手向く花の名は

「お市殿!…良かった、無事だったんだな」
徳川は訪ねて来た女を心からの安堵の笑みを浮かべて迎えた。
さあと促す男の手も意に介さず、女は何処か遠くを見つめるような茫とした目で美しくそこに在った。


きしと板張りを踏む音は男のもので、女はその後ろを楚々とした身の熟しで静かに続く。
日ノ本を二分にした戦いのあの時に見たのが最後。
西軍軍師のあの男の横に立っているその姿が最後。
気には掛かっていた。
死んだとも聞かなかったのでもしやと願っていた。
こうして生きて会えたことを喜ばしく思う男の気持ちは確かに偽りではない。
ただ、探そうともしなかったことも事実なのだが。
それが意味するところを彼自身分からないでいる。そもそも気付いていないことは分かりようもなかった。
故に今、女と再び会い見えたことを男は純粋に喜んでいる。
「ねえ、光色さん…」
うっかりとしていれば聞き漏らしてしまいそうな幽き呼び掛けに顔だけで振り返れば女は足を止めていて、男は改めて体ごと向き直る。
「何だい?お市殿」
「市ね、おねがいがあるの」
「言ってごらん?」
努めて優しく。儚げな彼女が怯えてしまわないようにと。
ことりと首を傾げる女はひどく可憐で無垢だった。
ほんのり憂いが烟る双眸を向けられれば、玉の枝を求め東の荒海に漕ぎ出すことだって出来よう。
男はこの美しく、そして不幸な女の願いならば力及ぶ限り何でも叶えてやろうと思った。
そう思うくらいには彼女の境遇を嘆いていたし哀れんでもいた。
ただしそれは、
「市を闇色に会わせて」
あの美しく哀れな月のような彼―女のいうところの闇色―に関わらない範囲でならば、の話しであった。
「な、にを」
表情が剥がれる。
穏やかさと強さを備えた笑みの下からは困惑と警戒が覗く。
「…何を言っているんだお市殿。三成はもう死んだ、いないんだよ」
諭すように出した言葉は思いの外硬く、多分に緊張を孕んでいた。
じ、と恐ろしいほどに真黒な目に男はひどく安定を欠く。
突っ撥ねようともただ静かに立つ女は深い海のような黒で見つめて、それがとても恐ろしい。
「 あわせて  ね? 」
「三成は、みつなり、は…」
譫言のように彼の人の名を呟いて男は無意識に二歩三歩と後退った。
嘘とも呼べぬ拙いそれを暴き立てるよう、女はずいと男との距離を一歩分だけ詰める。
射干玉の艶めいた髪はふわりと広がりまたあるべきところへと落ち着いた。
「やめてくれ…ッ。ワシと三成の邪魔をしないでくれないか……」
「あなた、かわいそう」
鈴を転がしたような透明な音色は甘く、
「あなたにはなにもないのね」
そして確かな冷たさを孕んでいる。
不意にひら、と黒いものが徳川の視界を掠めた。
視線はそれへと引き寄せられる。
黒い翅の蝶がひいらり舞っていた。
迷い込んだのか、場違いなそれは男にとって嫌悪でしかない。男は潰してやろうと衝動に突き動かされるままに手を伸ばす。
ぐちり。
確かに潰す感触がした。
幼い頃に手足をもいで遊んだ時のような暗い喜びが微かに顔に浮かぶ。
「っ、ぐ、ぅ……う゛」
と、まるで魂そのものに冷水を浴びせられたかのような寒さ。
虚脱と吐き気に思わず膝を突いた。握った手からは力が抜け指が開く。
そこから闇より黒い蝶が何事も無かったかの如くひらりと飛び立つ。
思えばそれは戦場で覚えのある感覚だ。
爛れた破滅を誘う忌むべき婆娑羅、闇に命を喰われた感覚。
どくどくと鼓動が耳のすぐ横で激しく脈打つ。
目が赤黒い闇に閉ざされそうになるのを男は必死に耐えた。
「(まさか、まさかまさか)……お、前はッまさか…ッ」
男はほとんど確信を持って言った。
小さきものを指して真逆と狼狽える男はともすれば滑稽だ。
…構わない、見る者などどうせ自身と女と『それ』だけなのだから。
男の狼狽を嘲るように蝶はひらりひらりと優雅に飛んで、女がそっと差し出した手に止まる。

…ええ…うん……そうね わかったわ

女は耳を寄せて羽ばたきを聞き、そっと言葉を吐息に乗せた。
まるで蝶と会話をするかのような様子に恐れて何も口出し出来ない。
女はぞっとするほど鮮やかな笑みを一つ浮かべ、
「あなたはもういいわ、いらない……そう、市からあいにいけばいいだけ」
「待っ……!!」
床から立ち昇る闇に呑まれて消えた。
伸ばした手は空しく届かず、後には蹲り肩を震わせる男だけが残った。

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