―みつなり


不意に聞こえた気のせいのようなぼんやりした声。
彼はふ、と全くの無意識に目を向けた。
そこには湧き立つ影法師がゆらゆらと覚束無い足取りで立っていて、彼の様子を窺っているようだった。
周囲の闇に雑じり合うことのない黒は誰とも分からぬ形を成してはまた崩れる。
目が嵌まる筈の洞には赤い怪しげな光が点って彼をじっと見ていた。
ひうと何処からか隙間風のような音がした。
(ああ、違う。これは私の、)
上手く吸えない息に視界が揺れる。
それは、ただ、じっと彼を見ていた。
「や、めろ、見るな……私を、」
脳裏に、肌に、蘇る、這う指の熱さと、
「こんな、穢れ、た、わたし、を」
躰を刺し貫く雄の猛り。噎せるほどの精の臭い。
血の滴るほど皮膚を掻き毟りたくなる衝動に一つ身震いがする。
それから強烈な嘔吐感。
口元を強く押さえれば呻きが零れ落ちた。
「みるな、」
ぞろりと足音を肌に感じる。
拒絶と呼ぶにはか細い懇願も意に介さず、不明瞭な腕が彼を求めるよう持ち上がる。
「ふれるな……ッ」
「ぬしは純なる清らのままよ」
やけにはっきりと聞こえた言葉とそれは全くの同時であった。
するりと優しく包まれた両頬、合わせられた額。
まさに幼子に言い聞かせるような格好で何かが誰かが彼を温もりで包む。
苦いような軟膏の匂いを纏わせたそれを、近過ぎて焦点を結ばぬ顔を彼はただ驚きに見た。
闇夜に浮かぶ月の目が間近にあって、
「……刑、部……?」
「あの頃より変わらぬきらきらしいしろがねのまま、望月の如く我を照らしておる」
かさかさと、木枯らしに踊る朽ち葉のような、擦れた響きを持つ声で穏やかに諭す。
にいと細めた目の中ではよくよく見知った賢しげな光が瞬いていた。
ああ。
彼はひっそりと胸中で嘆息する。
合わせる顔など無いのに、
(私が死に追いやってしまったのに、)
それでもこんなにも嬉しく思ってしまうのは何故だろうか。
じわりと滲む涙は水面の揺らぎのように震える。
「三成」
「…刑部……刑部、すまない」
「三成よ、我はぬしの詫び言を聞きに来たのではない。伝えたい事があってナ…ぬしを此処へ呼んだ」
第五天よ射干玉よ、よう成してくれやった。
続けてぽつりと紡がれた言葉は恐らく彼に聞かせる為のものでは無かったのだろう。
何の裏も企みも含みも無い労いに、こんな声も出せるのだなと僅かに目を見張った。
指が濡れたままの彼の頬を拭う。晒し木綿のざらりとした感触は肌に瑕を付けぬようにと優しく触れていた。
ゆるゆると。彼の輪郭を確かめるように手の平は動いて、しばらくの間そうして、ようやく意を決したか、
「伝えたい事があって、ぬしを此処へ呼んだ」
それは口を開く。
「我、はナ、ぬしと共に、在れて幸であったと…ソレを伝え、たかった」
途切れ途切れのそれは涙こそなかったが間違い無く嗚咽で、呼吸を整える荒い息を聞きながら彼は急かすでもなく待った。
「ぬし、の傍らにおると、病の無い、まるで唯のヒトであるよう、思えた、ぬしの側なら、怨嗟も憎悪も、暫しの間忘れていられた、ぬしと友に為れて、我は幸で、あった……」
「私、のほうこそ……ッ」
その先は言葉にならなかった。
息の塊が咽に詰まって声が出ない。代わりとばかりに大きな一粒が眦から流れ落ちた。
「ヒヒ、その言葉だけで十分、イヤ十二分よ。……これで心置きなく我は逝ける」
闇にも負けぬ白銀をくしゃりと一つ撫で、それは名残を断ち切らんとばかりにすっと立ち上がる。
直ぐにも陰がその身を浸す。足先からぞわぞわと這い上がった暗闇に削られて、尚侵蝕は止まらずそれを呑み込んでいく。
縋って伸ばした手は空を切り靄の一欠片とて手の中には残らない。
「ッ、待てッいくことは」
「……。我は、きっとぬしにとり酷な事を言う」
「許さない…ッ」
また一つ涙が睫毛の先から零れ落ち、闇の中、一条の光すら無い筈の中で激しく煌めいて燃える。
「ぬしは生きよ、我の分まで生きよ」
そして温もりは消えた。

(8/9)
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