末に結う 

ここは何処であろう、暗い暗い闇の中であることは確かだ。
昼か夜かで言えば夜だろう。瞼の裏にも分かる昏い闇が降り掛かっている。つい先程まで居た黒と違い草と土の濃い匂いを感じて、彼はここがあの檻の中ではない何処か森であることを知った。
何故、どうやって。
そんな考えは彼の中に僅かも生まれず、ただ澱みを吐き出し冷えた夜で肺を満たす。久方ぶりの生きているという実感が、重みが、体を駆け巡り指先まで満ちていく。
ゆっくりと醒め始めた頭は柔らかな何かに預けられていると認識する。それはとても温かで微睡みを誘うような優しさをしていた。
この闇に抱かれたまま永い眠りについてしまいたい。そう思えるほどに優しく離れ難い。
が、彼はそれをなんとか振り切り瞼を開いた。
まず目に入った天頂は深く色付いた濃紺で、そこかしこに散りばめられた星の忙しない瞬きは音の鳴るようだ。きら、きら、降り注ぐ幽し光が木立ちに当たって葉擦れを起こしていく。大部分を黒色に沈めたまま揺れる輪郭は一つの生き物のようだが、不気味というよりむしろ神秘的ですらあった。
そして見下ろしてくる仄かな笑み。
闇を纏った、しかし白い百合に似た女だった。
ほっそりとした指がたおやかな動きで彼の髪を梳いていく。
「第五、天」
何故の言葉が今度は浮かんだ。
何故この女が居るのか、何故あやすように頭を撫でてくるのか、何故笑っているのか。
もしや闇が見せる幻かとも思ったが、自身がこの女の笑い顔を作り上げる程想像力豊かではないと思い直す。
伏した目の陰鬱な表情で対い蝶の近くに佇んでいる様子しか彼には覚えがない。
「いいえ。市は第五天魔王じゃないの、市は市よ」
笑みを湛えたままに言い聞かせる女は子を愛おしむような眼差しで、まるで母親そのものの姿である。
柄にもなく思う、
「い、ち」
美しいと。
縺れながら声にした名は唇によく馴染む。
あまりにも嬉しそうな顔を女がしたからか、それとも夢心地な手付きのせいに違いない、彼は何故と問うことを放棄した。
「いち、市…市……刑部が、刑部が…」
「ええ ええ」
「刑部が、」
「うん」
ひそりとぽつりと零す音を拾い上げて、一つ一つに女は相槌を打つ。
静寂を湛えた眸に映る男は何処か幼い表情をしていた。
吐息よりも密やかに、
「生きろと…私に…」
「そう よかったわ」
告げた言葉に即座に声が返る。
良かったと、この女はそう言うのか。
それを不可思議で奇妙な、何ともむず痒い心地で彼は聞いていた。
そして同時に胸の奥にじんわりと温かなものが宿るのを感じた。
焦がすほど激しくはないそれは、暗夜を行く者を優しく導く焔の揺らめきだ。ともすれば消えてしまいそうな程微かで、それでも安らぎを齎す確かな光。
どんな表情を形作ればいいのか分からない。歯を食い縛って涙を堪えればいいのか、それとも切ないほどの愛おしさに目を細めたらいいのか。
「市」
「なあに?」
聞き返す女の凪いだ笑みは、何故か亡き人達を思い起こさせて彼の胸を緩く締めつける。不思議なことにそれは少し甘かった。
自身でも何と言うつもりで口を開いたのか分からない。
何も考えず、ただ思うがままに彼は込み上げる思いを言葉に変える。

「感謝する」

女の目を真っ直ぐ見詰め放った言葉は生に満ちて、きらきらしく白銀に光り輝いていた。

(9/9)
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