無明

小早川秀秋は焦っていた。
焦り、縺れそうになる足をなんとか動かしていた。


関ヶ原では己の西軍への裏切りが大きな要因となって東軍の圧倒的な勝利になった。これは間違いない。
しかしながら一度は西軍へと籍を置いた身。
「どうにかして三河殿の信を得なければ命すら危ういでしょうね」
彼の信頼する僧籍の男が囁いた。
事故死に病死、やりようはいくらだってある。
兎角死ぬのは恐ろしい。
「い、家康さん!」
探し人が、居た。
殺し合いの地を臨む高台に立っていた。
沈みかけの陽がその頬を赤く照らす。
一体何を見ているのか、何を思っているのか。余人には推し量れぬ無の顔でただ佇んでいる。
見つけられたことへの安堵より先に、体の芯が冷えて手指が震えるような不安感が小早川の身を襲う。
おそろしい、という気持ちかも知れない。
それはきっと間違いだ。小早川はそう考えを打ち消す。
唯一といっていい、ぼくに良くしてくれた家康さんをそんな風に思うなんておかしいよ。
湧いた感情を押し込めるかのように彼は何時もよりも更に身を縮こまらせた。
「あ、あの……」
「金吾?どうしたんだ」
「あ、あのねえ…明日は佐和山城を攻めるんでしょ?そ、それで、」
「うん?言ってみろ金吾」
呼ばれた名に顧みる男は常と変わらぬ朗らかな笑みで少しばかり緊張が解ける。
絡まる舌で苦心しながら紡ぐ言葉は力強い声に促されてどうにか形になっていった。
ほろ、ほろ。
「ぼっ、ぼっ、ぼくの軍に任せて欲しいんだっ」
こんぐらがった言の糸はようやく、とうとう、紡ぎ出される。
きょとりと。予想もしていなかったとばかりの様子で徳川はその言葉を真正面から受けた。
「うーん…そうだなあ…」
悩む素振りを見せる徳川にやはり信用の置けぬ者だから駄目なのかとひやりとした汗が流れる。
裏切りという名の泥は拭うことすら許されぬのか。
その泥は自身をずぶずぶと暗い地の底へと沈めていってしまうのか。
翳る陽のせいばかりでなく目の前が暗くなっていく。
「お願いだよ家康さんっ」
「…うん……なら、任せよう!せっかく金吾が申し出てくれたのだからな」
縋る小早川に絆されたか哀れに思ったか。
まさかこれが戦の相談とは思えぬ明るさで徳川は申し出を受け入れた。
「ただし、」
「…た、ただし?」
ほとんど沈んだ陽は男たちの顔を照らしきることは出来ない。
見るものを安堵させる穏やかな目は今は暗い淀みに没しており、そのせいか小早川には目の前のそれが見知らぬ者のように見えた。
聞き返す声が震えてしまう。
聞きたくないのに突然の難聴になることはなく、
「皆殺しにしろ」
それはやけにくっきりと耳の奥に染みついた。
笑みを浮かべたままの徳川に小早川は否定しようのない強い恐怖を感じた。
微温い風が強烈な死の臭いを運び、引っ繰り返りそうになる胃の腑を危うく宥める。
「三成が心を預ける相手が居ないように…親類縁者城兵女中に至るまで一人として残すな。それが守れなかったら…分かるな?」
小早川は壊れた絡繰りのよう、ただ何度も頷くしかなかった。

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