女と蝶

ここは何処であろう、暗い暗い闇の中であることは確かだ。昼か夜かで言えば夜だろう。
ふらりふらりとさ迷う彼女にとって歩む地の名前に何の意味もありはしなかった。


女は逃げている。追う者の居ない逃亡者だった。
闇を呑み込む病みから逃げていた。
行く先は分からないが、何処から来たのかは分かっている。
せきがはらと言う名の戦だ。沢山の命が失われたそこは、墓場で、彼岸で、暗く寂しい場所であった。
闇から何もかもを奪い焼き尽くす光、それが恐ろしくて哀しくて彼女はそこから逃げ出した。
ひいらり、ひいら。
気付けば道行きの同行となったそれは彼女を導くものなのか、はたまた根の岸へと誘うものなのか。
…どちらでもいい、ひとりではないことに女は心を安らかにしていた。

ちょうちょ、しんぱいなのね

黒く、そして淡い紫の光を散らしながらひらひらと舞う蝶を見つめて女が呟く。
ぽつりとした小さな音は静寂に染みを付けたがすぐに消え失せた。
女の脳裏に蘇るは二人の背中。
刃のように真っ直ぐで、そして玻璃のように脆い闇色。
禍のように歪で、しかし沼のように知識の深い紅い蝶。
仲が良かったわけでも、むしろ深く知っていたわけでもない。
ただ女は好きだったのだ。
二人がお互いを気遣い見せる無意識なあの目が、けして真っ直ぐには言葉にしない小さな優しさが。
故に、蝶が死に闇が囚われたと聞き思わず涙した。
第五天と奉られて望まぬ戦に駆り出された時ですら泣かなかった女が泣く。
誰かを想って流す涙はなめらかな肌に白く映えて美しかった。

うん…うん…わかったわ

指に止まらせた蝶に女はそっと頷いてみせた。
美しく、儚く、やわらかな笑みを浮かべて女は声無き願いを受け取る。


もう にげるのは、おしまいね


蝶は安堵したようにひらりと羽を一つ動かし、夜に融けるように消えた。

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