それは、天下への

「しかし、あの魔王がねえ…」
「魔王も人だったという事だな」
俺の独り言に言葉が返る。
「…清正殿か」

俺達は今、近江小谷城へと侵攻する道中だ。
織田信長が明智光秀に弑されて六日の後であった。
「壱矢殿は信じられねえか?」
清正殿は馬首をめぐらせ俺に並ぶ。
奴は馬上にも拘らずくるり、と長柄を回しそれを担いだ。
「信じられないね…強くて悪逆で…あの男にも「死」が有るとは到底…。一度…傭兵の頃に織田方と戦ってなあ…命からがら逃げたよ」
「逃げたんか」
むっすり顰め面に睨まれる。
大方、武士が逃げるなど…とか思っているのだろう。
「逃げたさ。あんなの相手にしてられるか、あれが魔王と呼ばれるのがよく分かった」
正に焦土、正に地獄。
あれに遭えば死が降り掛かる。
あの時を思い出し、俺は知らず手綱を強く握り締めていた。
「しっかしなあ…浅井軍八千にこちらは三万五千とは、やり過ぎじゃねえかな」
清正殿は珍しくも愁い顔で呟いた。
「半兵衛様の考えは聞いただろう?」
「聞いたがー…魔王の妹を討って魔王時代の終わりを世に知らしめる、ねえ…」
奴は何とも不服そうに言う。
無論表立っての開戦理由は他に有るが、ようはそういう事だ。
「何だ納得いかんのか」
「いやあ、あの美姫と名高いお市の方だからなあ…どうせなら嫁にしたい」
何を渋っていたのかと思えばこの男は…。
しかし、市姫はそれこそ正に「傾国の」美女だったってワケだ。
「…全く…呆れたものだな」
「壱矢殿はそう思わねえのか」
魔王の「妹」というだけで攻め込まれる女を哀れには思う。
「…思わないね」
胃の腑に重いものが落ちたように苦しい。
こんなもの気のせいだ、みつに会いてえ。
「ちぇー、奥が居るからっていい気になりやがって」
俺の様子をとくに気に留めず奴は拗ねた風に口を尖らせる。
大の男がしていい事じゃねえ、気持ち悪いな。
「誰が何時、いい気になったって?大体さっさと身を堅めりゃいいじゃねえか、何人も女作って遊んでんだからよ」
「そ、それにしても壱矢殿もいい年なんだから子の五、六人拵えておかなきゃ!」
清正殿を睨んだり、からかったり。そうすれば少しだけ気が紛れた。
「あ、それとも奥が閨を共にしてくれんか?…奥がみつではなあ、それも仕方ねえか」
「人の奥を貶すな」
「わ、わ!怒るなって!冗談だよ、冗談!!」
だからこれを退けてくれ、と清正殿の言葉に俺は渋々眼前に突きつけた刃を鞘に戻した。
「だったら側室を持ちたいとは思ってねえのか」
…はあ、こいつの相手は疲れる。もう無視だ。
他にも益体も無い事を言ってきたが俺が取り合わないとみるや奴は黙る。
暫くは静かにしていたが、
「あーあ、早に戻って遊女屋行きてえー」
「…腎虚で死ね」
突然に馬上で叫ぶ男に俺は呆れの溜め息しか出なかった。

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