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「はぁ…ったく…」
濡れた前髪をかきあげて、ため息混じりに呟く。
周りにだれもいないことを何度も確認し、素の姿から、偽りの姿にと変化した。
黒髪で平凡…どちらかといえば地味な特徴のない顔した学園だけの偽りの悪魔の姿。
この姿の時、俺はルーシェ・ルイートと名乗っている。
といっても、学園で親しいものなどいないので、俺の名を知っている人間はほとんどいないかもしれない。教師ですら、怪しいものだ。
ルーシェの姿になり、ざわついた胸が落ち着くのを待って、森からぬけだし学園寮へ向かった。
努めて冷静を装って歩いていたけれど、内心はいつジェイドが現れるかビクビクだった。
逃げられた時は、ただ逃げられたことに安堵し、もうあうこともないだろ…と簡単に逃げられたことに調子づいていたが、時間がたつにつれて、本当に逃げられたのか?と漠然とした不安がよぎった。
俺をすんなり逃がしたのは、もしかしたら俺につかの間の自由を与えただけで、逃げられたとほっと安堵したのをあざ笑うかのように捕まえにくるんじゃないか…。
逃がして少しの自由に喜んでいる俺の反応を楽しんでいるんじゃないかって。
そう、ジェイドに監禁されていた時も、ジェイドはよくそんなことを繰り返していた。
逃げ出せたと思っても、また簡単に捕まってしまうのではないかと身構えてしまう。
あの腹が黒い天使は、時折逃げ出せそうな場面《シチュエーション》を作っては、ギリギリのところで逃がさず絶望を与える。
そう、逃げようともがく獲物をあざ笑うかのように…。
絶望した顔を楽しんでいるかのように、わざと俺を逃がしていたから。
『見つけた…。
ねぇ、ジル。僕から逃げ出せると思ったの?逃げ出して、どうするの…?
僕を、おいて…』
俺が逃げ出す度にジェイドはどこか壊れたような冷たい笑みを浮かべた。
冷たくて、悲しそうな、笑みを。
『ジル…、無理だよ…。
僕から逃げることなんてできないんだよ…。
だって、僕はこんなに君を必要としているのだから…。君が僕のそばからいなくなったら、僕は…』
冷たい手で、俺の頬をなでてたジェイド。
いやがる俺に、何度も口づけを送り、痕を残していた。
ただ、好き。
好きなだけだった。
なのに、純粋な愛は狂気となり、ドス黒く心をむしばんでいく。
一度裏切られた心は、簡単にジェイドの愛をすんなりと受け入れることができず、その愛を拒絶した。
好き。
愛してる。
そう、なにも知らずにただ愛を告げることができる間柄のままだったら、どれだけ楽だっただろう。
誰にも邪魔されないまま、愛を育んでいけたら、きっとあんな狂気にとらわれたジェイドを知ることはなかったかもしれない。
インキュバスの俺に幻滅することはあっても、あそこまでの狂気に陥ることはなかったと思うのだ。
『これは…逃げたお仕置きだから…』
今はついていないけれど、ジェイドは監禁中は俺のペニスにリングをつけていた。
射精すらリングによって塞ぎ止められて自分の意志では射精できないように。
狂おしいほどの快感を塞ぎ止められて、意志の弱い俺は流されるようにジェイドに「いかせて…」と懇願していた。
逃げ出さないように首につけられた鎖。
胸には卑猥に動く淫具。
あいつは俺を縛り付けた。
もう二度と逃げ出さないように…君を僕から離れぬよう調教するよ…といって。
『…ジル…。ねぇ…誓って。
もう、僕の元から離れないと。僕のものだけでいると…。どこにもいかないと…』
懇願するジェイドに対し俺は唾を吐き暴言を吐く。
そんな日が何日も続いて…、それで…ー。
「ねぇ…、君…」
道すがら、ぼんやり昔のことを思い出していた俺に、背後から声をかけられた。
はっとして顔をあげて後ろを振り返る。
「ちょっと聞きたいんだけど…」
「え…っと…」
「ああ。ごめんね、いきなり声をかけて…。
ちょっと人を捜していて…」
そういって、優雅に俺に近づいてくる人。
声をかけた人を思わずまじまじ…と見つめてしまう。
その人は学園では有名人で…でも、接点はなくて俺にとって噂だけの人であったから…。
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