなモンで喜ぶとは…随分安いツキだな」
身体を起こせば官兵衛殿は、吐き気は無いか痛みは無いか、と訊ねてくる。
俺が何か悪い病とでも思っているのかね。
無い、と答えれば安堵した様子を見せ、それから真面目な表情を作ってこちらを見た。
「…真剣な話し、お前さん何があった」
「何でも無え」
本当に話せるような出来事は何も無かった。
ただ、天女の異常さを改めて突き付けられただけだ……説明しても伝わらないだろう。
「今回の事だけじゃあない…ここ最近碌に休めてねえんだろう?何に悩んでいるんだ」
「官兵衛殿…お前、お節介とよく言われるな?」
茶化すように言うも、官兵衛殿は眉間に皺を刻んだままだ。困った、困った。
困って笑えばより一層皺が濃くなる。
「はぐらかすな。天女の事か?みつの事か?」
「何故そこにみつが出る。……世話になったな、それでは失礼する」
この男には言い当てられたくない事ばかり言い当てられる。
これ以上はと、さっさと部屋を立ち去ろうとしたが、
「なあ。お前さんもう少し好きなように生きたらどうだ?」
それは叶わなかった。
官兵衛殿が俺の腕を掴み引き留める。
「意味が、分からない」
「お前さん、一体何に遠慮している、誰に遠慮している」
ぐ、と手に力が込められた。
「小生には壱矢殿が自分から不幸を背負い込もうとしているように見えるぞ」
それは言い聞かせるように優しく厳しく。
「官兵衛殿には俺は…そう見えるのか?」
黒田官兵衛という男は不思議な男だ。何故この男は他人に身を尽くそうとするのだろうか。
関係の無い他人の事なのだから放って置けば良いのに。
ぼんやりと掴まれた腕を眺めていれば、男は慌てて手を離した。
痛かったか、と聞いてくるのでいや、と短く答える。
「なあ、壱矢殿」
居住まいを正した官兵衛殿、その前髪の隙間から真摯な目が覗く。
「死んだ人間に遠慮してちゃあ……生き辛いぜ?」
言われて初めて気付いた。
忘れようとしても逃げられぬ、消そうとしても消えてくれない罪悪感がずっと有った事に。
「…さすが、慧眼だな」
この男は俺も知らない俺の心を容易く暴く。
「そう言ってくれるのは壱矢殿だけさ」
不貞腐れた様に言う官兵衛殿が可笑しく、つい笑いが漏れた。
「なあ、官兵衛殿…あいつを殺してしまった俺が幸を望めはしねえだろ?」
肯定される事を願って口に出してはみたが、官兵衛殿には一つ頭を振られた。
「そいつはお前さんを怨み妬み憎み許さねえ…そんな人間なのか?」
「…違うさ」
あいつが今の俺を見たらきっと、怒って殴ってそれから馬鹿だね、と笑うのだろうな。
「だったら後は壱矢殿が自分を許すだけだろうが」
穏やかな口調で諭す様に言われ、何となく居心地が悪い。
「それが簡単に出来たら苦労は無えよ…だが、官兵衛殿…かたじけない」
礼を言えば何故だか心が軽くなった気がした。

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