人面獣心

西軍総大将は敗走後捕らえられ、後日六条河原にて斬首された。


それが公の発表だ。
しかし本当は違う。
これは誰も、ただの一人も、知らないことだが西軍総大将・石田三成は江戸城奥深くの座敷牢に捕らえられていた。
それは徳川家康の手によるものだ。
金襴銀襴螺鈿に玻璃。目に煩いほどの贅を凝らした品の数々。
つるりと滑やかな花器に匂い立つ大輪。取り寄せた物珍しい南蛮の品。徳川が彼に似合うだろうと持ってきたのは色鮮やかな女着物。
それらが置かれたそこは牢と呼ぶには相応しくなく豪奢である。
だが唯一の出口であり入口である観音開きは大仰で、閉ざされる時は―即ち徳川が中に居ない時は―鉄の閂が掛けられるようになっていた。
そこは確かに牢であった。
しかし、だ。
そんなものは無くとも彼はそこから逃げ出さないだろう。
逃げ出せないだろう。


それはまだ大戦が終わって幾許も無い時のことである。
彼が目を覚ましたのはその部屋だった。
その時はまだ青々とした畳の真ん中に布団が敷いてあるだけのがらんとした部屋だった。
体は重く、動かせそうもない。意識だけがくっきりとしてさ迷う。
無論彼は今が何時でここが何処で己が何故生きているのか分からない。
静寂が煩いこの部屋で答える者の居ない疑問を遊ばせているだけである。
唯一と言っていいほど正しく理解していることは、
(私は負けた)
深い絶望のみ。
敗軍の将が生きながらえている理由といえば敵将―徳川家康―がそうさせたからに違いないだろう。
何の理由があってだろうか。
まさかまた『絆』などと虫唾の走るような綺麗を告げる気だろうかと腹の底から怒りとそれ以上に酷い疲れが湧いた。


それからまたしばらくの後である。
傷は癒えはじめ褥から身を起こせるようにはなっていた。つまりはほとんど状況は変わっていないという意味だが。
この間彼が顔を合わせた者といえばただただ義務的に具合を見る薬師かむっつりと押し黙って彼の世話をする女中くらいなものだった。
「やあ、久しぶりだな三成」
彼の前にようやく顔を見せた男は変わらず、見る者の目を潰すように眩い笑みだ。
ぎりぎりと歯軋りをすれば治りきらない傷が痛む。
が、彼にとってはそんなものどうでもよく。
胸の裡を灼く激烈な憎しみとこの男に生かされているという事実に気が狂いそうになって、掻き毟るよう畳に爪を立てた。
そんな様子を腹を立てるでもなく宥めるでもなく男は笑んで見ている。これを観する者が居ればひやりとするに違いない光景だ。
幸いなことに、不幸なことに、この場には彼と男の二人きりであったのだが。
なぜわたしをいかした、彼は堪らず疲弊した乾いた声で呟く。
「お前に見せたいものがあるんだ」
答えを与えず、男は好きに語る。
ごとり。
投げ渡されたそれは水晶の玉だった。両の手の平でも包みきれないほどの大きさだ。
転がる数珠―彼はこれが数珠であることをよく知っている―へと恐る恐る指を這わす。冷たい。
これが持ち主の手にあった時は仄青白く光を放っていたものだが、今や見る影もなく罅割れ鈍色に曇っている。
残念だが首は見つからなかったよ。笑う男は得体の知れない化け物に見えた。
「刑部は死んだ。これでお前はワシだけのものだ」
男が言って彼を抱いた。
骨がきしきしと鳴るほど強く押さえ付け、抗えば殴る。
独り善がりの感情に吐き出す精、それは悍ましい自慰行為だった。

「お前がワシに楯突かなかったら、徒に兵を失うこともなかったのだがな」

呪詛を吐き出し、

「お前が早くにワシに身を捧げていれば、刑部は死なずに済んだかも知れないのになあ」

殺すと喚き、

「よく聞くんだ三成、」

泣いて、

「お前が、豊臣を滅ぼしたんだ」

許しを請うても止められない行いに彼の危ういところで保っていた精神は壊れた。
そして今。
「三成、今日も美しいな」
自ら命果てることも出来ぬほどに精神の均衡を崩した彼は、こうして日がな一日人形のように静かに座っているだけだ。
もしや本当に人形では。そう思わせるくらいに静かで無機的である。
ゆっくりと瞬きを繰り返す動きや微かな呼吸で上体が僅かに揺れる様がそれが人であると辛うじて知らしめる。
「本当に美しい。…愛しているよ、三成」
喉がひくりと震え、ほんの僅か唇が戦慄く。


たすけて、ぎょおぶ


微かに覗いた心は音になることなく消えた。

(3/9)
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