BBB | ナノ


05



事態は、唐突に動いていく。
今まで動きがなかったのが嘘のように、それは急変した。

「奴の情報が入った。どうやら近頃再び動き出したらしい」

ある日の朝だった。チェインさんが諜報部から持ってきた情報は、クラウスさんの目を見開かせ、スティーブンさんの表情を険しくさせた。

「敵がいつ接触してくるかわからない。外出は控えろ。どうしても出かけるときは必ず誰かに同行、または後方支援を頼んで行くように」

警戒態勢は強くなって、ハルさんは安全な事務所の中に寝泊まりすることになった。仕方ない、と笑っていたのは最初のうちだけで、少し暗い表情を浮かべ始めたハルさんは鬱憤を晴らすためか、だんだんと身体動かす鍛錬に没頭していることが多くなった。

「おはようございまーす」
「ああ、おはようレオナルド」

今日は、クラウスさんが僕を出迎えてくれた。今日も彼はパソコンでプロスフェアーに励んでいるようで、カタンカタンという駒を置く効果音が部屋に小さく響いている。
ハルさんは、いない。
キョロキョロと事務所内を見回す僕に気づいたクラウスさんは、む、と呟いてからプロスフェアーの手を止めた。

「ハルなら、今日は階下でザップと鍛錬をしているはずだ」

クラウスさんに教えてもらった通り、事務所の下にある訓練室では、珍しく鍛錬に励むザップさんと木刀で打ち合いをするハルさんがいて。
こうなるといつも、どっちかが倒れるか任務が入らないと終わらない。部屋の隅っこのベンチに座って、ソニックと戯れながら終わるのを待つ。

「オラ!もっと本気で来い!!」

今まであまりハルさんが本格的に戦うための訓練をしているのを見たことがなかったからか、あちこち駆け回りながらザップさんに打ち込んでいく姿は新鮮だった。

「おう、いたのかよ。もっと早く声かけろっつーの。そしたらお花の相手しなくてよくなったのによ」

結果は結局、大人気なく手加減をしなくなったザップさんの勝ち。ハルさんは訓練室の真ん中でゼエゼエと息をしながら大の字に倒れていて、それでも表情はサッパリとしていた。



「ハル、今月まだ定期検診行ってないだろ」

それもまた唐突だった。スティーブンさんのためにコーヒーを淹れてきたらしいハルさんが目をパチクリさせて、こくりと頷く。マグカップを受け取ってありがとな、とお礼を言いながら、スティーブンさんは続けた。

「クラウスも心配してたぞ。今日行ってこい。少年、ザップを呼んで一緒に行ってくれ」

外出を控えろと言っていた人の、掌の返しっぷりに驚きだ。僕とハルさんは顔を見合わせてから、はい、と返事をした。

「あ、忘れてないとは思うが、二人とも終わったらすぐ帰ってこいよ」



「ったくよー、なんでお花ちゃんの定期検診なんて一緒に来なきゃなんねーんだよ」
「彼女は今一人で出歩いたらダメなんですよ。分かってるんですか?」
「つーか魚類、なんでおめーもいるんだ」
「貴方だけだと病院で何しでかすか分からないからです」
「ンだと丘マーマン!!」
「あー!もう!病院でくらい喧嘩しないでくださいってば!」

大きな総合病院のロビーの中に人がたくさんいてざわざわしているからといって、大声を出せばそれなりに響くのだ。
看護師さんや医師たち、果ては患者さんやその家族たちにまで白い目で見られるのはとても恥ずかしい。
やっとケンカを収められたところに検診を終えて帰ってきたハルさんは、二人に巻き込まれて何故かボロボロの僕を見てどうしたの、と笑っていた。

「よし、帰るぞ」

少し気晴らしにコーヒーでも買いに、と提案しかけた僕を遮ったのはザップさんだ。そのままスタスタ歩いて行ってしまって、病院を出て行く。護衛があんなだから、護衛される側の僕らはおとなしくついていくしかなかった。

「あ」

帰り道、ハルさんが見ていたのは、病院と事務所の通り道にある公園。警戒が強まる前はよくザップさんやチェインさんを入れて散歩にきていたそこを見て、彼女の足はピタリと止まってしまっていた。
だってそうだ。つい何日か前までは普通にきていた公園にも来れないくらいに軟禁のような状態のハルさんが、馴染んだ場所を見てきっと何も思わないはずはない。

「ハルさん?」

一番に気づいたのは僕。なんて声をかければいいのか迷っていると、次いでツェッドさんとザップさんが立ち止まった。大きくため息をつくザップさんに、悪いことをした子供のように肩を揺らすハルさん。

「おめーはどうしたい」

ザップさんにまっすぐに目を見つめられて、ハルさんが気まずげに目を逸らす。

「閉じこもってても息が詰まるだけだろ」

そして、メモに迷いながら書いた文字は。

"歩きたい。ちょっとで良いから、散歩とか、したい"

「そうかよ」

ザップさんが、ハルさんの頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜてタバコの煙を吐く。普段はクズでどうしようもないが、ちょっとなんかかっこいい、と思ってしまう。

「っつーことでお花が公園行くっつーならちょっとタバコ切らしたからそこの店で買ってくるわ」
「やっぱサイテーだわあんた!!」

なんだやっぱり自分が席外す理由が欲しかっただけか!やっぱりさっきのは訂正だ。なんだか最近こういうことが多い気がするのは僕だけだろうか。悶々とする僕に畳み掛けるザップさんの言葉に、もっと気分が重くなる。

「ソッコーで帰ってくっからよ」
「あんたのソッコーは信用ならないよ!せめて事務所帰るまで我慢してくださいよ!ツェッドさんもこの人に何か言ってやってください...!!」

後ろにいるツェッドさんの方を向くと、彼は珍しく持たされている端末を何やらじっと見つめていた。そして顔をあげて。

「ツェッドさん?」
「...すみません、僕も今すぐ行かなければならない用事ができてしまって」
「ツェッドさんまで?!」

もう、どうしたらいいんだ。情けないが、何かあったら僕だけではハルさんを守りきれないのだ。ここは他のライブラのメンバーを呼ぶべきなのだろうか。
いろんな考えを巡らせて慌てていると、くいっと引っ張られる袖。

"すぐ帰ってくるって言ってるし、大丈夫だよ"
「でも、ザップさんですよ?ツェッドさんは信頼できますけど」
「おーおー言うようになったな陰毛頭くんよォ?」
「レオ君に喧嘩売ってる暇があるならサッサと行って帰ってきてくださいよ」
「んだとフィッシュ!!てめーも人のこと言えねえだろうが!!」
「レオ君たちはここら辺を散歩してても大丈夫ですよ。僕もよく知ってる公園ですし、すぐ見つけられますから」

ツェッドさんが指をさすのは、公園の遊歩道。ランニングをしてる人やくつろいでいる人もいて、危険はなさそうに見える。何より、ツェッドさんが大丈夫だと言うと、ザップさんよりも数百倍のなんだか安心感がある。うーん、でも、どうしよう。
そうこうしているうちに、二人はスタスタと行ってしまった。

「...少し、散歩しましょっか」

ぱあっ、とハルさんの表情が明るくなる。
やっぱり籠りっぱなしは辛かったんだろうな。
パタパタと走り出して、早く行こう、と急かすハルさんにつられて、僕も重い足を動かし始めた。



静かなことに違和感を覚えたのは、公園の道を歩き始めて数分が経った頃だった。並木道が終わって開けた場所に出てきて見渡すと、誰もいないし、やけに霧が深い。

「ハルさん」

少し手前を歩いていた彼女も、足を止める。
振り返ったハルさんの目には警戒が浮かんでいて、この違和感が本物だということに気づいた。

「やっぱり戻ろう。ここ、なんかおかしいです」

ハルさんが頷く。ここは普通の公園に見えても、混沌の街・HLの中なのだ。何が起こってもおかしくない状況に、冷や汗がどっと噴き出てくる。

「!」
「え?!」

今までやってきた道を引き返そうと踵を返した瞬間のことだった。
これまで音のひとつも立てなかったハルさんの見えない鎖が、ガチャガチャと揺れ始め、ハルさんが地面に膝をついた。
は、は、と短く息を吐くハルさんは突然の息苦しさに理解が追いついていないのか、首のあたりを指でなぞりながら呆然と僕を見ている。

そうだ、この人にも鎖は見えてないんだ。

鎖はガチャガチャという音からギチギチという音に変わってきて、本格的にこれは不味いと感じる。
何の変化も今まで起きなかったはずなのに、確実にこれはハルさんを殺そうとしていた。

「鎖が、絞まってる、大丈夫ですか?!今クラウスさんたちを...」

スマートフォンを取り出して(よかった、まだ電波はある)クラウスさんたちに直通のボタンを押し、手を握って声をかけたその瞬間。

視界の端に、あの毒々しい赤色の光がふわりと舞い降りた。

「!!!!」
「ハルさんッ!!」

身体の中に埋まっていたはずの鎖の端。それを引きずり出して握った赤色は、思いっきり引っ張って。僕とつないだ手をあっという間に引き離されたハルさんの身体は、現れた血界の眷属の足元に転がされていった。

「やあ、牙狩りの少女」

男が嗤い、ハルさんの顔が、歪んだ。




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